第41話 ファーストキス





 開発地区の工事は、最貧困層総出と言う事もあって、中央公園地区の周辺の建設工事は、予定よりも早く完成していた。

 人造湖周辺の緑地帯はまだまだ手付かずだが、人造湖周辺の建物は内装工事を残すのみだった。

 とは言え、高額で買い取った店舗の持ち主たちは、すでに内装工事を終えた者もいて、いつから商売を始めようか、ウズウズしている様子だった。

「ルーシー、ありがとう。キミのお陰だよ」

 葵が言うと、ルーシーは何か言いた気に、葵の顔を何度も見た。

「どうかしたのかい?」

「あの、この前アナスタシア様に聞いたのですが…」

「うん」

「カフェオレも作れるというのは本当ですか?」

(成程)

 と葵は何となく分かった。

 マイストールでカフェオレを提供した時、ルーシーだけがミルクティよりもカフェオレの方がいいと言っていたのを思い出した。

「今も、ぼくのリュックの中にあるよ。コーヒーもお店のメニューに加える予定だから、今から店で作ってあげようか?」

「わあ、ありがとうございます」

 いつもは沈着冷静なのに、こんなに顔をほころばせて喜ぶルーシーを見るのは初めてだった。

「コーヒー? カフェオレ? 何ですかそれ?」

 ハモンドが首を突っ込んだ。

「キミも飲むか? 心が豊かになる飲み物だ」

 アナスタシアはご機嫌だった。

 アナスタシアへの恩賞金は、国境の戦いでの死傷者への見舞金を支払ってもなお、開発地区への十分な投資額となったからだ。

 費用は全てゲルマン王国の賠償金からまかなっている。商人たちの出資もあるし、開発地区の経費にアナスタシアの私財は、もう必要なかった。

 それでもアナスタシアは憂いを感じていた。

「仕掛けてきたゲルマン王国に非があるのは明白だが、これらのお金は国民の血税だからな。ゲルマンの国民には大変申し訳ない気がするのだ。彼らが更なる税金を搾り取られなければいいのだが…」

 そんなアナスタシアの声を聴くたびに葵は遣り切れなくなる。

 アナスタシアのその優しさが、却って自らの身を危うくさせるのではないかと、葵は懸念を抱くのだ。

「とにかくお店に行きましょうか」 

 と葵が切り出した。

「店の名前はなんて言うのですか?」

 スルーズが聞いた。

「キミなら分かるんじゃないのか?」

「そうですね。マイストール…とか?」

「ほぼ正解。カフェ・ド・マイストールだよ」

「いいと思いますよ」

 スルーズは穏やかな顔を見せた。

 順調良く行ったのは開発地区だけではない。

 ルシファー隔離施設には今は誰もいなかった。

 施設を退院した七万人近くの者が、今ではメテオラ採掘場で仕事に励んでいた。

 それでも二万人近い人間の命が失われた。

 その現場を担当してきた者にはそれなりの恩賞を支給している。

 ルーシーもその一人だった。

 彼女も多くの人々の死を目前にして、助けられなかった事へのジレンマに心を痛めたに違いない。

 彼女のふとした仕草の中に、以前は見られなかった哀愁を感じたからだ。


 ほとんど完成しているカフェ・ド・マイストールに四人は入店した。

 葵は真っ先にルーシーにミルクたっぷりのカフェオレを入れた。

「あの、わたしよりアナスタシア様が…」

「よいのだ。キミに先に飲んで欲しいのだ。キミはここと、隔離施設を守ってくれたのだから」

 アナスタシアがそう言いかけた途中から、ルーシーは涙をポロポロ流し、そして号泣した。

 毎日大勢の人の命を見送って来たのだ。心理的ストレスは過大なものだったに違いない。

「ルーシー。キミの気持ちはよく分かるよ。施設にいる時ぼくも、沢山の人の死を見て来たから…。助けると約束した命を、助けられなかったんだから……。辛かったよね。でも、キミは立派に任務を果たしてくれた。ありがとう、ルーシー」

