第11話 アナスタシアの憂鬱





 ロマノフ帝国・帝都エルミタージュ。

 帝城・皇女の部屋。


 アナスタシア・マリー・ロマノフ皇女が自室で執務に当たっていると、筆頭侍女・ルーシー・エルモンドが部屋のドアを二回ノックして入って来た。


「マイストールの商人ギルド長とその幹部たちが、保護を求めてエルミタージュに逃れて参りました」

 マイストールを治めていたゴーランド男爵が暴徒の襲撃に合い、家族や家臣を逃がして、自ら犠牲になったと聞いていた。

「男爵をかたるシャルル・ロイ・マイストールなる者が、各ギルドの権限を奪い、それに反発した者達がマイストールから逃れてきたようです」

 アナスタシアは長く伸びた黒髪を掻き上げ、ルーシーに黒い瞳を向けた。

「その話、少し一方的すぎないか?」

「と、言いますと?」

「マイストールは、マイストール家が何百年に渡って統治する領土と聞く。そのシャルル・ロイ・マイストールという者は名前からして、マイストール家所縁ゆかりの者ではないのか?」

「つまり、その者が本来の領主だとおっしゃりたいのですね」

「それにゴーランドは元々家臣だったと聞く。つまりクーデターによって追われていたマイストール家の縁者が、領地を取り返したと考えた方が理解に苦しまなくて済む」

「アナスタシア様は、家臣だった者が先日まで領主に取って代わっていたと、お考えなのですか? 仮にそうだったとしても、帝国がそれを許すわけないと思うのですが」

「残念ながら…」

 アナスタシアは溜息をついた。

「認めたくないが、今の帝国は贈収賄ぞうしゅうわいがまかり通っている。腐敗が帝国全土を侵食し始めている気がするのだ。帝都の幹部の誰かにお金を握らせたとすれば、地方都市のクーデターのもみ消しなど造作もないことだ」

「実はそのことで、陛下からの書簡と伝言を預かってまいりました」

 ルーシーはアナスタシアにロマノフ帝国皇帝ニコラス・ダリ・ロマノフの書簡を手渡した。

 アナスタシアは受け取った書簡を開封せず机の上に置いた。

「その話の後でこの書簡か……大体の想像はつく」

 アナスタシアの黒い瞳がルーシーを見た。

「わたしにシャルル・ロイ・マイストールを討伐せよと言うのだな」

「お察しの通りです」 

 とルーシーは首を垂れた。

「マイストールの総戦力は千名程なので、三千の兵力を持って当たれとのことです」

「わたしに拒否権はないのだろ?」

「はい…でも、それは陛下がアナスタシア様を思ってのことにございます」

「分かっている。武功でも上げさせて、次期皇帝の布石にしたいのだろうな、父上は」

「…はい」

「そんな心配そうな顔をするな。父上に逆らうつもりはない。兵を整えたらすぐさま出立すると伝えておいてくれ」

「承知いたしました。陛下にはそのようにお伝えいたします」

 ルーシーはそれだけ言うと部屋を出て行った。


「はぁ……」

 アナスタシアは深くため息をついた。

(……罪無き者を処断するのは、気が引けるな…)

「スルーズすまない。キミ達の力にはなれなかった……」

 誰に見せるでなく、アナスタシアは胸に手を当てていた。



 アナスタシアは窓越しに帝都エルミタージュの街並みを見下ろした。

 他国からの観光客が絶えない美しく洗練された帝都だ。

 各地に湧水が溢れ、都民の憩いの森が数ヵ所にある。

 ギルドや集合住宅がぎっしり詰まった他の都市とは違って、建物に間隔を開け、緑を取り入れたゆとりの空間を意識して作られたユートピアと呼ぶに相応しい。

 だが、そんな帝都にも闇の部分はある。

 公的にはいないとされる貧困層が、実際には存在していた。


 アナスタシアは五十メートルも高さのある城壁の一角に目をやった。

 狭い空間に貧困層が集まって暮らす最貧民街・貧民街と呼ばれる地域だった。

 貧民層はボロボロでも屋根のある家に住んでいた。

 貧民街と呼ばれても、物の売り買いなど、人間同士の営みがあった。

 だが、流浪民である最貧民層は家を持たない。ボロ布やテントで暮らしていて、貧民層のようなと呼べる商店の集まりなど、殆ど存在しなかった。

(わたしの母の育った場所だ)


 アナスタシアの母・アマンダはココットだった。

 ココットとは上流貴族相手の娼婦の事だ。

 ココットは側室になれない下級貴族の娘が、上流貴族専用の娼館に入り、貴族のとぎをする。

 普段は口を利く事も許されない侯爵や伯爵といった上流貴族とが叶う唯一の機会でもあった。

 まれに見初められて側室に迎えられる事もあった。

 嫁ぎ先の限られた下流貴族の娘が、ココットに身を置く理由がそれだ。

 生まれた子供が万が一にも跡継ぎに選ばれなどしたら、上流貴族妃として盤石の人生を歩む事が出来るのだ。


 そういう意味でアマンダは、ココットと呼べないのかもしれない。

 アマンダは貴族ではないから娼館に入っていなかった。

 詳しい話は知らないが、アマンダはパンゲア大陸東方からの流浪の民らしい。

 戦火を逃れてアマンダの両親と共に帝都エルミタージュに辿り着いたと聞いている。

 

