第11話 エレイナの追憶
わたくしは悪魔を見ました。
地区の皆さんから『坊ちゃん』と呼ばれている彼が、どうしてわたくし達の教会へ多額のご寄附をされているのか、判りませんでした。
持てるものの義務だから? だとしたら別の教会があるでしょう。実際に住んでいる場所は違うのですから。いくらお祖父様のなじみの地区だとはいっても、それならば早くご寄附をされていたはずです。
それが、わたくしが来てから突然というのは……無理があります。
わたくしの姿を見て憐れんで、情けをかけられたのだと……あの事件から3年ほどしか経っていません。未だに朝、鏡に映る顔には慣れずにいます。ですが、顔の怪我で憐れまれ『坊ちゃん』から寄附など受け取るなど、わたくしには耐えられないことでした。
月に1度だけ、規則正しく彼はやってきます。
ちゃんと話さなければ!
そう思い、わたくしは彼が来る機会をうかがっていました。ですが、わたくしの都合というものもあります。結局、彼と顔を合わせることができたのは、3回目の寄附の時でした。
その時、見たのです。彼の微笑みを。半分は人の良さそうな笑みですが、片方の引きつった顔は……悪魔の微笑み。
わたくしは寒気がしました。膝が震えました。
結局、その日、彼に「止めて下さい」と言うことができませんでした。
確かに『坊ちゃん』の寄附で教会は潤いました。ですが、慎ましく生活を送っていた教会のふたりは、すっかり変わってしまいました。神父様は酒浸りになり、尼僧様は金を数えるのに執着するようになったのです。
人の欲望を駆り立てて、堕落へと導く……これを悪魔の所業と言わずに、なんというのでしょうか。
前の神父様達に戻ってほしい。
すべては、わたくしの顔の傷が招いたことなのでしょうか?
だとしたら、わたくしが変えなければ!
彼の寄附を止めれば、教会のふたりは元に戻るかもしれない。またわたくしを癒やしてくれた生活に戻れるかもしれない……
そう思い、何度か彼に寄附を止めるように話をしようとしました。しかし、悪魔に誘惑されはじめた神父様達が、わたくしにことあるごとに用事を申しつけ、邪魔をしてきます。
結局、彼と話ができたのは、最初の寄附から1年も経っていました。
偶然……いえ、神父様達が油断したからでしょう。彼が教会のキッチンに入る姿を見かけ、すぐさま後を追いました。ですが、彼を前にして説得よりも、こみ上げてきた怒りのために、ちゃんと言うことができませんでした。
正直、彼に向かって何を言ったか……覚えていません。しかし、この後、彼は寄附に現れなくなりました。
効果があったのでしょうか?
これで、わたくしの生活は元に戻る……生活は苦しくなるかもしれませんが、今まで通り慎ましく暮らしていけばいい。そう思っていました。
「あんたが何かしたのかい!」
尼僧様は激しい剣幕を見せました。そんな尼僧様は見たことがありません。2ヶ月ほど彼が現れなかったことは、わたくしが原因である、と……。
どこかで、キッチンでのやり取りを見ていたのでしょうか?
「この教会は『坊ちゃん』の寄附がなければ、やっていけないんだよ!」
尼僧様は……わたくしが初めて会った頃の慎ましさは、すでに無くなっていました。神父様も酒に溺れ……もう遅かった。
その時、尼僧様から『坊ちゃん』の……1年前の酒場で私達に金貨を寄附した男の正体を聞かされました。
ジョン・ガーデン。
その名前を聞いたとき、すぐに思い出しました。武器メーカー、ガーデン商会の会長の名前を知らない人は、この国にはいません。
死の商人――堕落へと導くだけの悪魔と思っていました。ですが、人を死に至らしめる本当の悪魔だったとは! 彼の店が売る武器によって、どれだけの人が傷つき、亡くなったことか!
