第38話 アトライカの陥落





 レビリアの正門を出たアナスタシア率いる四千の兵は、開門されてあるアトライカの正門に突撃した。

 言うまでもなく、アトライカの城門を開けたのはスルーズである。

「葵様」

 アサシンスタイルのスルーズが傍に駆け寄った。

「無事だったか。よかったよ。キミのことだから大丈夫だと思っていたけど、それでも心配だった」

「ご心配おかけしました」

 とスルーズは口元を一瞬緩めたが、すぐさま身構えた。

 ここは戦場なのだ。 

 スルーズの情報通り、ゲルマン王国アトライカの兵士達は殆どが戦えない状態だった。

 それでも彼らは、足を引きずりながらも剣を振りかざして抵抗した。

「ゲルマン軍に告ぐ! 無駄な殺戮はしたくない! 速やかに全員投降してくれ!」

 アナスタシアは向かって来る敵を駆逐しながら、大声を上げてゲルマン軍に訴えかけていた。

 だが、彼らにも彼らの誇りがあるのだろう。

 投降する者はいなかった。

 アナスタシアは背後から斬り込んで来た敵を、かわしきれず反射的に斬りつけた。

 返り血を浴びたアナスタシアの顔に恐怖が見て取れた。

 崩れそうになるアナスタシアを葵とスルーズが抱きとめた。

 視点の定まらない目を中空に向けるアナスタシアの体が震えていた。

《人を殺すのは初めてだと思います》

 そう言うスルーズ目がけて、フラフラしながらも切り込んでくる兵士達がいたが、スルーズはまとめて瞬殺した。

《わたしはすでに何百、いえ何千の人を殺めてまいりました》

 スルーズは葵に背中を向けたままだった。

「ううっ…」

 アナスタシアが斬った若い兵士はまだ息があった。

 男が鎧を身に着けていた事と、殺傷に躊躇ためらったアナスタシアの一撃は致命傷にはならなかったようだ。

「アナスタシア様、お気を確かに」

「ああ、すまない…取り乱してしまった」

 アナスタシアが自力で立つのを見届けると、葵は倒れている兵の隣りに腰を屈めた。

「ぼくは医者だ。診てやる」

 まずは相手を安心させないといけなかった。

 若い男は頷いて見せた。

 鎧を外して傷を診た。

 左肩の僧帽筋から大胸筋に掛けて二十センチくらいの切れ目が走っていた。重症ではあるが、傷の深さは臓器にまで達していなかった。

(この男を殺してはいけない)

 葵はリュックからトキソイドと注射器を取り出して、筋肉に注射した。

 男は抵抗しようとしたが、

「キミを殺したくない。これは破傷風の薬だ」

 こっちの世界に、破傷風と言う言葉が通じるかどうかは分からなかったが、男は葵の目を見て頷いた。

「殺し合いは好まない。だが、キミ達がぼく達に仕掛けて来るなら、迎え撃たないといけなくなる。剣を捨てて欲しい」

 末端の兵士かも知れない若い男に、そう言い聞かせた所で、戦局には何ら影響しない。

 分かっているが、その男を助けるのは、アナスタシアのためだった。

(その手を汚させてはいけない。アナスタシア様は聖女でなくてはならないんだ)

 注射の後、葵は傷口にワセリンを塗り、食品用のラップで上半身をグルグル巻きにした。

「これで大丈夫だ。キミにも待っている人がいるんだろ? 投降してくれないか」

 葵がそう言うと、若い男は涙ぐんだ目で大きく頷き、備えていた武器をすべて投げ捨てた。

「アナスタシア様。あなたが斬りつけた兵士は無事です。お気を確かに保ってください」

「孔明、すまない…」

 アナスタシアは葵の胸に顔を埋めて少女のようにすすり泣いた。

「わたしは…わたしは…」

「もう大丈夫です」

 葵はアナスタシアをそっと胸に抱きしめた。

「アナスタシア様。あなたが傷ついてはいけない、身も心も…」

 と、その時だった。

 抱きとめるアナスタシアの背後から弓を引く者を見止めた。

(………!!)

