安積容輔

 残念だ。残念だ残念だ残念だ。

 返す返すも残念でならない。

 どこで間違ったというのか。脳裏には葉野芳果の姿がある。

「なになに病となになに能の違いってなんなんですか?」

「葉野さんは、腐敗と発酵の違いってわかる?」

 会話の中に自然に相手の名前を忍ばせる。

「いえ……」

「いや、普通は知らないんだよ」

 できない自分を認めてあげる。

「腐敗も発酵も、微生物によって食品が変化することで、人間にとって有用かどうかで決まっているんだ。つまり、有用なものが発酵で、有用でないものが腐敗。だから、本質的には同じなんだよ」

「へぇ! そうだったんですか!」

 知的な人物だと思わせる。ただし、押し付けがましくないように。

「正直言うと、僕も知らなかったんだ。最近知って驚いたんだよ。医者としては恥ずかしいから、秘密ね」

 親しみやすい部分を見せる。一人称は「僕」にする。

「ふふ。もちろんです」

 ささやかな秘密を共有する。

「病、と能、の違いも同じで、医学的には定義としての区別はないんだ。人間にとって有用かどうかで決まっている」

「じゃあ、私のこれも……」

「人間にとって、役に立つ可能性が大いにある、ってこと」

 葉野は目を見開き、口角が上がる。とどのつまり、それは「嬉しそうな顔」そのものだ。

 ……恋に恋する女子高生ほど、与しやすいものはない。

 本当に、あと少しだったのだ。

「安積先生にとっては、残念なことだったかもしれませんね」

 目の前には、鵜飼の辛気臭い顔がある。「お昼でも一緒にどうですか」。この男から昼食に誘われたことなど、今までただの一度もなかった。

 14時の食堂は、ピークタイムを過ぎて人気も少ない。

 鵜飼の前にはサラダと紅茶だけがあった。鵜飼のこの佇まいなので英国紳士にも見えないこともないが、この陰険そうな顔を見ると紳士などと形容するのもためらわれてしまう。

 鵜飼に話しかけられたときから、葉野の能力が、ここ数週間の記憶もろとも雲散霧消してしまった理由に思い当たっていた。

 俺は鵜飼に答えて言った。

「ええ、もちろん残念です。病気が根治したのは喜ぶべきことですが、彼女の記憶が傷つくことなく治ってくれたなら、それに越したことはなかった」

「それは難しいでしょうね。今の技術では。あれが最善だったと思っています」

「ご自分の仕業であることを認めるんですね」

「仕業、とは人聞きが悪くはないですか? 私は彼女の担当医なんです。どんな方法を用いてでも治療しようとするのは当然です」

「私はあなたを責めようと思ってるわけじゃない。それどころか、私は何も知らないんです。あなたがどのようなことを彼女に告げ、そしてそれによってなぜ彼女が意図的に自分で自分の記憶を消すという判断に至ったのか」

「ええ、それをお伝えしようと思って、声をかけさせていただきました」

 落ち窪んだ目に、痩せこけた頬。「辛気臭い」の擬人化みたいな男だが、今日はその辛気臭さは鳴りを潜めていた。鵜飼からは、言いしれぬ「余裕」とでも言うべきものが溢れていた。

「葉野さんに、3年前の件を教えてしまいました」

 予想はしていたから、驚かなかった。

 3年前の手術ミスから、俺の指先は動きが鈍った。

 本当は思い出したくもないのだ。脳動脈瘤の開頭手術後、患者の容態はみるみる悪くなり、一年後に死亡した。

 結局それは医療事故であるとは認められず、俺の経歴に傷がつくこともなかった。

 だが自分にはわかる。あれは間違いなく俺のミスだ。

 手術のたびに、あのミスが脳裏をよぎるのだ。殺人犯の手。俺の手はそうに違いなかった。

 あのミスを知る人物は少ない。手術のチームメンバーだって、術野を直接見ない麻酔医や臨床工学士には知られていないだろう。

 助手と看護師はわからない。問いただしたことがないからだ。

 ただ、あの手術をモニター越しに見つめていた当時の医局長、鵜飼義男には知られていたとしてもおかしくなかった。

 だが、これはカマかけに他ならなかった。「手術ミスの件ですか」などとのたまえば、自分でそう認めていることになる。

「3年前の件というのは?」

「あなたの手術ミスの件です」

 馬鹿野郎。いくら人の少ない食堂だからって。誰かに聞かれていたらどうするつもりなんだ。

 この男にはオブラートに包むだとか、婉曲表現をするだとかいう発想はないらしい。

「もちろん、賭けではありました。それを伝えても、彼女が記憶を消す選択をしなければ、大変なことになる。例の件は医療事故ではないとして片付けられましたからね」

 それを彼女に伝えて、記憶能の治療に当てようとしたということは、この男はすべてを知っているということだ。

「安積先生。ああいうやり方は、感心しませんね」

「何のことでしょう」

「相手は女子高生です。女子高生を手玉に取るようなやり方ということです」

「手玉に取ろうとしたわけではありません。ただ彼女にも、その能力を役立てることのできる場を与えてあげれば、少しは気も晴れるだろうと」

 鵜飼は無視して続けた。

「あなたは自らの記憶を消そうとしたんですね。3年前の手術ミスの記憶を。そうすれば、トラウマを払拭できてまた外科医として返り咲けるでしょうからね。あなたはこの病院に記憶能の患者が入院していることを知り、葉野さんに近づいた。彼女はどの程度の能力を持っているのか。他人の能力は消せるのか。それを調べようとしたんですね。人たらしのあなたのことですから、彼女に取り入るのは随分やりやすかったでしょう」

 俺が黙っているので、鵜飼は先を続けた。

「あなたは彼女のことを道具程度にしか思っていなかった。私はそれをそのまま彼女に伝えました。彼女はショックなようでしたが、どうせ忘れる記憶です。問題ないでしょう。それに加えてこの病気の特徴も伝えました。この病気は、自分で記憶のコントロールができるようになれば、自分で消すことができる。ただし、それをした場合は消した瞬間を含めた一ヶ月程度の記憶も一緒になくなってしまう。これは今の医学では、避けようのないことです、と」

「それで、私との記憶を『忘れてもいい記憶』にした、というわけですか」

「そうなります」

「あなたなりの、彼女への慈悲というわけですか」

「そうなります」

 俺がこの男の立場で、記憶能がそういうものだと知っていて、さらに記憶を消したがっている人物の存在を知れば、同じことを彼女にしたかもしれない。この男の言うことは、圧倒的に正しい。

「加えて言います。今のあなたは、明らかに外科医としての適性を欠いています。これを機にキッパリと外科医は辞めて、病理医にでもなるか、研究に専念でもするべきです。これはあなたに対する慈悲ということになります」

 すべて、この男の言うとおりなのだろう。そのとおりにすれば、全て丸く収まるのだろう。

 俺は葉野に対して、鵜飼のことを評して「みんなの幸せを第一に考えている」人だと言った。たしかにそれは間違っていない。ただ、それを実現するやり方は問わないということだ。

 俺は、この男を許せそうになかった。

 自分のことを棚に上げているという意識は、辛くもあった。

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