わたくしは吐き気を覚えました。
そんな人物がわたくしの教会に寄附をしていたのです。わたくしの生活も、口にしたものも、その悪魔からの汚れたお金で支えられたことになります。
神父様や尼僧様は、すでに悪魔によって堕落してしまいました。追い打ちをかけるように、尼僧様から悪魔と手紙でやり取りしていることを聞きました。そして、悪魔が次に目を付けてきたのは、わたくしでした。
尼僧様が悪魔とどんなやり取りをしたのか判りませんが、キッチンでの無礼な振る舞いをわたくしが謝罪すること。そして「ひとりで屋敷に来るように」と、要求してきたそうです。
その代わりに今まで通りに金を渡すと……
悪魔との関係を絶つ最後のチャンスだと思いました。しかし、尼僧様は聞く耳をもってくれません。
「あちらの魂胆は判っている。かわいいお前をひとりで行かせるわけにはいかない」
ただ、そう約束されました。
そして当日。夕刻に悪魔から迎えの馬車がやってきました。
それは2頭立ての四輪の立派な馬車。ですが、わたくしには奈落の底に連れて行く、死神の馬車に見えました。
尼僧様が同行するに当たり、御者と何か言い合いをしています。わたくしは酷く動揺していました。それを押さえ込むことに必死でした。
これから悪魔の屋敷にいくこともそうですが、尼僧からあるものを渡されたからです。
それは……ナイフ。
わたくしの顔を、腕を傷つけた憎むべきもの……ですが、尼僧様は「何かあるといけないから」と護身用に持つように強要しました。
一体、何があると……
想像できません。
その後は話し合いが付いたのか、尼僧様とわたくしは馬車に揺られて、悪魔の屋敷に向かいました。
どれぐらい揺られたのでしょうか? そのあたりからわたくしの記憶が曖昧になってきます。
馬車が止まったのは、立派なお屋敷でした。
これが悪魔の屋敷……
独り暮らしには勿体ないほどの大きな庭に建物。これが人の流した血で儲けたお金で出来ていると思うと、恐怖がこみ上げて、身がすくむ思いで一杯になりました。
少し顔を上げると、玄関には大きな木の扉。それがゆっくりと、開いてきました。
「いやぁ、ようこそ我が家へ!」
引きつった笑みを浮かべて、悪魔が現れました。
「――ご主人様、ご寄附をお願いできないでしょうか?」
不思議なことに、尼僧様が1年前に初めて会ったときのようなことを言います。思えばこの一言が初めてでした。
悪魔とわたくしの関係が始まったのも……
尼僧様が悪魔とそのまま何か話しているようですが、わたくしは聞いていませんでした。
恐怖……悪魔を前にしたことと、懐に入れたナイフの重さ。それで思考が停止していました。
わたくしたちは悪魔に誘われるまま、屋敷に迎え入れられました。
そのまま応接室に通されます。暖炉の前には立派なソファが並んでおり、そちらへ案内されました。
わたくしは一番端に座ることにします。悪魔とはできるだけ離れたいと思ったから……ですが、悪魔はわたくしの前の席に座るではありませんか。隣はすでに尼僧様が座られているので、その場所に座るしかなくなりました。
尼僧様に促されて、わたしは謝罪の言葉を口にしました。
何を言ったのか……自分でもよく覚えていません。ともかく、思いつく謝罪の言葉を並べた程度でしょう。
それで悪魔は満足したのでしょうか? 元々、謝罪など求めていなかったのかもしれません。
ではなぜわたくしたちを呼んだのか……それは、わたくしをおびき寄せるためのことだったのでしょう。
ふと悪魔はワインを飲まないか、と提案してきました。取って置きのものが手に入ったといいます。
わたくしは古いおとぎ話を思い出しました。地獄に向かう勇者の話。そこに出てきた一節「地獄で食べ物を口にすると、2度と地上に戻れない」と――。
それが頭によぎりました。
わたくしは拒否したのですが、これも尼僧様に邪魔をされてしまいます。
銀のカップにワインが注がれ、それぞれに渡されました。そして悪魔が先に飲んで見せます。まるで「毒は入っていない」とでも証明するかのように。
それを見て安心したのか、尼僧様がワインに口を付けました。ここまで来ると、わたくしも口を付けないわけにはいかなくなります。悪魔の機嫌を損なわせないためにも。
「そうだ口約束よりも、書面にしよう」
そう言って悪魔が立ち上がったことを覚えています。
書斎に向かったと思ったのですが、すぐに引き返し、マントルピースの上のランプに火を付けました。そういえばすでに部屋は薄暗くなっていました。約束した時刻を考えると、日が落ちている時刻ですから仕方ありません。
「では、ごゆっくり……」
そう言い残して、悪魔は応接室から出て行きました。
その時、確かに小さな音が聞こえたのを思い出しました。カギの掛かる音。思えば、なぜカギをかける必要があったのでしょうか? もっと気をつけておくべきでした。
気が付くと妙なニオイがしてきます。
ニオイのほうへ目を向けると、あの悪魔が付けたランプが揺らめいていました。
それにランプの上部から、怪しげな煙が上がっていたではありませんか!
