八月二十八日、木曜日、午前七時
バラナシ、ヴァナラシ、ワーラーナシー、一時期はベナレスという呼び名まであってこれは英語名Venaresの誤読で正しくはないらしい。ちなみに『地球の歩き方』では「バナーラス」を採用しているが、ここでは、旅人の間で一般的なバラナシと呼びたい。薔薇無し、と覚えよう。
バラナシのことを少し紹介。僕にとっての「インド」のイメージそのものであるここは、ヒンドゥー教最大の聖地であるとは前述のとおりだ。敬虔なヒンドゥー教徒なら一度はここに沐浴に来たいと願う場所である。イスラム教でいうメッカみたいなものだろうか。夜が明けきって間もないころの大河ガンジス川(彼らはここを敬称して「ガンガー」と呼ぶ)、朝霞の中にたゆたう小舟の群れ、静かに手を合わせながらゆっくりと褐色に濁ったガンガーへと多くの人々が浸かって行く光景は、誰しもがどこかで目にしたことがあるだろう。僕にとっても、インドといえばバラナシだとずっと思い続け、インドに行くイコールバラナシを見に行くことであった。念願の場所なのだ。
バラナシには「ガート」と呼ばれる火葬場が多く並んでいる。そのすべてはガンガーの西岸に沿って鈴なりに並んでおり、必然ガンガー西岸がバラナシの中心部になる。東岸はといえば、むしろ穢れの地とされていて、その容貌はかなり対照的だ。
なぜよりによってここが聖地なのか。それは、北のヒマラヤから溶けた氷河がガンガーとなり、南東へと流れてゆく過程、ここだけが南から北へと曲がる場所だからという説を耳にしたが、実際のところよくわかってないらしい(ヒンドゥー教も仏教と同じく、北が聖なる方角ということだ)。とにかく、聖地に由来など関係なく、ただバラナシがバラナシだから、人々はここに集まり、ここで死ぬことを夢見るのだ。
さて、夜行列車の終着駅はバラナシ駅の一つ手前、マンダワディ駅だった。窓の外を見ると、夜は完全に明けきっており、爽やかな陽光が気持ちいい。意外にも、予定より三十分ほど早く着いた。デリーのホテルでバラナシでの宿の予約も取ってあり、そこにピックアップもお願いしていた。開いた列車のドアから「マンダワディ?」と確認をとって、ホームに降りると、そこはピックアップのホテルマン達でごった返していた。戸惑ったが、「ガンガー・フジ・ホーム」という、予約したホテル名を記した名刺を持った壮年の男性はすぐに見つかった。彼は無駄口は聞かない人のようで、付いてこい、と促してからガンガー・フジ・ホームに付くまではいっさい会話はなかった。ちなみに、車で迎えに来てくれるものだとばかり思っていたのだが、彼が乗って来たのはホンダのスクーターだった。ノーヘルで二人乗りをしたまま、無言で約二十分の道のりをバラナシの風になった。
「バラナシは迷路だよ」
と日本語で話すのは、ガンガー・フジ・ホームのオーナー、ラージ氏である。彼は親日家らしく、出っ歯の目立つその口からはかなり流暢な日本語が流れ出る。確かに道は狭隘で入り組んでおり、そこにあふれる人々や牛たちがさらに我々を迷わせる。一度外に出たら、看板を頼りにしなければここに戻ってくることは不可能だろう。しかし僕にとっては、迷路以前に、臭い。神聖な牛さまがここには多く、ここの特別な暑さが牛さまの糞尿の匂いをいや増しに増している。慣れるまではなかなか堪えた。
ガンガー・フジ・ホームでひととおり身支度を整えたら、早速ガンガーを拝見と行きたかった。なんとかメインストリート(ダーシャシュワメード・ロードというその名もインドらしい響きだ。この地最大のガート、ダーシャシュワメード・ガートに由来する)に出ると、デリーとはやや質の違った混沌があった。聖地に入り乱れる、それとは矛盾したはずの人々の下世話な欲。しかしもちろん神聖さという見えないものも感じられるのだが、僕にはどこか猥雑めいたものが強く感じられた。だからといって幻滅するわけでもなく、それもまたインドなのだという心構えはできていた。そこがいいのだ。
歩きながら、手足のない物乞い達の声をどう処理してよいか逡巡しながらガンガーへと降りて行く。するとおなじみのかけ声がかかった。
「ジャパニーズ?」
ここでもか、と思いながら適当にあしらっていたが、彼はかなり日本語が話せるように思えた。観光客目当ての悪い人ではなさそうだ。
「どうしたの? 元気ないよ」と日本語で。
「あ……あ……」と僕が言葉をためらっていると、
