第45話 アナスタシアの情熱
アナスタシアの両手が震えていた。
孔明の書置きに愕然としていた。
「キミ達はこのことを知っていたのか?」
ルーシーとハモンドを前にして、アナスタシアは落ち着き払って尋ねた。
「
「そうか。ハモンドは何か知っているか?」
「申し訳ありません」
とハモンドは頭を下げた。
「こんなことをされるとは考えていなかったのですが……軍師殿には、ここ三ヶ月ばかり、恥ずかしながら剣の指南をしていました」
「で、何か言っていたか?」
「いえ、何も話してくれませんでした。ただ、アナスタシア様には内緒とだけ……」
(準備していたのだな…わたしに隠れて…)
アナスタシアは肩を落とした。
(孔明。キミは……スルーズを選んだと言うことか?)
「アナスタシア様」
ルーシーに声を掛けられ、アナスタシアは気を取り直した。
「なんだ?」
「孔明様はきっと帰ってきます。ほら、置手紙にもあるじゃないですか。
ルーシーは励まそうとしてくれたのだろう。
「そうだな」
アナスタシアは笑顔で答えるしかなかった。
約束を
(何かあったのかもしれない)
いくらハモンドに剣を習ったとは言え、たった三ヶ月で会得出来る剣技など、高が知れている。
居ても立ってもいられず、アナスタシアもエルミタージュを飛び出す決心をした。
一人で出立の準備をしていると、
「わたしも同事させていただきます」
とルーシーは問答無用とばかりアナスタシアの前に立ちはだかった。
「水臭いですね、アナスタシア様は。わたしも付いていきますよ」
とハモンドが笑った。
「ゲルマン王国に潜り込むんだぞ」
「知っています」
何事もない顔でルーシーは答え、その隣に立つハモンドは相変わらず笑っていた。
「そうか」
アナスタシアは少し安堵した。
一人旅のつもりだったが、彼らが傍にいるとやはり心強い。
「ありがとう」
アナスタシアが差し出した右手に二人の右手が重なった。
黙ったままの出立ではルーシー達にその責が及ぶかもしれないと思い、皇帝ニコラスにはルクルト―ルへの視察を願い出た。
アナスタシアの諸侯への視察は時々あったから、ニコラスも怪しむ事なく許可を出してくれた。
(ルクルト―ル…)
アナスタシアの斥候の情報から割り出した孔明の足取りだった。
孔明らしき黒髪黒瞳の男が、単身ルクルト―ルからゲルマン王国に向かったと、情報をもたらした。
旅立ちを明日に控えたその日、アナスタシアはマリータウンに足を運んだ。
街はほぼ完成していた。
最貧困層なんて言葉は最早死語でしかなかった。
だが、貧困層がまだ残っている。
アナスタシアはマリータウンの外れに見える貧困街に目をやった。
マリータウンが出来た事で、貧困街の建物の見すぼらしさが、際立つ結果となってしまった。
ルシファーと最貧困層の撲滅を優先事項としていたので、正直な話、貧困層には目を向けていなかった。
建物に住みその日暮らしながらも、何とか生活を維持していたので、後回しになってしまったが、この地区の住民も決して豊かではなかった。
(孔明……まだ、終わってないのだぞ…)
アナスタシアはその横顔を思い浮かべ、深く息を吸い込んで吐いた。
「アナスタシア皇女殿下?」
と声を掛けられ振り返ると、シャルルとミシェールがいた。
「ああ、キミ達か。元気だったか?」
「ええ。アナスタシア様のお陰で、マイストールは潤い、人々の生活も楽になりました」
「それはわたしではなく、孔明のお陰であろう。ところで今日は何用だ?」
「はい。少し孔明に相談したいことがありまして…」
「ああ、そうなのか…。折角来たのに、孔明は不在なのだ」
「あぁ……、そ、そうだったんですか。失礼いたしました」
シャルルはまだ何か聞きたそうだったが、皇女への不敬と考えたのか、深々と頭を下げると背中を向けた。
「待て」