 葵は咄嗟にアナスタシアを庇って体を入れ替えた。

 風を切る弓の音がした瞬間、葵は背中に激痛を感じた。

「葵様!!」

 それを見ていたスルーズが、疾風の如く駆け、弓を射た者を葬った。

「孔明…? ……!!」

 葵の背中に刺さった矢に気付いたアナスタシアが目を大きく見開いた。

「孔明……しっかりしろ!! ……死ぬな孔明…! 死なないでくれ……!!」

「大丈夫です……アナスタシア様。ぼくは……」

 葵は取り乱すアナスタシアに微笑みかけた後、意識を失った。



 孔明が目を覚ました時、頭の上に三つの人影があった。

 ハモンドとスルーズ。それにアナスタシアだった。

「葵様……!!」

 亜麻色の髪のスルーズが葵の手を握っていた。

 背中まであったスルーズの髪が、首が見える程に短くなっていた。

「どうしたんだその髪…」

 と言いかけた所で、葵は何となくその理由が読めた。

 スルーズのその髪は、付けた者の手でないと外せない魔法封じの髪なのだから。

(敵の魔法封じに使ったんだね)

 葵はいびつに切り取られたスルーズの髪に手を伸ばした。

「起き上がれるようになったら、揃えてあげようか? ぼくでよければだけど」

「ありがとうございます。でもね、わたしのことより、今はご自分の心配なさってください」

 咎めるようなスルーズの口調だった。

(そうだった。ぼくは弓でいられたんだ)

「心配かけてごめんね」

「ですから…ご自分の心配を…」

 言いかけてスルーズは口元を押さえた。

 そんな湿っぽい空気を払拭するかのように、

「軍師様。傷は浅いですよ」

 とハモンドが元気な声でそう言った。

「敵のげんを引く力が弱かったのが幸いしたようです」

 葵は先程から黙っているアナスタシアに目をやった。

 葵を見降ろしてはいるが、目線を合わせてこなかった。

「アナスタシア様」

 葵が声を掛けるとアナスタシアはビクッとして目を合わせた。

「ゲルマン軍との戦いは、その後どうなりましたか?」

「ああ。アトライカの市長が全面降伏して、戦いは終結した。後はレビリアを統治するライデン・ベルク・レビリア男爵が交渉準備に入り、スワトル・ピーター・レブリトール辺境伯の到着を待って、正式に占領下に置く事を決めるだろう」

「統治ですか……難しいですね」

 葵の言葉にアナスタシアも大きく頷いた。

「アトライカの城壁を隔てた両隣の要塞都市が黙っているわけがない。それに対抗するための残存兵力は、レビリアはもちろん、レブリトールにもない。どうすればいいと思う?」

「撤退しかないですね」

「本気で言っているのか? せっかく取り得た領土を、見す見す敵の手に返すと言うのか?」

「はい」

「……まあ、キミが言うのだから、何か考えがあっての事だろう」

 葵は小さく笑みを見せた。

「ぼくのいた国は、一度戦争に負けて都市は焦土と化しました。敵の罠に乗せられて、防衛可能ラインを超えて何処までも領土を広げていったのです。ぼくの国は日本と言って資源も人口も対戦国には及ばないのに、敵国を凌ぐ領土を手に入れたのですが、それは一時的なものでした。戦力を分散され、手薄になった所で総攻撃を加えられたのです」

「それでどうなった?」

「いたる所で日本軍は玉砕し、前線を下げながら、防戦一方の戦いの中で、元々の領土も多くの国民の命も亡くした挙句、敵に無条件降伏したのです」

「その戦いはキミも参戦したのか?」

 葵は笑って首を横に振った。

「いいえ、それはぼくの曽祖父の頃の話です。今ではその国とは友好関係にあります。それはともかく、似ていると思いませんか? この状況」

 と葵は話を続けた。

「今ここでアトライカを占領すれば、それを守るためにバリオス三要塞を含むレブリトール領内の兵力を分散しなければなりません。ロマノフ帝国からの増援がとどこおりなく行われたらいいですが、上手くいかなかった時、その隙を突かれて、備えのある敵に進攻されたとしたら……一挙にバリオス地方まで奪われてしまうかもしれないのです」

「ああ、成程…」

「今回のような突発的な占領を功としてはいけません。占領するための下準備が整い、意図的な占領政策を以て敵地を陥れたのであれば、計画の範疇なので問題はありませんが、今回は……違うのです。こんな展開は念頭にはなかった筈です。ぼくの居た世界に「火中の栗を拾う」と言うことわざがありますが、まさに今がそうだと思います。拾ってはいけません。きっと大火傷をしますよ」

「分かった。キミの進言に納得がいった」

「たとえこのままアトライカを放棄しても、十分過ぎる戦果は残せた筈です。アトライカの城壁内部はもう、彼らにとって安全な場所ではなくなってしまったのですから」

「確かにそうですね」

 とスルーズが笑った。

「三キロも離れた所から射られた矢とOCガスは、アトライカの兵には忘れることの出来ないトラウマとなったことでしょうね」

 スルーズの言葉にハモンドも笑ったが、一人アナスタシアだけが沈んだままだった。


 しばらくして意を決したようにアナスタシアが口を開いた。

「すまないが、孔明と二人にしてはくれないか」

 スルーズが葵を見た。

 葵が小さく頷くと、スルーズは相槌を打った。

「それでは、失礼いたします」

 スルーズが背中を向けると、ハモンドもそれに続いて部屋を出た。

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