「日本語でいいよ」と優しく話す。
「さっき着いたとこ」と僕が素っ気なく答えると、
「朝メシは?」まだだ、と答えると「友達の店を案内するよ」と、サモサの店を案内してくれた。
「それはありがたいけど、一人でいろいろ回りたいんだ」という僕の言葉をほとんど無視し、彼はしゃべり続ける。
「チャイは?」と言い、飲みたい、と答えるとまた別の店へ。彼と年恰好の似た青年数人が店先のベンチにたむろしていた。「今日はこいつの誕生日なんだよ」と紹介された別の青年(僕と同じくらいの歳と見える)にチャイをごちそうになった。インドでは、誕生日の者が皆に奢るというのがマナーらしい。日本とは逆だ。
とにかく、なんだかんだで訳が分からないまま会話しているうちに、彼らと仲良くなってしまった。彼に流されてみよう、これも旅だ、だまされても面白いかも、と覚悟を決めた僕は、彼とその後に紹介された友人二人と行動をともにすることになる。
彼と話しながら、僕がふと、
「サールナートに行きたいんだよね」
と口にすると、
「よし、それじゃあ、リクシャの運転手の友達がいるから彼にそこまで行ってもらおう」
ということになり、リクシャをチャーターしてもらい、サールナートへと向かうことになった。先ほどの彼とは別で、僕一人で行くことになった。
サールナートとは、バラナシ中心部から北東に約一〇キロメートルの距離にある、ここは仏教の聖地になる。菩提樹の下で悟りを得、仏陀となったゴーダマ・シッダールダは、その教えを広めるべく、ここで初めての説法をしたとされる。初転法輪の地というらしい。そのとき仏陀の声を聞いたのは、わずか五人の弟子と、大勢の鹿たちであった。ここは別名「鹿野苑(ろくやおん)」とも呼ばれる地である。
日本人にとってインドに対するイメージはヒンドゥー教より仏教の方が強いかもしれない。しかしながら、インド国内の宗教のシェアは、ヒンドゥー教が約八割、次いで多いのがイスラム教で約一割、仏教はと言えば、キリスト教、シーク教に次いで第五位で一割にも満たない。ちなみに、インドといえばターバン姿の男性の像を思い浮かべるかもしれないが、ターバンを巻いているのはシーク教徒で、ヒンドゥー教徒ではない。シーク教徒は社会的ステータスが高く、信頼できる人が多いというのが僕のイメージで、リクシャを利用するときはターバン姿の人を探したものだ。
余談だが、浄土真宗の色濃い能登の地に生まれた僕は、割と真面目な信徒だった祖母の勧めで、小学校四〜六年生の時期の毎夏休みの最初の数日間、京都烏丸の東本願寺に「こども奉仕団」として「奉仕活動」をしていた過去を持つ。実際は、それとセットで企画されてた近畿地方のテーマパークでの遊びに参加しに行っていたのだが、親鸞上人(なぜか今でも呼び捨てにはできない)の教えはなんとなく体に染み付いているような気がしている。なので、仏教に関しては今でも興味がある。バラナシ見物のついでではあるが、ここサールナートにも訪れたかったのは本当の話だ。
サールナートの実質の広さは一キロメートル四方程で、歩いて回れる。タイ寺院、チベット寺院、中国寺院、日本寺院とリクシャで回った後、リクシャの運転手にはある場所で待ってもらい、その後は自分で歩いて見て回ることにした。
当たり前だが、ここは観光地といってよく、なぜか欧米人が多かった。拝観料を払いお参りするスタイルは日本と同じだ。僕はとりあえず歩くだけにすることにした。
そのうちに気なったのが、ある大きな赤茶色の塊だ。どうやら『地球の歩き方』に載っている「ダメーク・ストゥーパ」らしいと見た。近くにあるようだがなかなか辿り着けない。少し手前の寺院でそこまでの行き方を聞いてやっと辿り着けるのだが、その寺院でよくわからない人に出会った。彼はなぜか日本の五百円玉と十円玉数枚を持っていて、
「お前日本人だろ。これはルピーにしたらいくらになる? おれがこれを持っていても仕方ないから、ルピーと交換してくれ」
と言う。だいたいのレートから計算して、僕は三〇〇ルピーほど渡した。インドはこういうよくわからない人が多い。
「ストゥーパ」というのは漢字で「卒塔婆(そとば)」と書く。仏舎利(仏陀の遺骨)を納めるモニュメントで、「塔」の語源となる。ダメーク・ストゥーパがサールナートのメインイベントだ。一〇〇ルピーの入場料を払い入ると、日本語を話すガイドに捕まった。三〇〇ルピー払い、案内を乞うた。
