第39話 兄の面影
横たわる葵の右手を、アナスタシアは両手で握りながら、その額を押し当てていた。
「キミを失うかと思った……」
アナスタシアの黒髪が揺らいでいた。
「わたしは卑怯者だ」
「アナスタシア様…何を?」
「わたしは人殺しが怖くて出来ないのに、その役目を皆に押し付け……それなのにわたし自身は、怯えて動けなくなってしまった。そればかりか……不甲斐ないわたしのせいで…キミを死なせてしまう所だった……すまない…」
「アナスタシア様、ぼくは生きてますよ」
「それでもだ。一つ間違っていればキミは死んでいたかもしれない。臆病者の皇女の身代わりになって……!」
アナスタシアはベッドのシーツを握りしめた。
「もう、何一つ失いたくない。敵をせん滅してでも大切な者を守ると、そう誓ったはずなのに……! いざとなったら何もできなかった……わたしは何も守れなかった……わたしは、意気地なしなのだ……」
葵は体を震わせるアナスタシアの肩に手を乗せた。
「アナスタシア様、ぼくは戦う事が出来ません。剣の握り方すら知らないのです。こんなぼくがもし敵陣目がけて突っ込んでいったら、間違いなく瞬殺されます」
アナスタシアが顔を上げたので葵は笑顔を見せた。
「でもぼくは、軍勢を率いての戦いなら、負ける気がしません。剣を交えての戦いはすべてスルーズが担ってくれます。ぼくはいつも安全なところから戦局を眺めていますが、誰もぼくを卑怯者とか意気地なしとは呼ばないでしょ? だって、ぼくに出来るのは大局を以て大軍を動かすことで、剣を持って突撃する事ことではないんです」
アナスタシアは小さく頷いた。
「それと同じことです。アナスタシア様は直接人を殺める必要はないんです。剣を振るう人、食料を運ぶ人、怪我人を救護する人…そして幕僚で采配を振るう人など…それぞれに役割があるのです。軍を一つの歯車と考えてみてください。それぞれが違った動きをしているようで、連動した動きの中で、最終的には同じ目的に向かって仕事をしている訳です。アナスタシア様の役目は軍を導くことです。あなたが掲げる旗の下に人を集め、ぼくには軍略を命じ、スルーズに抜剣を命じて下さればいいのです。出来ないことは出来る人がすればいいんです」
アナスタシア様、と葵は彼女を見つめた。
「一人で背負い込まないようにと、この前申し上げたじゃないですか。あなたにそんな顔されると、ぼくのしたことは無意味なことのように感じてしまいます。だってぼくは、体を張って次期皇帝継承者を守ったんですよ。これって大変誉れなことじゃないんですか?」
「孔明…」
「アナスタシア様を守れたことはぼくの誇りなんですから」
「ありがとう、孔明」
アナスタシアは天井に顔を上げて涙を拭った。
「泣いてばかりでは次期皇帝継承者の名折れだな。わたしはこれからアトライカの撤退を決めてくる」
アナスタシアは
「恐らく反対されるでしょうね。ぼくも一緒に………イッ!」
起き上がろうとしたが、背中に痛みが走った。
「無理するでない。孔明は休んでくれ」
アナスタシアは体を近づけ、葵の耳元でそっと
「キミの献策を生かして領主達を説得するのは皇女たるわたしの仕事だ。違うか?」
「はい。その通りです」
「わたしはこれから皇女たる仕事をしてくる。安心して待っていてくれ」
「一つアドバイスがあります」
「なんだ?」
「ゲルマン王国に対して、アトライカの撤退条件として、ソドニア進攻の即時中止を引き合いに出されることを進言いたします。ゲルマン王国はきっとそれに応じてくれます」
「わたしもそう思う。三キロも先から矢が飛んできたわけだ。相手方にしてみれば脅威になったであろう。それと、キミのその能力について、改めてゆっくり聞かせて欲しいものだ」
アナスタシアはそう言って葵の体から離れ際に、一瞬だが頬と頬を密着させて、素早く部屋を出て行った。
アナスタシアの頬の余韻に浸っていると、ハモンドが入って来た。
「スルーズ殿がアナスタシア様に付いて行かれましたので、わたしが軍師殿の警護に残りました」
「そうなんだね。ありがとう」
笑顔で答える葵の顔を、マジマジと見つめるハモンドがいた。