アナスタシアはシャルル達を呼び止めた。
そして孔明が出奔した事実だけを伝えた。
「つまり、斥候に出たまま戻って来ないスルーズを探して、孔明が帝都を出たと言うことなんですね」
「ああ、その解釈で間違いない」
「あの……」
とミシェールが遠慮気味にアナスタシアの顔色を窺った。
「どうかしたのか? 忌憚なく申してみよ」
「はい。実は……」
ミシェールはシャルルを照れたような顔で見た。
シャルルが頷くとミシェールも頷いた。
「わたし達結婚することになりました」
「そうなのか!」
アナスタシアの顔がパッと咲いた。
「素晴らしいじゃないか。あぁ、そうか、それを孔明に告げたかったのだな」
「ええ。挙式に付いて、相談事がありましたが、それよりも孔明様とスルーズ様の消息が心配です」
「わたしもです」
とシャルルが一歩踏み出した。
「二人の捜索隊にわたし達も加わりたいのですが、よろしいでしょうか?」
「ありがたい申し出だが、いいのか? キミ達は?」
「孔明無くして今のわたし達はありません。未来への道を開いてくれた彼のためにやれることはしたいんです。どうか、ご同行させてください」
「敵対国に乗り込むのだぞ。危険は伴うぞ。それでも行くと言うのか?」
「はい。孔明はわたしの親友ですから」
「分かった」
アナスタシアは微笑み頷いた。
「五人くらいなら怪しまれずに潜入できる筈だ。何が起こるか分からないから、それは覚悟しておいてくれ」
二人とも大きく頷いた。
アナスタシアは
あの夜とは四か月前の舞踏会の事だ。
アナスタシアはスルーズの美しさ、そのスタイルの良さに嫉妬した。
孔明とのダンスの見事なコンビネーションを目の当たりにして、愕然としたアナスタシアは一人会場を飛び出し、たまたま出くわせた一人の侍女の手を掴んだ。
「どうなさったのですか?」
「キミのドレスを貸してもらえないだろうか」
「えっ? どういうことでしょうか?!」
皇女殿下に手を掴まれただけでも驚いているのに、いきなりドレスを貸して欲しいと言われては、侍女は訳が分からず困惑していた。
「わたしと体格が似ているキミのドレスを借りたいのだ。お願いだ」
「ドレスは持っていますが、とてもとても、皇女殿下がお手に触れるに値しない粗雑なドレスです」
「構わない。とにかく急いでいる。今からキミの部屋で着替えたいのだが、ダメだろうか」
アナスタシアの困った顔を見て何かを察したのか、侍女は「承知いたしました」とその手を引いて走り出した。
アナスタシアが会場に戻ると、人の輪の真ん中で孔明とスルーズがフィニッシュを決めて、拍手喝采を浴びていた。
「おや、あのご婦人は……!? アナスタシア様だ!」
と一人の声に入口近くの紳士淑女が振り返った。
「アナスタシア様が…ドレスを召されていますわ」
「本当だ。アナスタシア様のドレス姿なんて、十年ぶりくらいだろうか」
「でもあのドレス、装飾品を一切付けてないぞ」
「必要ないでしょ。アナスタシア様はこの通りおキレイなんだから、シンプルなそのドレスが、却ってアナスタシア様の美を引き出している感じだよ」
やがて会場全体がドレス姿のアナスタシアの存在に気付き、鳴り止みかけた賛美と拍手が再び喝采した。
会場の雰囲気に軽い興奮を覚えたアナスタシアは、その勢いで孔明の前に進み出たのだ。
「孔明、わたしと踊ってくれないか…」
アナスタシアは自分でも分かる程、顔が熱くなっていた。
あの夜の事を思い出すだけで、今でもアナスタシアは顔が赤くなる。
我ながら大胆な事をしたものだと思う。
バルコニーで孔明と二人でいるうちにアナスタシアの乙女心が
(孔明が好き……)
アナスタシアは孔明の手を引くと、勢いそのまま唇を重ねていた。
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