仏陀は一時期ここに暮らしていたのだが、ブッダの死後一〇〇年、熱心な仏教徒アショーカ王はここに神殿を築き、ここはその遺跡となっている。インド古典文化において重要人物である彼。ルピー硬貨や紙幣には、彼に由来する四頭の獅子の像が描かれている。その典拠となった石柱もここにある。
ダメーク・ストゥーパは時計回りに回るのがルールらしい。回ってご利益が得られるのなら、と思い一周してここでのメイン・イベントは終了。人を待たせて見て回るというのが苦手な僕は、博物館も案内しようかというガイドの誘いを断り、リクシャの元に戻った。ひととおりお土産物を買い、バラナシ中心部に戻ったのは夕方頃だった。
そこで例の彼と落ち合い、やっとガンガーを眺めることになる。いいポイントがあるから、と言う彼が案内してくれたのは「マーン・マハル」という天文台だ。展望台ではない。しかしその屋上は展望台並みに好立地にあり、見たところ、ここ一帯では最も高いところのようだ。暑さも和らいだ時間帯、風も気持ちよくなってきて、そこでの時間は本当に贅沢なものだった。命の大河ガンガーは、案外心地よい。これは観光客特有の感覚かもしれない。本当のところは浸かってみないとわからない。
例の彼は名をラジュというらしいとこのときに知った。日本語ぺらぺらの割には日本の文字は全く読めないラジュは、普段は千葉・市川のインド料理屋で働いており、今はたまたま兄の結婚式を機に母国に帰ってきているのだという。ラジュの兄はバラナシでシルク・ショップを営んでいる。結婚相手は日本人らしい。ラジュは、そのような時期は特にすることがなく(多くのインド人は皆暇人だ)、僕のような日本人旅行者を捕まえては案内したり一緒に酒を飲んだりしているという。
ところでその日はラジュの友達の誕生日、と先ほど書いた。ということで、そのパーティーに僕も参加することになった。成り行き任せだ。
「友達の誕生パーティー」ではあるが、当の本人は酒が飲めないので参加せず、ラジュとその「親友」二人と僕、計四人でインドの安酒場へと向かった。それではただの飲み会ではないか。
インドの安酒場はビルの階段の下にあった。階段を降りたところ、ではない。文字どおり、階段の下、である。ビルの階段の下にできた空間だ。倉庫として使われるようなところである。そこにアルコールが置かれ、客は好きなものを注文して、四畳半ほどの「階段の下」で飲む、というスタイルだ。
僕以外のメンバーの名前は、例のラジュの他に、KD、クドゥ、という。後者二人はラジュの幼馴染で「親友」だ。
「おれはインド人嫌いね。インド人みんな嘘つき。金大好き。でもおれ、この二人と日本人だけは大好き。おれが信じているインド人、この二人だけ」
と話すラジュ。その顔にどこか翳りが見えたのは気のせいだろうか。
とにかく僕はというと、その三人と「誕生パーティー」に参加しているこの不思議を噛み締めていた。インドで酔っ払うことに抵抗があった僕だったが、「君も飲むべきだよ」というKDの言葉を機に、「キングフィッシャー」というインドメーカー製のビールを飲むことになった。KDの言葉にはどこか人を動かす響きがある。三人の関係の構図は、誰でも彼でも攻撃する(しかし優しい)KD、彼に苛められる弱虫のクドゥ、その二人をなだめるリーダー格のラジュ、といった具合だ。三人のやり取りはなんとも微笑ましく、癒されるものがある。忘れかけていた本来の人間関係というものを思い出させてくれる。「ほら、また苛めてるでしょ」と笑うラジュ、「助けてよお」と懇願するクドゥ、「苛めてねえよ」と弁明するKD。そんな彼らとこの安酒場で大いに盛り上がった。
緊張も解けてきたころに、別のインド人客と談笑したり(それまで貸切状態だった)、便利なヒンドゥー語を教えてもらったり(ナヒン・チャイェー=No thank you)、『MARDAANI』の感想を言い合ったり(インドでの子供の誘拐はかなり深刻らしい)して、バラナシでの濃い初めての夜は更けていった。
「明日は早朝ガンガーだ。ホテルに迎えに行くよ」
そう約束し、別の店で〆のカレーを食べて(ものすごく美味しかった)、僕はガンガー・フジ・ホームへと帰った。
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