 しばらくは家族三人で、最貧民街で仲良く暮らしていたようだ。

 ところがある時、皇帝直属の兵が家族のもとにやってきて、当時皇太子だったニコラス・ダリ・ロマノフの前に十六歳のアマンダが引き立てられたのだ。 

 ロマノフ帝国は代々黒髪と黒い瞳を持つ者が帝位をつくと定められているが、帝国内に黒髪・黒瞳こくどうを持つ人間はいない、と言い切っても差し支えないだろう。

 先代の皇帝までは他国に僅かにいる黒髪・黒瞳の娘を、跡継ぎを産むための単なる媒体として、金で買ったり、時には誘拐などして調達していた。

 そう、調達していた…と呼ぶにふさわしい、としての扱いだった。

 

 跡継ぎを産んだからといって、媒体には何の権力も地位も発生しなかった。

 歴代の王の中には、不要になった途端、帝都を放逐された者も少なくなかった。殺された者もいたという。

 王妃になれる家柄は、公爵以上の上流貴族に限られていた。

 貴族のはしくれであれば側室にも入れよう。

 流浪人のアマンダには市民権すらなく、奴隷同様の身分だったから、側室にすら入れなかった。


 ニコラス皇太子はすでに、正室と十人の側室を迎えていた。

 それぞれに程よい寵愛を示し、後宮に波風を立てないようにしていた事は、義母であるミランダ王妃より聞かされていた。

 ニコラスも当初は、先帝の命に逆らえず気が進まないまま、アマンダを側室に加えないココットとして後宮の別邸に住まわせていた。

 

 暇つぶしくらいに思ったのだろう。

 別邸に来て十日程経った頃、ニコラスが初めて姿を見せたとアマンダが話していた。

 選りすぐりの美女が集まる後宮を知るニコラスから見れば、アマンダの容姿は取り立てて賛美するには至らなかったようだ。

 ニコラスは美には飽きていたのだ。

 だが、アマンダはニコラスが求める美とは違う物を持っていた。


 ニコラスはアマンダが話す色んな国々や都市の風土に大いに興味を持ったようだ。

 人々の暮らしであり、戦争によって失うものの大きさであり、人間の愚かさや優しさを、まるで叙事詩のように語り聞かせたという。


 ニコラスは毎晩のようアマンダを訪ねるようになっていた。

 時に優しく、時に厳しく。

 冷徹でいて、感傷的になる。

 話し上手のアマンダにニコラスは益々に惹かれていった。

 

 その一方、アマンダは流れ者であったが故、ニコラスの寵愛を受けたにも関わらず、市民権すら得るには至らなかった。

 とはいえアマンダは、皇太子を約束されたトーマス・ミラー・ロマノフとアナスタシアを産んだ事で、帝都エルミタージュ内にある皇太子別邸で二人の子供の傍使そばつかいとして、働くことを許された。

 二人の子供の傍にいられるのはニコラス皇太子の配慮だったのかもしれない。

 アマンダは爵位こそ与えられなかったが、皇太子宮殿内での居心地は悪くなかったようだ。

 身分は低くても皇太子母なのだ。

 周囲が意識しない訳にはいかなかっただろう。  


 だが、幸せな日々はそう長くは続かなかった。

 アナスタシアが八歳の時、祖父母(アマンダの両親)が亡くなった。

 最貧困層で発生した疫病の犠牲になったというのだ。


「わたしの即位がもう少し早ければ、惨事が起きる前にそなたの両親を宮廷に呼び寄せられたのに……すまないことをした」

 心優しきニコラスは、アマンダとアナスタシアを抱き寄せた。

 ニコラスが皇帝に即位したのは、先帝ダリウスの崩御二十日後。アナスタシアの祖父母が疫病で亡くなる三日前だった。


 アマンダは気を取り直して、両親が暮らしていた最貧困層・貧困層の救済に尽力した。人々に優しかった二人へのせめてもの手向けのつもりだった。

 だが……。

 嘆き悲しむアマンダの下に更なる不幸が襲った。

 アナスタシアが九歳になったばかりの頃、八つ年上の兄で皇太子のトーマス・ミラー・ロマノフが国境の城塞都市・レブリトールでゲルマン王国の奇襲に逢い、戦死したのだ。

 

 その悲報を受けたアマンダはショックのあまり寝込んでしまい、アナスタシアが十歳になる数日前に息を引き取ったのだった。



(母上……)

 アナスタシアはアマンダの形見ともいえる自分の黒髪を指でいた。

 そして窓越しに貧困層の一角にもう一度目をやった。

(あなたの意志はわたしが受け継いでいますよ)

 母が亡くなった後は、アナスタシアが貧困層の衣食住の支援を、公費を使わずに続けていた。

(だけど……)

 アナスタシアが引き継いで七年になるが、支援はいつまで経っても支援の域を超えなかった。

(根本的に何かが間違っているのだ)

 それは分かっている。

 だが、アナスタシアは救済するすべを知らなかった。


 それに目前の課題もあった。

 マイストール進攻は、結局の所、帝国に利はないし、帝国国民であるマイストールの市民達を苦しめるだけに終わってしまうのだ。

(人々を救うにはどうしたらいいのだろう)

 自分に欠けているものが見えなかった。

 アナスタシアは己の無能さ・無力さを痛感した。

(誰か、わたしに力を貸して欲しい……)

 アナスタシアは天を仰ぐ事しか出来なかった。


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