悪魔が、何か仕掛けてきた!
そう思った途端、私の視界の端……左側で、カップが転がる乾いた音が聞こえてきました。尼僧様の手から滑り落ちたようです。ですが、私は首を動かすこともできません。気が付けば全身に力が入らなくなっていました。同時にわたくしの手からも、ワインの入ったカップが転げ落ちます。ほとんど飲んでいなかったワインが、カーペットにこぼれたでしょう。確認はできません。
わたくしは口にしたフリをしただけですから……
息は何とかできるようです。ですが、体は全く動かず、声も上げることもできません。
そんな状態がどれだけ続いたでしょうか?
しばらくして、ドアが開く音が聞こえました。わたくしの左目は見えないので、部屋のほとんどの様子が分からないのですが、足音などから悪魔が戻ってきたのでしょう。慌てて、窓を開ける音が聞こえてきました。
恐らく、わたくしたちの動きを止めたランプからの煙を換気しているのでしょう。自分が吸うわけにはいかないでしょうから。
その後、わたくしの横に来た気配を感じました。やはり視界には入ってきません。
見えない場所で、悪魔は何をしているのか? そちらには尼僧様しかいないはず。
その時、突然、視界に尼僧様の脚が目に入ってきました。不自然な形で……どうやら尼僧様を肩に担ぎ上げ、どこかに連れて行こうとしているようです。
しばらく足音だけが屋敷に響き続けました。それが不気味で……不安で逃げ出したくなりましたが、動けないのですから、もうどうすることもできません。
しばらくして、悪魔が戻ってきました。
今度はわたくしの目の前のソファにドンッと座りました。そして、ワインを味わっています。
この先のことを考えているのでしょうか?
時折、わたくしに目線を向けてくるのが、本当に気持ちが悪い。時たま子供のように微笑む、あの表情には耐えられません。
気が付けば悪魔は立ち上がり、わたくしに近づいてきます。
そして、わたくしの顔に手を伸ばしてきました。まるで芋虫のように太い指。それが触れられたくない傷痕を、なぞりはじめたではありませんか。
それから芋虫は顔を這いずりはじめました。傷痕から唇、首筋、肩へと……。顔を見れば、まるで子供が興味本位で触っているような感じ。
わたくしが今まで悪魔と思っていた彼は、間違っていたのでしょうか?
この人はひょっとして――。
この悪魔の正体がなんなのか、わたくしは混乱しました。悪魔ではないのかもしれない……そう思い始めたときでした。突然、悪魔の手に力が入ったのです。
「――っ……」
肩を掴まれて、痛みが走りました。声が上げられません。うめくだけで、わたくしは抵抗ができないでいました。
悪魔を見れば……何か気に入らないことがあったのでしょう。子供のような表情だったのが、突如、怒りの表情を見せてきたのです。それはランプの仄かな光で浮かび上がって、酷く恐ろしく感じました。
やはり、悪魔は悪魔でしかない……気が付けばわたくしの左手を取ると、手の甲にキスをされました。
まるでそれは……いやッ! 考えたくありません!
そのまま悪魔はわたくしの手を自分の頬にすり寄せて、何かを堪能しているように見えます。それが満足したかと思えば、顔を近づけてきました。
何をするかと思えば、悪魔はわたくしの唇を奪ってきたではありませんか!
