第43話 孔明の旅立ち





  必ず帰ってまいります。

  一月ひとつきだけ ぼくの不在をお許しください

                    孔明


 短い置手紙だけ残していた。

 アナスタシアには黙ったままの旅路だった。

 話せばアナスタシアは協力してくれただろう。だが、大袈裟な団体旅行になってしまうのは目に見えていた。

 出来る限り隠密に事を運びたかった。 

 

 葵は今、走竜にまたがり、北西に進路を取っていた。

 走竜を乗りこなすスルーズの技術も当然ながらシンクロナイズされている。

 馬車での移動は乗り物酔いする葵だが、何故か走竜には酔わなかった。

(ありがたい)

 葵の腰にはメテオラ鉱石で作らせた剣を帯びている。

 メテオライガーと名付けたその剣は、並の人間では振れない重さだが、パワースーツを着用した葵なら問題なく振り回せた。

 とは言え、このスーツは重量負荷を激減させるだけだ。

 瞬発力などの身体能力には何の影響も与えない。

 だから、アナスタシアには内緒で、ハモンドに剣の指南を頼んでいた。

「いやあ、今まで剣を握ったことがないなんて信じられません。軍師殿には優れた才能が眠っていますよ」

 それもその筈、スルーズの剣技が葵の頭の中に叩き込まれているのだ。

 問題となるのは、掛け離れて低い葵の身体能力が、スルーズの剣技に届かない事だ。

 だからこの日のために修練を怠らなかった。

 最貧困層全員がマリータウンに住居を持った事で、街開発には一区切りつけていたし、紅茶の加工とコーヒー豆の焙煎はマイストールの分も含めて、二ヶ月分のストックがあった。

 葵の持つ幾つかの店舗の運営は各店長に任せた。

 マリータウンに置ける後顧の憂いはなく、出立の準備は整った。

 葵は、スルーズがいなくなって三ヶ月の間、単に月日を過ごしてきた訳ではなかったのだ。

 葵がアナスタシアに恋心を抱いているのは間違いなかった。

 だけど、それとは違う愛情を、スルーズに抱いているのも事実だった。

(ロゼ、キミにはいなくなって欲しくない)

 その思いをどう表現していいのか葵には分からなかった。


 スルーズの記憶を頼りに追跡を始めた葵は、先日訪れたレブリトール領の左隣に位置する、ルクルト―ル領からロマノフ帝国領を出国し、三キロ先の城門を目指した。

 ゲルマン王国領アトライカに隣接するゲルマン王国領ミラジオだ。

 ミラジオの城門を目指したのは理由があった。

 ここは、役人に金貨一枚を握らせるだけで、大した取り調べもなく入国する事が出来たからだ。

(スルーズの記憶の通りだな)

 これから先スルーズが何処に向かったのかは、葵にも分からなかった。

 スルーズの記憶を探っても、位置を特定するには至らなかったが、ゲルマン王国にいるのは間違いないと踏んでいた。

 アサシンスタイルでは怪しまれるし、その髪と瞳の色をさらせば、忌み嫌われるバルキュリアとすぐばれてしまう。

 だが今は、亜麻色のカツラとブルーコンタクトレンズがあるから、堂々とゲルマン王国内を歩けるのだ。

 

 葵は要塞都市ミラジオの市街地に足を踏み入れた。

 雑然とした薄汚れた建物が並ぶ街の住民は、心なしかみな暗い表情に見えた。

 風が吹く裏路地の前を通ると、葵は鼻を突く匂いに襲われた。

(これは最貧民地区の匂いだ……!)

