九月五日、金曜日、午前七時

 本来なら、もう能登の自宅にいる頃だ。しかし依然として、僕はこの標高三五〇〇メートルのチベットの山奥に閉じ込められている。これが永遠に続く責め苦のように思える。

 約束の時間に韓国人カップルはやってきた。しかし、タクシーに乗ったのはスンホだけで、彼女の方はまだ滞在予定らしく、別れた。後で聞いたところによると、二人はともに韓国人だが、このレーで出会って、安くなるからと同じホテルの同じ部屋に泊まっているのだという。どちらも独身。おやおや。

 空港に着くと、昨日よりはさらに多い人。結論からいって、今日も欠航だった。スンホは不機嫌である。また、いつものように、オフィスに行って、話をつけ、帰ることにする。

 そこで、スンホがアジア人に声をかけていた。女の子二人組で、日本人だった。

 日本人!

 日本食と同様、特に恋しかったわけではない日本人だが、この状況でこうして出会ってみると、嬉しいものである。二週間ぶりに日本語を話した。二人はここで出会った他人どうしらしく、ともに今日の便に乗る予定だった。そのうち一人とスンホと僕の三人で、また相乗りで中心部へと向かう。

 車中、話していると、シアーラ・ゲストハウスは料金が高いらしい。なんせ温水シャワーが使えるのだ。ここでは少し高級なホテルにしかその機能はない。いろいろ話して仲良くなったことだし、これからの連絡の取り合いもスムーズだろうからと、僕もその日本人の女の子が泊まっているのと同じホテルに泊まることにした。シアーラのママの顔が懐かしいが、また何泊もするのかと考えたら、惜しいがそうすることにした。スンホは元の彼女が待つホテルへと向かった。

 このホテルは一泊四五〇ルピー。シアーラが一〇〇〇ルピーだったから半分以下である。その分、温水シャワーは出ないが、それ以外は申し分ない。入り口にあるテーブルとその椅子にまたアジア人を見かけた。彼女に聞くと、ここに泊まっている中国人だという。後で分かったことなのだが、レー初日に王宮で出会った彼である。

 昼食は彼女と共にすることにした。その道で彼女の名をモエというのだと知った。二十一歳。僕はオトワキだと名乗った。「なんと呼べばいいですか?」と言われたが、そういうのは恥ずかしくてなんとも言えない。モエちゃんは、かわいらしい顔立ちで、小柄、こぎれいな服と髪、とてもインド一人旅というのはにわかには信じがたい。僕の少ない荷物を見て「ヤバい」とさえ言っていた。インドにはかれこれ一ヶ月半ほどいるという。この華奢な風貌で、すごい。恐れ入った。

 しかしモエちゃんはかなり弱っている様子だ。僕も欠航初日はそうだった。なにもかもが憂鬱で、一生このチベットで暮らすのかとさえ思える。その気持ちはよくわかる。そう伝えても、彼女は癒されるわけではなさそうだったが。

 憂鬱になっても腹は減る。入った店は《ヌードルバー・チョップスティック》。すっかりここでの食事はアジアの食に定着してしまった。そもそもここでのカレーは美味しそうでない。僕も僕で大変だが、もう慣れた。なんとかしようと思う。しかしモエちゃんも大変である。日本へと帰る便は海外の航空会社らしく、電話でなんとかなるかといわれれば、少し難しいのではないかと思われる。電話での英会話というのは、思いの外難しく、伝わりづらいのは身振り手振りや表情が伝わらないだけでないように思われる。僕が変わってあげられればいいのだが、そこまでの能力はない。結局モエちゃんは、ここの旅行会社に聞いてみることにした。僕はまた国際電話の「仕事」がある。また、今日で確実に能登での本当の仕事に間に合わないことが決まったので、社長に連絡をしなければいけない。

 とにかくいつ帰られるか分からないので、帰国後の諸々はすべて未定とした。

今度は、帰国後に必要な「欠航証明書」を手に入れなければならないことに気づく。それはどこで手に入れればいいのだろうかと考えたが、レー市内にあるエア・インディアのオフィスを訪ねてみることにした。『地球の歩き方』の地図にそれが載っていたので、そこと思われる場所に行ったのだが、小さなおんぼろ小屋しかなく、古くさい錠前がかかっている。周囲の店の人に聞いても、「エア・インディアのオフィスなら空港」らしい。またその小屋に戻ると、また新たな日本人二人組と出会った。夫婦で、アベという名前だった。歳は三十代か。空港で僕を見かけていたらしく、声をかけてくれた。アベ夫妻も、このエア・インディアのオフィス(であるはずのところ)に来たかったらしく、同じく失望していた。しかし、アベ氏は飄々としていて、少しも落ち込んだところがない。いやー、まいったね、といった具合だ。婦人はおとなしく三歩下がってついてくる感じ。アベ氏は、

