鵜飼義男
2751号室。脳梗塞。
小林一弘さん、手足のしびれ、悪心。無口な職人で、詳しい症状を聞き出すには十分信頼を得ている必要がある。
原田勝昌さん、右手のしびれ、視野狭窄。怒りっぽい。すべて受け流し、話を聞くことに徹する。
生越道三さん、めまい、悪心、物忘れ。フレンドリーだが、私の顔を忘れてしまうことがあるのでその度に説明を要する。
岩切兼さん、視野狭窄、足がもつれる。頭がよく、論理的に話すがこちらの曖昧な説明は許さない。
いずれも軽度。薬物療法で経過を見る。
今日の脳神経センター総回診も順調に終わりそうだった。昼食が取れそうなことに私は安心する。
ひとつ気になるのは、2753の個室だ。
記憶に関する能力全般をまとめて「記憶能」という。病気だったらそんな大雑把な分類など絶対にしないが、能例の報告が極端に少ない「能力」のことだからこんな分類名が許されている。
そして彼女のものは珍しい中でもさらに珍しく、他人の記憶にまで干渉してしまうのだ。それが故で彼女は個室に閉じ込められていた。
このあたりの器質的なメカニズムはほとんど解明されていない。脳波がどうだとか、活動電位がどうだとかいう論文はあるが、記憶能の研究はかなり解像度のはっきしない状態で停滞している。
個室の扉をノックする。中から「はい」と短い声。トーンは低い。やはり警戒は解けていないか。
理由はわからないが、私は彼女に嫌われてしまっているようだ。
「具合はどうですか」
「特に……変わりはないです」
私に対する態度が頑ななので、彼女の性格について得られている情報はあまり多くなかった。
彼女に対する懸念の一つは治療法だ。薬物を使った対処療法にも限度がある。
だから能力のコントロールの方も並行してやらせているが、根治するに越したことはないのだ。
一応、荒療治的な方法もないではないが、本人への負担を考えると今は踏み切れなかった。彼女の様子をつぶさに観察してタイミングを見計らうしかない。しかしそれは「絶好のチャンス」とでも言うべきものが訪れない限り、できそうにはなかった。
それにしても、彼女は入院患者とは思えないほどに生き生きしている。能力のおかげで見舞いも制限されているというのに、一体どういうわけがあるというのか。
「……ずいぶん健康そうに見えますが」
「それは……安積先生が……けっこう気をかけてくれて……」
思いがけぬ名前の登場に私は戸惑った。
「え? 安積先生が?」
思わず口をついて出てしまった。
安積容輔。確か今は講師だったか。同じ脳神経センター所属だし、私の患者の手術を担当することも多いから関わりは多いが、私の中の彼の印象は「いけ好かない」「うさんくさい」などのネガティブなワードがよく当てはまる。
人の心に取り入るのは抜群にうまい。いわゆる「人たらし」。いや、「患者たらし」か。それでいて彼自身は人間に興味などこれっぽっちもない。
人間というもの自体に興味があってこの職についたくせに、人間との接し方はお世辞にも上手とは言えない私である。一人一人への対応を精緻にマニュアル化することでなんとかこれまで対応してきた。だから安積先生は私とは正反対と言ってよかった。
手術好き。安積先生はそうだ。脳関連の手術なら何でもこなす。だから外科医としては、かなり優秀といっていいはずだ。ただ、あの事があってから、明らかにその手技は衰えを見せていた。
私としては、病理医か研究者になってもうまくやっていけるとは思うのだが……。
その安積先生が、なぜ。
記憶能の患者が入院していることは耳に入っていただろう。何か目的があって近づいたのか。
「彼と話しているんですか?」
「はい。入院した次の日くらいから、ほとんど毎日来てくれます」
もう2週間も、安積先生と葉野芳果は逢瀬を続けていることになる。
「理由については、なにか言っていましたか?」
戸惑いのこもった私のその質問は、逆に彼女を大いに戸惑わせてしまった。
「え……理由って……私の執刀医だから、って……」
執刀医だと? 私はまだ彼女の手術をするかどうかすら決めていないのに。
「いや、そんなはずはない。なにか目的があって君に近づいてるんじゃないのか」
彼女がムッとした顔をする。しまった。これは駄目な方だったか。
「それはないです。だって、患者との信頼関係が大切だ、って」
さすがは人たらし。何とでも言う。この反応から想像がついたが、おそらく彼女は安積先生に熱を上げているのだろう。その信頼に乗じて、奴は何をしようとしているのか。
言うかどうか一瞬迷ったが、このままでは彼女のためにならないと判断した。
「葉野さんに手術の予定は今のところありません。だから安積先生が執刀医としてあなたと会っているというのは嘘であって、なにか目的があると考えなければ説明がつかない」
「そんな……」
「安積先生は、あなたと何を話しているんです」
「調子はどう、とか、能力はコントロールできるようになったか、とかです。すごく気にかけてくれています」
彼女は決然と言い放った。安積先生のことを信頼したい気持ちと事実との間で揺らいでいるのかもしれない。
私の中には、一つの仮説があった。安積先生の目的に説明をつける一つの仮説が。
「もしかしたら、安積先生の目的に一つ心あたりがあるかもしれない」
彼女の表情が変わる。これはおそらく、期待に染まっている顔だ。安積先生の疑いを晴らす情報なら、どんなものでも有り難いのだろう。
それを彼女に伝えようと思ったのは、それが「荒療治」になるかもしれなかったからだ。
私には、これが絶好のチャンスに映ったのだった。
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