一瞬、悪魔ではないかもしれない、と思ったのが間違いでした。そのまま獣のように唇や首筋を貪りはじめます。わたくしには耐えられない時間が始まりました。
涙が……見える右目に涙があふれ、視界がぼやけてしまいました。
わたくしは、このままこの悪魔の餌食に……
涙があふれたのは確かです。その時、突然声が出たのです。
「――や、め、て、下さい……」
声が出ないはずなのに……
わたくしの言葉で悪魔が陰湿な行為を止めてくれたことは確かです。しかも、よほど驚いたのか、悪魔はわたくしの体から離れて、後ずさりしたではありませんか。わたくしが声を上げたことが想定外だったのでしょう。
わたくしは指を動かしてみました。ピクリともしなかったものが、動くではありませんか。そのまま立ち上がって見せました。ソファから……悪魔の行為を受け続けていた汚らわしいソファから立ち上がれたのです。
ですが、それまで。
わたくしは脚に力が入らず、床に座り込んでしまいました。
気が付けば、悪魔のほうは冷静さを取り戻したのか、ゆっくりと近寄ってきます。
「――近づかないで、下さい……」
これ以上、わたくしは獣のような陰湿な行為を受けたくはありません。
思い出したのは、懐のナイフ。
このために尼僧様が私に持たせたのでしょうか?
全身の感覚がまだ戻っていません。上手く動かせないまま、懐からなんとかナイフを抜くと、悪魔に突きつけました。
「捨てなさい! そんなものは……」
「――こ、ない、で下さい……」
自分は安全だ、と言いたいのでしょうか?
悪魔は両手を拡げてゆっくりと近づいてきます。
ランプの光に煌めく刃を見ると、顔の傷が痛みます。自分を傷つけたナイフを他人に……いえ、悪魔です。わたくしの前にいるのは悪魔。
「私は……君をずっと愛していた。私の愛しい人よ――」
悪魔は、信じられない言葉を口にしました。
辱めるのもいい加減にして下さい! わたくしを愛しているなどと……
わたくしのような傷を負った女性を愛しているなどと……きっと、悪魔の誘惑に違いない。
情けをかけて、わたくしに負い目を感じさせ、自分の意のままにしようとしている――
そうに、決まっています!
「――来ないで……で下さい」
いつも入らない腕にこの時は力が入りました。わたくしを辱めたことへの怒りでしょう。
「エレイナ……」
気が付けば悪魔がわたくしの名を呼びました。そして、ナイフを握り締めたわたくしに、そのまま覆い被さってきました。
手にしたナイフは、悪魔のお腹に突き刺さりました。深く、深く……
目の前には悪魔の顔が……血の気が引いていくのが判りました。手にはねっとりとした液体の感触……血が流れていることは疑いようのないことです。
悪魔の血は何色なのでしょうか?
一瞬そう思いましたが、覆い被さった悪魔は重く私を押さえ込んでいます。わたくしの力では、その下でもがくだけで、どうすることもできません。
急に悪魔はわたくしの頭を捕まえると、顔を近づけて再びキスをしてきました。
血の味。
最後のキスは、そんな味でした。悪魔の顔を見れば、なんと言うことでしょうか。この期に及んで微笑んでいるではありませんか!?
それはまるで……
子供が母親の胸の中で喜んでいるような――
結局、わたくしは悪魔の死体を動かすことは出来ずにいました。翌朝、屋敷の使用人達が戻ってきたときに発見されることになります。
主人を殺した犯人として、わたくしは警察に突き出されることになりました。
しかし、わたくしはあの時、どうすれば良かったのでしょうか?
悪魔の……彼の歪んだ愛情を受け入れるべきだったのでしょうか?
わたくしには出来ません――
これから裁判にかけられます。わたくしは悪魔を……人を殺してしまったのですから。
どんな罰になろうと、覚悟はできています。
わたくしの話を聞いてくださって、ありがとうございました。
サヨウナラ――
歪み 大月クマ @smurakam1978
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます