八月二十七日、水曜日

 今夜の夜行列車で、デリーから東へ八〇〇キロのバラナシへと旅立つ予定だ。この列車の切符は日本にいたときに手配したのは前に書いたとおり。それまでの時間は、デリーで僕が最もしたかったことをすることにした。

 映画鑑賞である。

 現在では「ボリウッド」という異名が世界的に有名な、そのインド映画のイメージといえば、とにかく歌って踊って歌って踊る。合間合間に不必要とも思われる音楽とダンスのシーンを挟む、その単純なまでの娯楽性である。もちろんすべてのインド映画がそうではないが、僕はその単純さが好きだったので、ぜひともインドでインド映画を見たいと、ずっと思っていたのだ。

『地球の歩き方』によると、前日に訪れたコンノートプレイスにある映画館は外国人にも入りやすいらしいので、再度コンノートプレイスへと向かった。行ってみると、日本にもあるシネコンのようなもので、外でチケットを買い、そのまま入ればよさそうだ。シネコンといっても、シアターは二つだけ。確かにわかりやすい。

 チケットカウンターにある液晶画面を見て、いちばん時間の近いものを観ることにした。タイトルは『MARDAANI』(マルダーニ)というらしい。もちろんどういう意味かはわからない。それに、期待している歌って踊るインド映画ではなさそうだ。画面には両手に拳銃を持った女が険しい表情で前方を見構えている写真が映っている。シリアスものらしい。アクションかもしれない。しかし上映時間スケジュール上、デリーを発つ時刻に間に合いそうなものはそれだけだ。

 結局チケットを買うことにしたが、マイク越しの英語がなかなか聞き取りづらく、困っていると、僕の後ろに並んでいた壮年のインド人男性が助けてくれた。肌の色はインド人にしてはやや白く、頭もはげ上がっている。淡いピンクのシャツにベージュのスラックスを履いた、上品で恰幅のよいおじさんだ。経済的なステータスは高そうだ。

 そのおじさんの助力でチケットを買い、上映終了時間も列車に間に合うことを再確認して、喜び勇んでシアターに入る。さあ、インドで観るインド映画だ。わくわくして入ろうとしたのだが、警備員に止められた。警備員は、ただ「Bag」と言い、帰れ、という仕草を繰り返す。聞いたら、リュックサックを預けてから入れということらしい。ホテルはチェックアウトを済ませてあるので、荷物すべてを持ち歩いているのだ。しかし、外には荷物預かり所のようなところは見つけられず、警備員に聞いても先ほどと同じ言葉と仕草を繰り返すだけだ。困り果てて、先ほどのおじさんに助けを求めた。チケットを買うのを手伝ってくれた彼だ。

 結局彼に案内されたのが写真にあるジューススタンドだ。ただジュースを売っているだけの露天かと思いきや、ここに荷物を預けることになっているらしい。本当にここか? と聞いても、おじさんは「そうだ」とうなずく。スタンドのお兄さんがちゃんと見守ってくれるらしい。不安ながらも、彼に託すことにした。

 これで晴れてシアターに入れる。入り口で、地下鉄と同様の手荷物検査を受け(ハンドバッグ程度なら持ち込み可)、入場。歌って踊るインド映画ではなさそうだが、ここなら冷房も効いているし、心地よく過ごせそうだ。周りを見渡すと、例のおじさんと目が合った。軽くアイコンタクトをとる。他にも、軽い食事をしている人もいる。見ると、係員が食事を運んで来てくれるサービスらしい。僕のところにも「食事はいかが?」と、小ぎれいなバーテン風の男がやってきた。

 さあ、映画が始まる。『MARDAANI』の主人公は、言うまでもなく画面に映っていた女性。丸顔で眼力が鋭い、怒ったら怖そうな女だ。日本でいうと真木よう子だろうか。

 観たところの僕の独断によるあらすじはこう。

 主人公は、インドの国家警察の特殊部隊のような組織の一員で、町のいざこざから麻薬取引現場まで、日々派手に仕事をこなしていた。気の優しい夫と一人娘と三人で、居心地の良さそうなマンションに暮らしている。抱えている案件は、少女の誘拐事件。といっても、その規模が尋常ではなく、何十人何百人という、年端もいかぬ少女が裏の組織によって拉致され、権力者のおもちゃにされているかもしれないという事件である(ちなみに映画の冒頭には、《これは事実に基づく物語である》という文字が英語であった)。なかなか事件の深いところがつかめないままでいたが、物語はインターミッション前に急展開する。

