1.頭の皿 -5

 こちらの冊子には目を通していただけましたか?」

 後藤がゆっくりとたずねる。

「はい、先程」

 明が答えた。後藤は柔和に笑う。

「それでは、こちらから重要注意事項について読み上げいたします。」

 後藤は冊子を広げ、彼曰く「規程により重要」とされる項目を読み上げた。そして彼は読み上げたあと、冊子の下にある理解したという旨の記載されている項目にレ点でチェックをするよう促した。明はそれに従った。一通り読み上げると後藤は深く息を吐いた。

 そこで旭はまた棒状に丸めた新聞紙のような葉巻きに火を着けた。

「それで、これは最終確認なのですが、明さん、あなたはSMDS に入隊されるということで間違いないですか?」

 明は目を丸くした。

「やっぱりそういうことですよね?」

「旭くん、もしかしてちゃんと説明していないだろ?君はいつもそうだ。」

「普通、この冊子を一通り読めばわかるだろ。それでわからないほどの馬鹿じゃあるまい。」

 後藤は目を鋭くして明に向き直った。

「明くん。この男の説明不足は謝罪します。申し訳ございません。もし君がこの注意事項に同意してもらえないのなら、それはそれで仕方ない。」

「記憶処理の出番だな。」

 旭が頬を釣り上げて言い放った。左手にはいつか見た蓋付きの万年筆が握られている。後藤は笑いもせずに同意した。

「なんにせよ、どうするかはまかせる。ただここにいれば生活は保障する。これは本当だ。」

 後藤が明の目を追いかけながら言った。が、旭が後藤の弁を叩き潰すかのように続ける。

「さっきみたいに、たかが汁粉のために泣きそうにならなくて良い。そんな負犬のような生活は送らなくて良い。いいか、たかが汁粉のためにもう命をかけなくても良いんだぞ。第一にみずぼらしいだろ。こんなんじゃ母親が泣くな。俺だったら泣いてる。何を間違ったんだろうって。今の君はそういった負犬の類なんだよな。わかったらなにか言ってみろ。」

 旭は明にゆっくりとにじり寄った。その顔からまた感情の一切が消えていた。彼の右手に握られている、異様なまでに巨大な葉巻きから甘い匂いがじんわりと明にまとわりついた。

 明はきっと旭を睨みつけた。そのままゆっくりと立ち上がった。旭の視線が針のように明に突き刺さる。

「旭くん、君が悪い。謝罪しなさい。」

 後藤が呟くように言った。しかし多くの呟きがそうであるように、彼の呟きも灰色の空間に飲まれていった。

「負犬じゃありませんよ。」

 明はしどろもどろになりながらなんとか言い切った。煙の匂いが強く鼻に刺さる。彼の目にはじんわりと涙が浮かんでいた。

「大人が泣いちゃ世話無いな」

 明は自分のカッターシャツの襟で目元を拭ってゆっくりと座った。旭はじっと明を見つめていた。後藤は小さく何かを呟きながら旭の方をじっと見つめていた。

 負犬と呼ばれていた男は後藤の手元に握られていた誓約書と書かれた書類を強く引き寄せた。

 彼は迷いのない真っ直ぐな字で四枚ほどの書類に署名した。

 旭はまだ十分に長い葉巻を床へ投げ捨てて、靴で踏みつけた。後藤がこら、と怒鳴った。旭の鷲鼻が明を指し示した。

「謝罪します。申し訳ございませんでした。」

 彼が大事なことを話すときはいつもそうするように、ゆっくりと子供に聞かせるように言った。

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