第42話 失踪のスルーズ





 三ヶ月が過ぎた。

 総勢十八万人の人海戦術で、最貧困地区はスラム街から高級ニュータウンへと変貌を遂げた。

 開発地区の名称は、アナスタシアが猛反対したにも関わらず、満場一致でマリータウンと決まった。

「扇動者はキミであろう」

 アナスタシアは葵を睨んだ。

「ぼくではありませんよ。ぼくはアナスタシアシティって言ったんですよ」

「ぼらみろ。やっぱりキミだ」

 確かに葵のネーミングは長過ぎると言う事で却下されたが、開発地区の住民は誰しもアナスタシアにちなんだ名前を付けたいと思っていた。

 だから短くて親しみやすいセカンドネームの『マリー』を採用したのだ。

 開発地区の基盤となった中央公園の人造湖畔は、植樹ではあるが緑豊かな森に変わっていた。

 人造湖の名称は『コーメーレイク』と、仕返しとばかりアナスタシアが命名した。

 コーメーレイクは葵が理想とした夫婦・家族、それに友達や恋人が気楽にやって来て語らえる、安らぎの場になっていた。

 コーメーレイクの湖畔を臨む最高の立地条件もあって、葵が経営するカフェ・ド・マイストールは大繁盛だった。

 当初日中だけでいいかと思って、五時間労働で二交代十時間の営業時間だったのが、三交代の十五時間営業となった。

 開発地区のスタッフには、水を凍らせるB級水魔法の使い手が多かったので、

「アイスも作ろう」

 と試しで販売してみたら、こっちの売り上げの方が大きくなった。

 もともと忙しかったのに、火に油を注いだが如く、更に繁忙を極めた。

 常に十人態勢だった接客スタッフが、今では二十人体制になり、カフェ・ド・マイストールのエルミタージ店のスタッフ総人数は百人を超えていた。

 エルミタージュ店と言うのだから本店は言わずと知れたマイストールである。

 マイストールは独自の店舗名を持っていたが、統一した方がいいと、シャルルがカフェ・ド・マイストール本店を襲名したのだ。

 紅茶の原料となる茶葉は、マイストールにしかなく、コーヒーの原料となるコーヒーの実はエルミタージュ外れの熱帯ジャングルにしかない。お互いの特産品を物々交換する事で、交流を持っていたし、新作のレシピは全て本店にも公開していた。

 表向き本店・支店としているがフランチャイズではなかった。

 基本的にどちらも独立経営しているが、エルミタージュ店のクオリティを基準にしているので、実質的な本店要素はエルミタージュの方が強かった。

 もっとも、葵とシャルルの間にそんな小さな拘りなどはなかった。

 カフェ・ド・マイストール目当てに、近隣諸侯や富裕層の観光客が後を絶たず、マイストールも潤っているとシャルルは話していた。

 カフェ・ド・マイストール・エルミタージュ店の隣りは薬局だ。

 葵の持っていた薬をコピー魔法で増産して販売している。スタッフには隔離施設で働いてくれたコピー魔法の使い手を雇ったが、能力がなくても熱意のあるものは接客スタッフとして雇用した。

 葵の店の集客は、同時にショッピングモール全体の収益にも繋がった。



 葵は湖畔の森のベンチでアイスコーヒー片手に、きれいな湖面を眺めていた。

 しばらくしてやって来たアナスタシアが、アイスレモンティを持って、葵の隣りに座った。

「公務はよろしいのですか?」

「ああ、早く片付いたのでな」

「すみませんでした」

「何を謝るのだ?」

「アナスタシア様の側近なのに、私事わたくしごとを優先させてしまって」

「何を言ってる。キミは公費を稼いでくれているのだぞ。それを私用とは呼ばないぞ」

「ありがとうございます」

 緩やかな風が吹く。

 時折目に触れる木漏れ日が、妙に心地よい。

 住み着いた水鳥達が、気持ちよさそうに湖面で行水をしていた。

「孔明、覚えているか?」

 アナスタシアが静かに口を開いた。

「バリオス近郊の森の湖で、コーヒーを飲んだことを…」

「ええ、覚えていますよ」

「開発地区をこのようにしたいと、話していたな」

「はい」

「わたしはこの風景に満足している。キミはどうだ?」

「自信はありました。でも、アナスタシア様に気に入って頂けるかどうかは少し不安でした」

 葵が少し眉をしかめて言うと、アナスタシアは可笑しそうに笑った。

「策士のキミらしくもないな」

 アナスタシアはレモンティを飲んだ後、スーッと息を吸い込み、そして吐いた。

「風が運ぶ草木の匂いも、目を潤す水の美しさも、わたしが夢に描いていた風景と遜色ないのだ。理想で終わると思っていた物が、今わたしの目の前にあると思うと、とても感慨深いものだな」

