九月六日、土曜日、午前七時

 モエちゃんと一緒にホテルを出る。部屋の鍵を持ったまま出てしまい、慌てて戻って返す。

「また来るかもしれませんがね……」

 と自嘲気味に言ってしまう。

 アベ夫妻とも待ち合わせていたので、四人で相乗りし空港へ。この連帯感はなんだろう。同朋、同邦。しかしながら他人行儀なところもあって、いかにも日本人だと思った。

 毎度のことながら、空港の人は増える一方。これで僕の優先順位は後だというのだから、気が遠くなる。それに空模様は昨日と変わらず。しかし、南の空には微かに陽光のかけらのようなものが見え、僕はその光に向かって祈った。

 これまた毎度のことながら、その辺の女性係員にEチケットを見せる。今度は少し対応が違った。

「あら、この日付。向こうに進むといいわ」

 と言う。どうやら、この九月三日のチケットの人が優先されるらしく、保安検査所を抜けるといい、と。これはどこか、昨日までとは勝手が違う。もしかしたら。また、南に向かって祈った。このとこをモエちゃんとアベ夫妻に伝えると、僕は一人とりあえず、保安検査所を抜けた。また会えると思っていた。

 検査所を抜けると、既に大勢の人だった。事務所に行って、日本に帰らなければ行けないこと、持病の薬がもうないこととを伝えると、じゃあ直接チケットカウンターに行きなさい、と諭された。もう僕は半分泣いている。それを堪えて、列を無視してカウンターへ。

「九月三日のチケットの方ー!」

 と係員が大きく叫ぶ。

「はい! はい!」

 柄にもなく大きな声を出してアピールする。しかしこの混乱の中でなかなかスムーズにはいかない。僕の前にはデリー方面と思しきインド人のおばちゃんが陣取っていて、ずっと動かない。相当ふてぶてしく、早くあたしのチケットを!と、声を荒げて譲らない。

 それでもその混乱の中、僕はなんだかんだでデリー行きのチケットを手に入れた。しかし安心してはいけない。チケットの入手なら昨日まで毎回できていたことだ。当たり前だが、デリーからの飛行機がここに着かない限り、僕はデリーに帰れない。しかし一段落。事務所に行って、欠航証明書を発行してもらうことにした。どうやらここで発行できるらしい。相変わらず大勢の人なので、順番を待っていると、先ほどの女性係員が僕のチケットを見て、

「まあ! チケットを手に入れたの! ラッキーね。よかったじゃない!」

 と興奮気味。そんなにすごいことなのかと思いつつ、僕は笑顔で頷く。ほどなくして、欠航証明書は発行された。少しずつだが、困難はクリアしていっている。あとは飛行機の到着を待つのみ。

 ここで僕は浮かれているが、気がかりはスンホとモエちゃんとアベ夫妻。もし今日このままデリーに帰られるなら、僕は四人ともう会えないかもしれない。このインド旅行記を書くことは決まっていたので、是非とも彼らにはこの文章を読んでほしかったのだが。どうせまた欠航、と思っていた僕は、またレー市街へと戻る車中ででも住所を聞いておこうくらいに考えていた。

 そんなことを考えているうちに、エア・インディアのお客様は待合室へどうぞ、のアナウンスが。これは昨日まではなかったことだ。昨日までは、チケット入手後、ずっとその先には進めずに「キャンセレーション」の言葉に肩を落としていたのだ。しかし今日はその先、待合室まで進む。簡単なボディ・チェックと荷物検査を済ませ、待合室へ。

 今回は違う。毎回、何時何分にデリーからの飛行機が到着予定ですと言われ、それが裏切り続けられてきた。それがもしかしたら、今回は。また祈る。祈れば祈るほど、涙が押さえきれなくなる。なんの涙か分からないが、とにかく感極まるとはこのことなのだろうか。

 一時間ほど待っていると、先ほどのふてぶてしいおばさんと目が合う。お互い顔を覚えていたらしく、助けてもらうことにした。彼女はそのご主人と二人で、デリーに帰るところだった。僕と同じ便のチケットを持っている。「飛ぶんですよね?」と確認すると、ああ、そうさ、と答えるが、僕はほとんど信用していない。今まで三度も裏切られてきたのだ。

 待合室は、例のごとく約半分が欧米人。どうやら、九月三日のチケットの人しかいないようで、日本人は僕一人。半分に割って飲んでいるとはいえ、薬の効き目はほぼなく、つらい頭痛がする。そして情緒不安定。飛行機が飛んだときのことを思うと涙が出てくる。

 思えば、もうとっくに日本でゆっくりしているところだ。明日から仕事か、などと考えているところだ。

 インドではいろいろなことがあった。先ずこの国のエネルギーにに圧倒され、コンノートプレイスでは耳かき職人に出会い、映画を観、バラナシではラジュたちと出会い、あこがれのガンガーにも浸かった。悠久の仏陀に想いを巡らせ、コルビュジエの魂に想いを馳せた。レーでの暖かい人々との出会いもあった。何日もここにいると、同じく足止めを食らっている様々な人々と出会った。梅宮辰夫似の係員、デヴィッド・バーン似のドイツ人とその家族、スンホ、モエちゃん、アベ夫妻。シアーラのママも懐かしい。チャイまでただにしてくれたっけ。運転手とも仲良くなった。また来年、ね。必ず。

 その想いは僕の心を癒してくれる。この人たちの存在が今の僕の支えになってくれている。一人きりだったらと思うと、気が遠くなる。彼ら彼女らこそ、インドでの僕の宝なのだ。

「ナニサガシテルノ?」

 その言葉に今なら答えられるかもしれない。


 そのうちに、この待合室では、飛行機の到着への期待がいや増しに増していた。人々の熱気は静かに燃え上がっていた。もう飛行機の到着は確実のようだ。

ここの窓からは滑走路が見えるのだが、そこには多くの人が今か今かと待ち構えている。

 ああ、これで終わりなのだ。さらに一時間ほどそう考えていると、

 ゴーーーーー。

 轟音が聞こえる。まさかと思ったが、やはり飛行機だ。エア・インディアが到着したのだ。室内は異常な盛り上がりである。口笛、拍手、歓声、怒号、悲鳴、ピーピー、パチパチ、グオー、ドー、キャー……。抱き合う人々、握手する人々、ハイタッチする人、欧米人の盛り上がり方で盛り上がる。

 ああ、本当に終わった。すべては終わった。ありがとう。なにに感謝するのかわからないが、とにかく、ありがとう、という想いが湧く。そこらじゅうの人と抱き合いたかったが、僕は涙をこらえるのに必死だった。ふてぶてしいインド人おばさんがこちらを見て微笑む。

 二番ゲートの列に並ぶ。二番ゲートが開く。チケットをもぎってくれたのは梅宮辰夫似の係員だった。

「よかったな」

「ありがとう!」

 と交わす。あなたのおかげだ。

 飛行機までのバスに乗り込む。着いて、飛行機乗り込む。指定の席につく。

 ウーーーーン。

 エンジンが回転し始める。

 シートベルト着用サインがともる。

 飛行機が右に旋回する。それに伴って窓の外の風景も回転する。遠く空港建物が見える。

 ご搭乗ありがとうございます、当機は何時何分レー空港発、何時何分インディラ・ガンジー国際空港着、フライト時間は……。毎度お決まりのアナウンスが流れる。

 機体は進む。本滑走路へと進む。

 加速する。加速する。加速する。

 離陸する。

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