「孔明さまぁ……」

「すまなかったね、キミ一人にすべてを背負わせてしまって」

「ルーシー! すまなかった!」

 アナスタシアがルーシーを抱きしめた。

 そしてしばらくアナスタシアとルーシーは抱き合ったまま号泣した。


 人間は溜めてばかりでは壊れてしまう。吐き出さなくてはならないのだ。

 その一つの手段が涙だ。

 泣くだけ泣いたルーシーは少しほっとした顔になっていた。

 葵が冷めかけたカフェオレを引き上げようとすると、

「頂きます」

 とルーシーが葵より先にカップを手に取り、口に含んだ。

「あぁ…美味しい」

 ほっと溜息を吐いた。

「以前頂いたものより、遥かに美味しいですわ」

「孔明が入れたものだからな」

 アナスタシアが涙を拭いながらそう言って笑った。

「ルーシー、いくらでもお替りはありますよ。クッキーもね」

「孔明、ルーシーにばっかりずるいぞ」

 場をなごませようとねて見せるアナスタシアに、葵も笑って答えた。

「分かりました。アナスタシア様はミルクティでしたね」

「もちろんだ。孔明の入れたミルクティは最高だ」

「ありがとうございます。それでスルーズは何がいい?」

「そうですね……」

 と少し考えて、

「新作のティを考案中とのことでしたね。できますか?」

「ああ、シナモンティだね。大丈夫。材料はちゃんと調達してきてある」

「新作があるのか? ぜひ試してみたい」

 とアナスタシアが食いつく。

「もう一つ新作のレモンティもありますよ」

 山の南斜面の日当たりのいい場所に、レモンに似た柑橘系の果物を見つけたのだ。 

「気になるではないか。お願いだ。すべて試させてくれないか」

 と言う事で、カフェオレとコーヒー。ミルクティとシナモンティとレモンティを少量だが、人数分作って飲み比べて見る事にした。

 初めてそれらを口にするハモンドは、期待通りの反応を見せてくれた。

 新作はルーシーやスルーズにも好評だった。

 そしてそんな彼女たちに交じって楽しそうに笑う、青いフリースジャケットを着た男装のアナスタシアの横顔に、葵は二日前の舞踏会を思い出していた。




 舞踏会と勲章授与式後の晩餐会の時、アナスタシアが葵を誘ってバルコニーに出た。

 夜のとばりが下りる神秘的な瞬間だった。

 三千メートルの高地にあるエルミタージュは熱帯でありながら気候は通年温暖だ。

 クロノスの世界にその概念はないが、ここは近くに位置していた。

 それでも夜になると流石に三千メートルの高地だ。肌寒さを感じる。

 少し震えるアナスタシアに、葵はリュックから取り出した青色のフリースジャケットを、彼女に掛けた。

「ありがとう、孔明」

「どういたしまして」

「この素材、気持ちいい」

 アナスタシアはフリース部分を頬に当てて肌触りを確かめていた。

「お気に召しましたか?」

「ああ。こんな柔らかい肌触り、初めてだ。キミの世界の素材なのか?」

「はい」

「ずっと触れていたくなるような、優しい肌触りだ」

「もしよろしければ、差し上げますが」

「いいのか?」

「高価なものではないですよ。それにぼくの男臭い匂いがお気に召さないかも…」

「そんなことはない」

 そう言ってアナスタシアは、顔をジャケットで覆い、軽く息を吸い込んだ。

「孔明の匂いは、嫌いじゃない。いや、好きだ……大好きだ…」

 言いながら葵の腕を引き寄せると、アナスタシアはいきなり顔を近づけ、唇を重ねて来た。

 アナスタシアの唇がむさぼるように吸い付いてきた。

 それはまるで、舞踏会の続きのような、激しく情熱的な唇の律動だった。

 葵には初めての事だった。

「作法は間違っていなかっただろうか……」

 唇を離した後、俯き加減のアナスタシアが聞いた。

「初めてだったのですか?」

 ふと出た言葉に葵は「しまった」と思った。緊張のあまり出た禁句だった。

「ああ。キミが初めてだ」

 アナスタシアはとがめるでなく、普段通りの言葉で返してきた。

「キミと出会った時から…そう決めていたのだ。キミは……イヤだったか?」

「そんなわけないでしょ? 突然なんで驚いただけです。あなたこそ、ぼくのような男で良かったのですか?」

 葵がそう言うとアナスタシアは再び唇を寄せてきた。

 今度は静かな、甘い口づけだった。

「孔明。自分を卑下しないでくれ。次期皇帝とか、異世界人とか、そういったものは全て払拭して考えてもらいたい。わたしをキミと同じ一人の人間として、接して欲しいのだ」

 そう言うとアナスタシアは葵の肩に頬を落とした。

 葵は自分の両腕をどうしていいのか分からず、立ち尽くしたままだった。



(あのキスは、どういうつもりだったんだろう)

 葵はアナスタシアの言動をあれこれ詮索しすぎて、却って訳が分からなくなっていた。

(アナスタシア様はぼくを好きなんだろうか)

 単純に考えたらそうだが、恋に落ちると人は愚かになる。

 冷静な思考で物事を見れなくなるのは、葵も同じだった。

 そんな葵に対して、みんなと笑顔で接するアナスタシアはいつも通りに見えた。

(やはり、ぼくを通してトーマス兄さんを見ているのだろうか)

 胸の中に芽生えたアナスタシアへの思いと、掴めない彼女の心内との狭間に立たされた葵は、言いようのない焦燥感に駆られていた。

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