「僕ら、一週間くらいレーにいるんだけど、ここでなんもしてないんっすよ!」

 と明るく語ってくれた。この明るさが僕にとっては救いになる。二人と行動を共にすることにした。

 アベ氏の情報によると、レーには旅行会社を経営する日本人女性がいるらしい。彼女のオフィスに行ってみることになった。

 Hidden Himalayaというそのオフィスは、元添乗員のサチさんが経営している。入ると快く出迎えてくれた。かくかくしかじか、飛行機が飛ばないんだと話すと、

「まずこの天気じゃ百パーセント飛ばないね」

 と、なんともなしに言う。この程度の曇りで飛行機が飛ばないとは。絶望した。

 アベ夫妻は今日デリーへと帰る予定だった。もう三日も欠航が続くとなると、我々(アベ夫妻)が帰られるのはいつになるんだと嘆くと、サチさんは次のように話した。なぜかインドの常識では、先に待っている人ほど損、優先順位は後回しにされる、と。つまり、僕は後回しなのだ。また絶望した。


 ホテルに戻ると、モエちゃんがいた。モエちゃんは、旅行会社で日本語の堪能な人に出会ったらしく、帰国の航空会社との連絡ができたという。しかし、チケットは買い直さなければいけないと言われ、かなり困っていた。モエちゃんは、バスで帰ろうと思う、と言っていた。僕もそれを考えていたが、この手はなかなか難しい。バスは、標高五〇〇〇メートル越えの極寒の山地(マナリ)を越し、三日かけてデリーまでたどり着く。これほどのタフな旅がこの子にできるのだろうかと考えたが、僕とてこんな旅は(醍醐味がありそうだが)ちょっと避けたい。しかしモエちゃんはかなり本気らしく、バススタンドへ向かった。

 さて、自分はというと、帰国後の話は片付いたが、インドから日本行きの航空券の買い直しは避けたい。何万するのか、何十万するのか分からない。それをどうやって払えばいいのか。クレジットカードで払うとしても、限度額に達するかもしれない。

 とにかくANAデリー・オフィスに電話だ。今度は今日の宿泊所近くの電話スタンドにお世話になることにした。国際電話もできる。日用雑貨を売る店で、狭い部屋にパソコン、コピー機なども置いてあり、特にコピー機は借りに来る人が多かった。同じく電話の順番を待つ外国人客もいる。空港で見た顔だ。僕も順番を待って、電話。

「日本語を話せる人はいますか?」

 といつものように言うと、十五分後にかけ直すように言われた。かけ直すと、正真正銘の日本人が出た。今レーにいること、かれこれ三日間欠航が続いていつ帰られるか分からないこと、本来乗る予定だったチケットの番号、僕の氏名を話すと、いったんは「このチケットは、本来の決まったフライト以外への変更はできないチケットで、基本的にフライトの変更はできない。新たに買い直さなければならないが、事情が事情ですし、責任者に聞いてみる」と言ってくれた。正真正銘の日本人でよかった。正直、以前のインド人コールスタッフは日本語がたどたどしく、信頼できなかった。日本人がいてよかった。日本の航空会社でよかった。

 後にかけ直すと言われたが、こちらがいつでも受けられる電話はないと伝えると、また僕の方からかけ直すように言われた。彼女は、ホリグチです、と名乗った。

 再度電話しても、ホリグチさんは通話中だという。それが何度か続き、やっと彼女に繋がった。次のようなことになった。つまり、いつかデリーに来られることになったら、グルガオンというところにある当社のオフィスに来て欲しい、そのときに日本行きのチケットが取れたらその便で帰ってもらえる、チケット料金は日によって違うので差額分は払ってもらうかもしれない、とのこと。新たに買い直す必要はない。チケット問題は解決だ。ありがとう、ホリグチさん!

 これでだいぶ気持ちは楽になった。とはいえ、降り続く雨と、厳しくなってくる寒さが憂鬱にさせる。なんせ短パンである。薬も、自宅に帰るまでには間に合わないことになった。考えて、半分に割って飲みつなぐことにした。

 ホテルに帰ると、モエちゃんはいなかった。例の中国人がパソコンをいじっている。へらへらしていて、そのしゃべり方といい、話す内容といい、僕の大学時代の先輩の竹村さんによく似ている。いや、竹村さんそのものだ。僕はついつい竹村さんに話すように話してしまう。

「もう三日目ですよ」

「ついてないね。でも……」

「でも?」

「ついてる。仕事しなくていいもんね」

 いかにも竹村さんらしい。いや、竹村さんではないのだが。

 一人で夕食を住ませた後、モエちゃんの部屋をノックすると、彼女は戻っていた。結局、バスは諦めて飛行機にかけることにした、とのことだった。

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