「どうかしたのかい?」
「ああ、いいえ、すいません…」
と頭を掻いたが、ハモンドは何か言いたげだった。
「何かあるんだろ? 話して欲しいな」
葵がそう言うとハモンドは穏やかな笑みを浮かべ、何度か頷いて見せた。
「やっぱり、トーマス様に似ていますね」
トーマスとはトーマス・ミラー・ロマノフ、つまりアナスタシアの兄の事だと想像は出来たが、ここは
「トーマス?」
「ええ。アナスタシア様の兄上です」
「兄上様がいたんですか? 一度ご挨拶しないと」
「いえ、今はいません。戦死なさいました」
葵は沈黙して見せた。
ハモンドはその後トーマスについてあれこれと語ったが、葵の承知の範囲だった。
概要を述べた後、ハモンドは兄妹の間柄に付いて話し出した。
「アナスタシア様はトーマス様のことをとても慕っていました。そのトーマス様と軍師殿はよく似ているのです。お顔そのものではなく、言葉遣いや穏やかな物腰が、とてもよくトーマス様に似ているのです」
剣を持たない優しい方だったと、ハモンドは話した。
「軍師殿がやってこられてから、アナスタシア様はとても変わられましたよ。アナスタシア様は人に甘えることをしないお方でしたが、軍師殿といると、まるでトーマス様と接しているのかと思える程、近くに寄り添うのですよ。ああ、これだけじゃわかりませんよね。アナスタシア様はあまり傍に男性を寄せ付けない方なんです。それなのに、軍師殿には自分から寄り添っているでしょ? 軍師殿に甘えているんですよ、アナスタシア様は」
「ぼくにトーマス兄さんの面影を見ているってことかい?」
「さあ、それは分かりませんが、遠からず当たっていると思います」
ですから、とハモンドは真面目な顔になった。
「これからもアナスタシア様の支えになってあげてださい。アナスタシア様は何でもご自分で背負おうとしてしまう方なんです」
「ああ、分かるよ。ぼくもそう思う」
「でも、軍師殿にだけは違う顔を見せてくれます。眠っている軍師殿の横で小さな女の子のように震えている、あんなアナスタシア様を見るのは、トーマス様が戦死した時以来です」
「キミはアナスタシア様を大切に思っているんだね」
「ええ…まあ…それもありますが…」
ハモンドは歯切れ悪く言葉を濁した後、
「わたしはトーマス様を守れなかったんです」
と唇を噛んだ。
「わたしは十二歳でした。でも、成り立てとは言え当時のわたしはA級シュバリエでした。ですが、バルキュリアのすさまじい攻撃に恐れをなして、トーマス様が斬られる所を、立ち尽くしたまま見ていただけなんです」
そのすぐ後に駆けつけたS級一位のヒルーデ・アイ・レーニエ男爵が、短槍でそのバルキュリアを撃退したと言う。
「軍師殿を見ているとわたしまで、トーマス様の生まれ変わりでは…と思えてくるのです」
わたしは最貧民層の出身です、とハモンドは言った。
「軍師殿は今、わたしの生まれ育ったあの土地を素晴らしい街に変えようとしてくれています。それはアナスタシア様だけでなくトーマス様にとっても悲願だったのです。わたしも、ずっとずっと、軍師殿にはお礼を申し上げたいと思っておりました」
そう言ってハモンドは深く頭を下げた。
「ありがとうございました。わたしハモンド・グリーデンは今日より、この命に代えても、軍師殿をお守りするとお約束いたします」
「ありがとう、ハモンド。でもキミの配属はこの戦いまでだから、もう役目は果たしているよ」
「いえ、違います」
ハモンドは胸ポケットから何やら取り出した。
「出していた配属願いが聞き届けられて、本日付で正式にアナスタシア様直属の護衛となりました。つまり、軍師殿もそれに含まれると言うわけです」
何処となくユーモアを感じさせる彼にも、真っ直ぐ一本通った筋があった。
(この世界の人は、どうしてこうも実直なんだろう)
もし最初からこの世界の住民として生まれていたなら、葵はきっと心豊かに育ったに違いないと思った。
そしてアナスタシアが自分にい抱いている思いが、兄の幻影である事に、少なからず心が沈んでしまった。
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