「お兄さん、何でもいいから食べ物をおくれよ」

「あんた、何か恵んでくれないか」

「少しでいいからお金をちょうだい」

 決していい身なりをしているわけではないのに、物乞いが寄ってくる。

 そしてその数の多さにも愕然とした。

 殆どは未成年だった。

 ロマノフ帝国の全てを知っている訳ではなかったが、帝都はもちろんマイストールやレブリトールでも、物乞いを見た事はなかった。

 スルーズの記憶で見知ってはいたが、実際五感に触れて見ると、スルーズの記憶よりも過酷だと感じた。

 ミラジオの繁華街に出た。

 しかしここでも市民に活気はなかった。

 行き交う人は多けれど、道路の側面に数多あまた並ぶ店先で、立ち止まる人影は少なかった。

 それに店頭に並べてある品数の少なさにも驚いた。

(スルーズの記憶では商店の品数はもっと豊富だったはずだ)

 野菜・果物・肉などの食料の値札を一瞥したが、いずれも帝都エルミタージュの三倍から四倍の値段だった。

(食糧事情が悪いのか?)

 先日のロマノフ帝国への無理な進攻の理由はこれなのかもしれないと、葵は漠然とそう思った。


「野菜が高いね」

 と葵は目についた八百屋の店先で立ち止まった。

「そうなんだよ」

 三十前後の女が溜息混じりにそう言った。

「あんた、旅の人かい?」

 と葵の黒い髪と黒い瞳を交互に見ていた。

「ええ。アルビオン王国の、そのまた東から流れて来たんだよ」

「ああ、道理でね…」

 女はもう一度葵の黒髪黒瞳を見て納得したように頷いた。

「この辺で黒髪なんていないからね」

「よく言われますよ」

 と葵は笑って見せた後、

「この野菜はアルビオンで売っている物より、三倍も高いですね」

 葵がそう言うと、女はもう一度溜息を吐いた。

「食料は以前から高騰していたんだけどね。このまえ王国の馬鹿共が、ロマノフ帝国を攻撃したのはいいが、返り討ちにあってさあ……。当然と言えば当然なんだけど、賠償金を支払わされたんだよ。そのお金は何処から支払われたと思う?」

「さあ、分かりません」

 想像するに難くなかったが、敢えて惚けて見せた。

「わたしら市民からだよ」

(やっぱりな……アナスタシア様が懸念された通りだ)

「税金が納められず店を売る物が続出したのさ。当然店で働いていた者も仕事を無くし、一気に物乞いが街に溢れたのさ」

「他の都市もそうなのか?」

「わたしが売るこの野菜は、隣りのアトライカ産なんだよ。わたしの両親が住んでいてね。つまりわたしの実家だよ。だから野菜も分けてくれるんだけど、夜中に盗みに来る奴がいて、半分は持っていかれたって、ボヤいていたよ。多分あっちも良くないと思うよ」

 葵はあまり好きではないが、情報料とばかり、トマト(?)を三つ買って銅貨六十枚を支払った。

「兄さん、ありがとう。気を付けていくんだよ。街の外に行くならギルドに相談して護衛を付けた方がいいよ。城郭都市から一歩外は無法地帯だと思うに越したことないよ」

「ありがとう、お姉さん」

 お姉さん、が効いたのか、女は満面の笑みで手を振った。


 ミラジオから内地に入る者は素通りだった。

 葵はここから丸一日掛かるを目指す事にした。

 そこにいるとは限らない。

 本当に斥候として潜入しているのであれば、首都・プロシアンにいる可能性の方が高かった。

(もしぼくがロゼの立場だったらどうだろう?)

 アナスタシアがウエディングドレスを着て他の男に嫁いだ後も、果たして葵は、今まで通り彼女の傍にいられるだろうか。

 スルーズとシンクロする以前の葵だったら、恋する事もなかった筈だから、流されるままアナスタシアに仕え続けていただろう。

(でも、今は違う)

 他の男に向けるアナスタシアの笑顔など、見るに堪えないだろう。

 そうなった時、葵が頼れる場所は、召喚の地であるマイストールになるだろう。

(ロゼはきっと、あの地に向かったはずだ)

 葵は、スルーズが走り慣れたその・バルキュリーに向かって走竜を走らせた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る