第10話 欲望

 彼女に会って、1年以上……彼女を手にすることが出来たのだ。


 エレイナを眺めるために、私は対面するソファに腰をかけた。


 そして、自分のカップにワインを注ぐ。彼女を愛でながら、ささやかな祝杯というわけだ。

 私のつけたランプの光で照らされた彼女は本当に美しい。

 仄かに照らされた艶やかな黒髪。キメの細かな肌……まるで陶器の人形のようだ。

 人形……まあ私が仕掛けた薬の所為でもある。あの薬は、あくまでも全身を麻痺させるだけであり、意識は僅かながら保っていられるそうだ。

 私がを運んでいったのも解っているであろう。自分がどんな状態なのか、理解しているはずだ。


 見れば、右目が薄く開いている。それがキラキラと輝き神秘的で、さらに美しさが増すように感じた。

 深い傷があるほうは、光が当たらず影になっている。だが……私はこれに惹かれた。恐らく、彼女のこの傷がなければ、私が嫌う女性達と同じような扱いをしていたかもしれない。

 傷がなければ、私はエレイナに会うこともなかった。

 気が付けば、手を伸ばしていた。彼女の左頬へ。


 触ってもいいのだろうか?


 何を恐れることがあるのであろうか。

 私は壊れないように、恐る恐る指を伸ばした。

 左頬の傷痕は薄い皮膚に被われて、触ると破けてしまわないか心配になる。すでに傷を負ってから数年経っているとはいっても、あきらかに他の部分とは手触りが違っている。まだできたての皮膚……それはまるで、絹のように滑らかであった。

 ふと彼女の唇が目に入る。教会にいたのだ。化粧はしていないだろう。だが、淡いピンクの花びらのような薄い唇をしていた。その間から、チラリと白い歯が見える。

 つい指を伸ばし、なぞってみた。そのあたりから私は、大胆になってきた。

 まるで人形を愛でるかのように、エレイナの黒髪を撫でた。何度も、何度も……。

 そして、指を髪から、うなじへ、首筋へと……肩へとのばした。


「なんという……なんという細さだ!」


 怒りを覚えた。

 あの教会のふたりは、食事をしっかり取っていた。私の寄附でだ。だが、彼女はどうだ。

 初めて会ったときの老尼僧あれのように痩せこけているではないか!

 あのふたりは食事を取り、彼女には与えなかったというのか!

 怒りがこみ上げて、彼女の細い肩に力が入ってしまった。


「――っ……」


 声が上がった気がする。

 あの薬の効果は切れていないはずだ。体を震わすことも、まぶたを閉じることも、声も出すことすらできないはず。だが、彼女の右目から一筋の涙がこぼれるのを見て、私はとっさに手を離した。エレイナの首がカクッと崩れる。


 落ち着け、体を触ったためだ。


 考えてみれば、そうだ。

 教会の食事をあまり取らなかったのは、彼女自身が拒否したと考える方がしっくりくる。

 やはり私の寄附が、彼女には自分の容姿に対しての情けと思ったのだろう。


 それは違う。


 情けなど……私は1年前に君に恋をした。だが、人への愛し方が解らなかった。

 自分が愛された覚えがないから……。

 思えば他の女性にも、母親にも愛されたことがなかった。気付かなかっただけかもしれない。子供の頃、愛情を注がれ、抱かれたことがあっただろうか。しかし、そんな男でも、人を愛おしく思うことがあっても、いいではないか。


 彼女が愛おしい――彼女の匂い、体温も、すべてが愛おしく思える。


 私は彼女の左手を優しく持ち上げた。手袋の上から手の甲へ口付けをする。体温を感じたく、そのままゆっくりと私の頬に彼女の手を当てた。


 しかし、本当に解ってくれるだろうか? 私の寄附のように拒否しないだろうか?


 拒絶されたら、こうして僅かばかり彼女のぬくもりを感じることさえできない。


 そう考え出すと……怖くなった。

 私の至福の時間は、薬が効いている今宵で終わってしまう。

 ふと仄かにピンク色の唇が目に入った。自制心が働くまもなく、それを奪った。


 初めてキスをする。


 相手が抵抗しないのをいいことに、じっくりと味わった。そのまま私の唇は、彼女の細い首筋に移動した。貪るというのは、私としては避けたいことだ。だが、端から見れば噛みつくかのように乱暴にしてしまった。欲望に任せて、彼女の体を撫でる。

 その時、私の頬を温かい感触が襲った。

 気が付けば、彼女の右目から涙があふれ、私の頬に当たっていたのだ。


「私は何てことを!」


 自制心がようやく働き始めた。


 エレイナを泣かせてしまった!


 どうしたらいいか、と私の思考が停止してしまった。それに……


「やっ……」


 声が聞こえた。そんなはずはない! まだ薬の効果が切れるはずがないのだ。


「――や、め、て、下さい……」


 今度はハッキリ聞こえた。彼女の声だ。

 少しずつ彼女の手も動いているのが目に入った。

 驚きのあまり私は後ずさりする。先ほどまで座っていた椅子につまずき、倒れてしまった。


 私は混乱している。


 薬の量から考えて、この一晩は効いているはずだ。それなのに……ふと、目に入ったのはカーペットのシミ。こぼれたワインだ。

 ゆっくりと顔を上げてみれば、彼女がゆらゆらと力なく立ち上がっていた。しかし、薬が完全に抜けていないのであろう。膝をついてしまった。


 あの薬について、忘れていたことがあったのか?


 そんなことは、もうどうだっていい……今、目の前にいるのは怯えているエレイナ。いや、怯えているだけではない。


「捨てなさい! そんなものは……」


 懐にでも入れていたのであろう。彼女の手には短刀が握られていた。

 私は手を広げて歩み寄る。

 彼女の短刀は振るえて、今にも落ちそうだ。怯えているだけだ。にでも「何かあったら出せ」と言われ、持たせられたのであろう。


「――こ、ない、で下さい……」

「私は……君をずっと愛していた。私の愛しい人よ――」

「――来ないで……で下さい」


 私の言葉はもう彼女に届かないのか――手から滑り落ちそうな短刀は、しっかりと握り直された。


 1年もの間、私は彼女への愛し方を違っていたのだろうか?


 彼女なら、私を愛してくれるかもしれない、と思ったのは間違いだったのだろうか?


 私の金は彼女には届かず、神父や尼僧を太らせただけだったのか?


 理解できない、判らない、私には――

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