九月一日、月曜日、午前六時
「タクシーが着きました」
モーニングコールで起こされた。今日はチャンディーガルに行く日である。
チャンディーガルという地名は、一般的にはあまり知られていないと思う。ここは、デリーから北に約二五〇キロ、ハリヤーナー州とパンジャーブ州の州都である。二つの州の州都を兼ねているのだが、インドでは一般的なのか特殊例なのかはわからない。僕が目指すのは、裁判所や議会堂などの公共の施設が集まる「キャピタル・コンプレックス」だ。この説明でわかるように、定番の観光地ではない。誰が地方の裁判所に用があるのだろう。
もちろん、ここを訪れるのには理由がある。その建築である。ル・コルビュジエといえば、建築だけでなく、美術・文化に関心のある読者なら知っている人も多いだろう。ここにある公共建築群は、そのコルビュジエの設計なのだ。大学時代建築を学んだ者として、コルビュジエの建築をしかと観たことがないというのは少し恥ずかしいと(個人的に)思っていたので、その代表作はなんとしてでも観ておきたかった。
コルビュジエについてものすごく簡単に説明すると、近代建築の巨匠、白くて四角いモダニズム建築を確立した人物である、とだけしておこう(もちろん、補足説明は必要だが専門的な説明はここでは必要ないだろう)。日本国内では、上野の国立西洋美術館が唯一の彼設計の建築だが、あまりコルビュジエ感を感じられず、そこまで好きなものではないので、今回その代表作を観ることを楽しみにしているのだ。それとともに「ル・コルビュジエの建築と都市計画」として、世界遺産の候補物件とされている(これを書いた当時は候補だったが、二〇一六年にめでたく登録された)。ちなみに口に出して言うときは「コルビジェ」と言うのが一般的かもしれないが、文字で表記する場合は「コルビュジエ」とする例が多いようなので、字面もいいし、ここでもそうすることにする。読みづらいかもしれないが、悪しからず。
そのチャンディーガルへは、特急列車が既に満席で、少々痛い出費だがホテルに頼んでタクシーをチャーターした。片道約四時間ほどだという。エントランスにいた運転手はふくよかで穏やかな紳士だった。話すときは語尾にSirをつける。少し気分がよかった。朝が苦手なので、行きの道中はほとんど話もせずに、眠っていた。
昼前にチャンディーガル中心地に着く。ここは、五〇年代に設計された碁盤の目状の人口都市で、五十七の「セクター」に分けられている。街路樹も多く、インドの混沌とは対極にある都市風景だ。キャピタル・コンプレックスはセクター1にある。前述のとおり、インド人でも一般の人が用のある所ではなく、見学には許可が必要だ。『地球の歩き方』によると、セクター9にある「チャンディーガル・ツーリズム・オフィス」で許可証を発行してもらう必要がある、とある。運転手もその場所がわからず、何度も道ゆく人に聞いてやっとたどり着いたのだが、そこではそんなものは発行していないと言われた。聞くと、最近新しくキャピタル・コンプレックス敷地内にツーリズム・オフィスができたらしく、そこで許可証を取得すればよいということだった。幾度となく道を聞いたのは徒労だった(しかもほとんどの人が「チャンディーガル・ツーリズム・オフィス」なるその存在を知らなかった)。なので、今後チャンディーガルを旅する予定の読者は、そのままセクター1のキャピタル・コンプレックスに向かえばよい。歩きやリクシャだったらかなりの時間のロスだ。
許可証の発行はスムーズにいった。パスポートを見せ、そのナンバー、名前、泊まっているホテル名、その他諸々の中に「チャンディーガルの印象」まで書かされた。僕は「デリーと違ってきれいな所です」と書いた。僕の書いた欄の前にも日本人の名があった。
運転手は、二時半に集合ということを伝え、係員に連れられて観て回る。規模はひとつの大学の敷地くらいで、歩いて回るのにちょうど良い広さだ。まず、高等裁判所に向かうことにした。そのすぐとなりにあるのが、ここのシンボル「オープンハンド・モニュメント」である(写真参照)。鳩サブレではない。「Open to give. Open to receive」を意味し、国・自治体のあり方のようなものを象徴するものだろうか。強い風が吹くとぐるぐる動くらしい。