 また脱線するが、インド映画には、インターミッション、つまり途中休憩が必ずといっていいほどあるらしい。それはもちろん、その長さにに由来する。基本的に三時間を超えるものばかりだ。この映画は二時間ほどだったが、それでもそれはあった。インド人は集中力が続かない人が多いのだろうか。周りを見渡しても、落ち着かなさそうにもぞもぞ動くおじさんや、歩き回る女性、携帯電話で平気で話し始める青年など、日本だったら嫌な顔をされるであろうことが当たり前のように起こっている。

 閑話休題。「急展開」というのは、主人公の一人娘がその組織に拉致されるという事件である。挑発のように、娘の人差し指が主人公の自宅に届いたシーンでは背筋が凍った。それ以降、躍起になった主人公は、破竹の勢いで事件の全貌に迫る。なんと、自らもその組織に連れ去られてしまうのだ(後に、それは狙っていたことだとわかるのだが)。組織に入り込んだ主人公は、靴底に隠してあったナイフで自らを縛り付ける縄を切り、組織の権力者を自慢の腕力で押さえつけたら、娘と再会し、道場荒らしが始まる。キレのいいカメラワークと迫力の音楽で、なかなか観ていて楽しい。クライマックスは、なぜか拳銃を捨てて素手で殴り合い始めるシーン。もちろん、めためたにやっつけて大団円となる。勧善懲悪の分かりやすい話だった。言葉はわからないが、その映像と音楽、役者の表情、語気などから、かなり伝わるものがあり、映像作品の凄みを感じた。危うく涙するところだった。映画の最後には再度これは事実に基づく物語である、そして《インドでは、毎年四万人の子供が誘拐されている》《インドでは、八分に一人のペースで子供が消えている》とあった。映画館から出るのが怖くなった。

 マララさんの影に隠れて目立たなかったかもしれないが、二〇一四年にノーベル平和賞を受賞した人がもう一人インドにいる。カイヤシュ・サトヤルティという人物で、受賞理由は「児童と青年に対する抑圧に対する戦いとすべての児童のための教育への権利への貢献を称えて」。この映画とは無関係ではない。

 エンドロールが始まった途端、観客のほとんどは席を立つ。さすが、映画通を思わせる。僕も、恐る恐る劇場を出たが、元の明るいインドの街並みだった。安心したと同時に、預けたリュックサックのことを思い出した。例のジューススタンドに行くと、果たして僕のリュックサックはきちんとそこにあって、例のお兄さんが渡してくれた。礼を言って去ろうとすると、後ろから、チケット購入を手伝ってくれたあのおじさんが声をかけてくれた。中身は大丈夫か? カメラは入っているか? お金は? と親切にしてくれた。インド人は皆悪どいと思っていた僕は、こんなインド人もいるのかと、感謝の気持ちで暖かくなった。タンキュー、おじさん。

 まだ夜行列車までは時間がある。冷房の効いたところで体力を回復した僕は、歩いて鉄道ニューデリー駅まで行くことにした。前日に通った道をまた通るのだが、今度は、たかが二回目なのに現地の人になったような気分で歩いた。偉そうに歩いた。

 鉄道ニューデリー駅の混沌には毎回参る。写真を見てのとおりだ。布を敷いて居座る家族、物売り、旅人、物乞いたちが、堂々としている。その喧騒は街中と同じで、うるさい、汚い、臭いの三拍子揃っている。二日目ともなれば少しは慣れてきたが、臭いものは、臭い。

時間どおりに列車はやってきた。

 予約席をなんとか探し当て、腰を下ろす。一息。このときがインドに来て初めて感じた心安らぐ時間だった。

 窓の外は、薄暮である。青紫の風景に、赤や緑、ピンク、黄色のサリーの色彩。人々の聞こえない声。その代わりのガタンゴトン……。

 ヒンドゥー教最大の聖地バラナシへの列車は、午後六時五十五分、定刻どおり発車した。

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