03.竜神教徒をもてなせ(後編)
ルキウスの屋敷は宮殿からさほど離れていない場所にあり、参殿するのには便利だが市場からは遠い。そのためアガタがこの屋敷で働くようになってキッチンの扱いの次に覚えなければならなかったのは、
しばらく走り、市場の近くにある乗り物置き場にスクーターを預け市場へと入ると、わっと喧騒が覆い被さってくる。グイターニャの中でも比較的海に近いここは、様々な食材が集う大市場である。近隣の特産品はもちろんのこと、船で運ばれてきた遠方の名物や珍品も数多く売られている。アガタは目当てのものを見付けるべく人混みの中を器用に歩き始めた。
新鮮な果物や野菜、輝くような鱗の魚。様々な売り物に目移りしてしまうが、今日の主な目的は週末の客人に振る舞う料理を試作するための材料である。アガタは昨晩試行錯誤した内容を思い返しながら市場を歩いた。メインの肉──それも炭火で調理したもの、コンロは竜血を使うため今回はあまり好ましくない──を何にするか、どうおめかしさせるかが悩みどころである。燻した風味を活かすためには主張の激しい凝ったソースは使いたくないが、もてなし料理である以上あまり素朴すぎるのも考えものだ。
そんなことを考えながら果物が並ぶ店先で足を止めたアガタは、黒々としたシグリ[カシスとも。少し苦味のあるベリー種の小さな果実。]を一掴みと、若いメリュ[桃の一種。若い段階と熟れてからで大きく風味が変わる。]の実を一つ買った。果物のソースを試してみるつもりなのだろう。
魚は今回必要ないためその界隈は通りすぎ、最後にアガタが向かったのは肉屋が並ぶ一角である。そこには独特の空気感があるが、アガタはそれが嫌いではなかった。ぷりぷりの腸詰め[ソーセージ。スパイスを効かせた豚肉のものがグイターニャ風で、大きさは赤子の腕ほどのものが主流。]を見付けたアガタは少し品定めをした後、三本ほど購入した。これは今日の夕食に使われることになるだろう。昼食は朝食の後に仕込んできた──リボン型のパスタを沈めた野菜スープの予定である──。
「やあ、今日は何にする?」
いつもの店へとやってきたアガタへ、店主が気さくに声をかけてくる。アガタは考える仕草をしながら店先を眺めた。豚の足、鳥一羽、牛の背。最終的に彼女が選んだのは豚と羊のあばらだった。柔らかくうまみがあり、脂も乗っている。週末の客人は──そしてアガタの主人も──働き盛りの男性であるため、悪くない選択だろう。
「その豚のあばら肉と羊のあばら肉を……少しでいいの、これくらいで」
人差し指と親指をあばら二つ分ほどの大きさに広げたアガタに店主は不思議そうに首を傾げたが、言われるがまま肉を冷蔵庫から取り出すと切り分け、油紙に包んで差し出した。
「はいよ」
告げられた値段分の銅貨と引き換えにそれを受け取り、アガタはその場を後にした。市場を出て、預けていたスクーターを引き取って荷物を積むと屋敷へと戻る。思いの外長いこと市場をうろついていたため昼食の時間が迫っていたが、既にあらかた準備は終えておいたため慌てることはなかった。温かなスープとパンを用意し、いつものように伝声管へと呼び掛ける。
「ルキウス様、ご飯が出来ましたよ」
「……すぐ行く」
配膳し、やってきたルキウスがそれをきれいに完食し、少し雑談する。いつもと変わらない食事風景である。
ルキウスはアガタの雇い主であるが必要以上に偉ぶったりはせず、かといって馴れ馴れしくもない。二人は適切な距離を保っており、信頼関係も築かれていた。宮廷魔術師であるため貴族と同等の地位を与えられている──実態としては貴族と肩を並べることなど認められないが──ルキウスと、ごく平凡な料理人の家に生まれたアガタとでは価値観も感性も違うため、こうして健全で対等な雇用関係が結べているのは幸運なことだった。
食事を終えたルキウスが去り、後片付けを終えたアガタは改めて台所で料理の準備を始めた。夕食の準備には早い。週末用の料理の試作である。二種類の肉を焼き、ソースと組み合わせて相性を探る。レシピ上のみで料理を組み立てるのではなく、実際に作ってその舌で確かめることは大事な行程であり、それを飛ばすことをアガタはよしとしなかった。二種の肉と二種のソースを組み合わせて味見をし、納得いく出来だったものを採用する。そのメインに合わせて付け合わせも考えなければならないが、彼女にとってその試行錯誤は楽しいものであるため苦ではない。
無事に週末のメニューが決まり、一息ついた後は夕食の準備である。市場で買った立派なソーセージを使った夕食はいつものように好評だった。
そして週末がやってきた。アガタは料理人であってメイドではないため客人を出迎えることはないが、精悍な雰囲気の男がルキウスと廊下を歩くところに出くわしたため一礼することにはなった。事前に聞いていた情報によれば客人はルキウスの個人的な友人で、敬虔な竜神教徒であることを除けばごく一般的なグイターニャ育ちの男性だという。
アガタは頃合いを見て夕食の準備をし、あとは仕上げだけになったところでルキウスからの連絡を待ちながらキッチンの隅で本を開いた。アガタは幼い頃から本を読むことが好きだった。料理の次に、ではあったが。今読んでいるのはかつてこの大地の支配者であった筈の竜たちについて書かれた本で、神話をわかりやすく物語風に脚色したものであった。「かつてギータと呼ばれる悪竜がいた。天まで届く火を吹き上げ周囲を荒らし回っていたその竜に、勇士が戦いを挑んだ」……。
「アガタ、いるかい?」
「はい」
「準備を頼むよ」
「わかりました」
伝声管を通して聞こえた声に答え、アガタは本を閉じると調理台へと戻った。……それからさほど客人を待たせることもなく、食堂のテーブルに料理が並べられる。
竜血や竜骨を使っていないということが明白な方が安心感があるだろうから、メインは炭火の風味を活かした肉料理である。羊のあばら肉にスパイスを擦り込み、その後焼き上げたものだ。一気に強火で焼き上げた後余熱で仕上げた肉は柔らかく、肉汁を逃していない。
「素晴らしい料理人を雇っておいでですね」
ナプキンで口を拭ってからそう感想を述べた客人へ主人であるルキウスは少し誇らしげに微笑み、そうでしょう、と嬉しそうに答えた。もしこの場にアガタがいたなら礼を述べただろうが、残念ながら彼女は既に下がっていた。炭火焼きの片付けには手間がかかるのだ。
こうして無事もてなしは終わり、客人は満足した様子で帰り、ルキウスはそれを見送ってからアガタの元を訪れるとその労を存分にねぎらった。アガタは安堵し、その晩はぐっすり眠って竜の夢を見た。
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