高等裁判所も素晴らしい。幾何学とフリーハンド、そして赤・黄・緑の色彩がいかにもコルビュジエらしい。まさにコルビュジエという建築を初めて観た、不思議な感覚だった。落ち着きを見せる上野の国立西洋美術館とは違い、コルビュジエの若々しい思いが感じられる情熱的な建築だ。埃っぽく壮観で、おおらかで人間臭いここの風土ともマッチしている。
係員に「彼に付いていけばいい」と言われたのが、たまたま通りかかった裁判所の職員らしき人物。ここでは彼に連れられて、案内してもらった。すべての入り口には自動改札機のようなゲートがあり、そこで身分のチェックが求められる。許可証(といってもプリンタで印刷されたA4くらいの紙)を見せる。考えてみれば、裁判所という所に入る事自体初めてのことだった。いうまでもなく、訴訟関連の用事があるインド人と裁判官、事務員しかしない。それがものすごい人で、廊下まで順番待ち(?)の人であふれかえっている。しかし、典型的な日本人顔の僕がうろついていてもあまり視線は感じなかった。
当てもなくさまよう。外から見るとかなりい大きく見えるが、三階建てで、一階から三階までほぼ同じ作りになっていて、風景は同じだった。内観は、歴史の呼吸を感じる傷、汚れ、張り紙など、インドらしい風景で、その人の多さといい、デリーの街並を思い出した。「デリーと違ってきれいな所です」と書いたばかりだが、やはりインドである。
次は議事堂へ。入り口らしき所でうろうろしていると、警備員(軍人?)に声をかけられた。許可証を見せると内部の人間を紹介され、事務室に荷物(カメラ含む)を預けて案内してもらう。二つの州の議事堂を兼ねているので、ハリヤーナー州とパンジャーブ州それぞれの議事堂がこの建物のコアになっている。僕が案内されたのはパンジャーブ州のほうで、議会は休みらしく、中をうろついた。
運転手に言った時間が迫っている。さらに一時間くらいとるべきだったと後悔しながら、戻る。
「次はどうする?」
と聞くので、美術館へ向かったのだが、今日は月曜日。休館日であった。
「インドでは月曜がミュージアムの休館日なんだよ」
そういえば日本でもそうだった。
どうしようかと思ったが、まだ時間はあるので、予定にはなかった「ネック・チャンド・ロックガーデン」に行くことにした。ネック・チャンドという地元の人物が、廃材を集めて作った様々な彫刻が展示(?)されている庭園だ。セクター1にある。建築に興味がない人であれば、チャンディーガルでの最も有名な観光スポットらしい。時間つぶしに訪れたのだが、ここがなかなか面白かった。
ネック・チャンドは、元道路検査官で、都市化の進む中で出る廃材を集めて彫刻を作り、ここに集めた。写真にあるような独特の彫刻群が、立体迷路のような庭園に並べられていて、気持ちが悪い(褒め言葉)。人の評価を求めて作られたものではないその彫刻から、ネック・チャンドという人物の奇抜な面白さが伝わって、なんとも気持ち悪かった(褒め言葉)。
敷地は(興味を持っていない人にとっては)結構広く、暑さもあって、その立体的に入り組んだ構造が歩くものを疲れさせる。お腹いっぱい楽しみ(?)、ホテルへと戻る。
朝はどんよりとした空も、今では晴れ上がっていた。デリーの厳しさとは違い、暑いというより、日差しの強さがストレートに肌で感じられ、痛い。運転手にそう言うと、「確かにそうです。ここの日差しはインド一です。サー。」と言っていた。
ニューデリーに戻ると、また少し懐かしかった。わずか数日しかいなかったのに、見なれた風景だと思えて、安心する。相変わらず物乞いは多いし、汚いし、臭いし、うるさい。しかし今では不愉快な感じはなく、この国の一部になった自分が心地よい。
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