「アナスタシア様にそう言って頂けるだけで、尽力した甲斐がありましたよ」

「すべてはキミのお陰だよ。ありがとう、孔明。わたしはそんなキミに何で返せばいいんだろう」

「何もいりませんよ。そのお言葉で充分です」

 舞踏会の夜の口づけは、もしかしたらそう言うつもりだったのかと、葵は思った。

 あれから三ヶ月経つが、あの日以来アナスタシアと唇を重ねる事はなかった。

「スルーズにはすまないことをした。すべてわたしの責任だ」

「いいえ。そんなんじゃありませんよ。スルーズはゲルマン王国のその後の動きを調べるため、隠密調査に出かけたのですから」

「本当にそうならいいのだが……」

 アナスタシアの懸念は、そのタイミングを考えると、あながち憶測とは言い切れなかった。


 舞踏会の二日後、開発地区の視察に訪れた時、スルーズは突然と言った形でそれを口にしたのだ。

「しばらくここを離れて、ゲルマン王国に潜入してまいります」

「斥候ならすでに潜入させてるよ」

「でも、わたしの方が土地勘もありますし、動けますから」

「いや、キミ一人では…」

「一人の方がいいです。仲間は足手まといになります」

「ロゼ、もう少し…」

「お願いです。少し一人にさせてください」

 そう言ってその場を離れたきり、スルーズは帰って来なかった。

 黄色の魔石を以て何度も尋ねたがスルーズからの返事は来なかった。


 スルーズ失踪の理由についていろいろ考えてみたが、それでも以外に考えられなかった。

 それはアナスタシアも同じだったに違いない。

(キスしたところを見られていた……)

 そう考えた方が納得がいく。

 葵だって朴念仁ぼくねんじんではない。

 スルーズの気持ちくらい、とっくに感づいていた。

 だが葵は、スルーズのそんな気持ちには答えられなかった。

(ぼくはアナスタシア様が好きだ)

 身分の違いを考えれば、アナスタシアと恋仲になる事は到底不可能なくらい分かっているが、心に思うことは誰にも止められないのだ。

 だけど……。

(このままにはしたくない。スルーズには恩があるんだ)


 元居た世界では抱く事のなかった、怒り・悲しみ・喜び、そして恋心……。

 でもそれらは、こちらの世界に来たからと言って突然芽生えたものではなかった。

 スルーズとシンクロした時、彼女の心が抱いていたすべての感情が、葵の心に植え付けられたのだ。

 スルーズがいなくなって葵は、初めてその事に気が付いた。

 そうなのだ。葵の心はスルーズの心だった。

 スルーズがいなくなって気が付いた事はもう一つあった。

「葵様、お早うございます」

 と真っ先に朝の挨拶をしてくれるのも、

「お休みなさい、葵様」

 と就寝の挨拶をしてくれるのも、いずれもスルーズだった。

 苦境に遭っても笑ってやり過ごしている、そんな葵の心内を誰よりも察してくれていた。

 助けられなかった命に心が折れそうな時は、何も言わず抱きとめてくれた。

 敵に囲まれてもスルーズがいるだけで怖くなかった。

 たった一人の異世界もスルーズがいつも傍にいてくれたから寂しくなかった。

 数え上げればきりがない。

(ロゼ……寂しくてどうにかなってしまいそうだよ)

 それでも、アナスタシアに抱く恋心は、やはり否定できない。

(だけど……)

 心を共有した葵の半身とも言えるスルーズは、何にも代え難き大切な存在である事に変わりはなかった。

 スルーズのいなくなった左は、今や溜息のたまり場でしかなかった。



「キミのセカンドネームなのか?」

 とアナスタシアが突然尋ねた。色々と考えあぐねていた様子だ。

「すまない、それだけでは分からないな。スルーズがキミのことと呼んでいるだろ?」

「ああ、そのことですか」

 葵は残っていたアイスコーヒーを飲み干した。

「ぼくの居た世界での名前です。ぼくの本名です」

「そうか。訳あって孔明と名乗っているんだな。理由は聞かないとするが、本名を教えてくれないか」

「はい。桐葉葵きりはあおいと言います」

「きりは…あおい」

「ええ。諸葛亮孔明は、元居た世界の歴史上の天才軍師の名前なんです。言わばぼくの憧れの御仁なんですよ」

「そうだったのか。とは言っても、今更桐葉葵とは名乗れないな。キミは今まで通り諸葛亮孔明でいいじゃないか。わたしもこれまで通り孔明と呼ぶよ」

 そこまで言った時、アナスタシアは少し強張こわばった顔で立ち上がった。

 葵はアナスタシアを見上げた。

「だが、然るべき時が来れば、キミを本名で呼ぶことになるだろう」

 意味深な言葉を残すと、アナスタシアは孔明に背中を向けた。

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