葉野芳果
ここはすべての色があわい。
普通は病院ってあちこち真っ白なのかもしれないけど、この病院はクリーム色を採用しているみたいで、壁も床もクリーム色で統一されている。
そりゃあ頭痛にも優しいだろうな、と思う。
朝5時。入院中はやることなんてなんにもなくて、寝てるか本読んでるかくらいしかできないからどうしても早めに起きてしまう。
だから私はムダに病棟を歩いて一周したりしてみたくなったりする。
この時間の病棟はまだなにも動き出していなくて、むしろ7時くらいになると看護師さんとかがひっきりなしに通るようになるので、落ち着いて散歩するには今の時間がちょうどいい。
普段人がたくさんいるところに誰もいない光景というのはちょっとワクワクするものだ。私はそのワクワクを入院生活の楽しみの一つにしていた。
長い廊下の先を見つめる。この時間は、クリーム色の空間にあわいオレンジ色の照明がうっすらかかっていて、とてもやさしい。
エレベーターホールには各種案内や病院のパンフレットなどが揃っている。「がんになったあなたへ」「ご家族ががんになったとき」。表紙には笑顔のおじいちゃん。笑顔で遠くを見つめる家族写真。
不安にならないようにって配慮なんだろうけど、改めて考えると微妙に変だ。本当にがんになったらそんな笑顔でいられないでしょ。おじいちゃん。
逆にショックを受けてるおじいちゃんの顔が表紙だったらそれはそれで絶対いやだな。私は一人でおかしくなってにやついてしまう。
入院生活なんて、全然さみしくなかった。夜の病院も、怖いイメージしかなかったけど、ここはやさしさと笑顔にあふれている。
そのやさしさと笑顔はあの人のイメージと重なる。「不安になるのは、当然のことだから」と言ってくれたあのやさしさ。あわい色のイメージ。
今日は何時に来てくれるだろう。それは朝起きた瞬間からずっと頭にあったことで、入院しているあいだじゅう頭にあることだ。
あと数時間で、あの人に会える。病棟で過ごす数時間はあまりに長くて、永遠かと思う。
化粧室に入って髪型だけは整える。メイクが禁止って聞いたときはショックだったけど、医師が顔色見て判断することもあるのでって言われたらしょうがない。大事だもんね。顔色。
寝癖姿もパジャマ姿も見られてるから今更かもしれないけど、やっぱりできるならなるべくかわいく見られたい。
鏡の中の私が微笑む。髪型、よし。表情、よし。ニキビ、なし。ノーメイク、仕方なし。
それでも、私は私の見た目をそんなに悪くないと思っている。いける。ノーメイクでも、十分戦える。
化粧室を後にした私に、朝日がオレンジ色を投げかけてくる。
そのオレンジ色にすらあの人の雰囲気を見出してしまって、ああこれは完全に恋の病だな、と思わずにはいられなかった。
◆
9時前の病棟はかなり慌ただしい。私に割り当てられた個室はスタッフステーションに近くて、自販機コーナーとかエレベーターホールにも近いから、扉を開けると病棟を行き来する喧騒がそのまま流れ込んでくる。
姉が骨折で入院したときは4人部屋だったのに、個室なんてすごい。もちろん、それは私の病気の状態と深く関わっている。話し相手がいなくてヒマだけど、あの人と一瞬だけでも二人っきりになれるのは個室のおかげだった。
コンコン。ノックの音。
私の心は体ごと硬直する。今日は9時だった。「いつ手術があるか予測がつかないから、いつ来れるかも明言はできないんだ」。頭の中に、あの人の声。
髪型、よし。表情、よし。
「
その声が先に部屋に入ってきて、私の心はじわりと熱を持つ。低くて、落ち着いた声。イケボというわけでもないと思うけど、なんで彼の声ってこんなにも心に深く入ってくるのだろう。
「おはようございます」
「……おはようございます」
顔は見れなかった。明らかに赤くなっている私の顔を見られたくなかったから。何が顔色を見て判断する、だよ。こんな顔色見られたら熱があるって診断されちゃうよ。お願いだからメイクさせてよ。
だから、「
たぶん、三十代後半くらい。すべてを包み込むような優しい笑顔のおかげで、私の入院生活にはクリーム色の安心感が広がっている。
「調子はどうかな」
「昨日は、大丈夫でした」
頭痛のことだ。
一ヶ月ほど前から、激しい頭痛がなんども起きるようになった。
それだけなら、こんな大事にはなっていなかったのかもしれない。
私の頭痛は、私の記憶を削り、そして近くにいた母の記憶までもを削った。
そういう病気があることはテレビで見たことがあった。病名は、全部漢字でできていて全然覚えられなかったけど、最後が「能」で終わっていた。
「なになに病」とか「なになに障害」とかじゃなくて「なになに能」。確かに、うまく使えば「記憶を消す能力」っぽくて、テレビを見ていた私は、ただ便利じゃん、と思った。
私の場合は、頭痛の前3時間くらいの記憶がなくなることが多いけど、場合によっては物の名前とか、3年前の記憶とかもなくなったりする。
父も、母も、私の周りの人物がみんなして物忘れの症状を訴えるようになったので、私は自分から病院にかかることを決めた。
「記憶を消す能力」だなんておめでたい話じゃなかった。記憶が失われる恐怖は並大抵のことじゃない。ましてや、この頭痛は周りの人物にも被害を与えてしまう「加害」そのものだ。
はやく隔離してほしかった。私の大好きな人達を傷つけたくなかった。
「しばらくは、薬物療法で様子を見ます。それと同時並行で能力のトレーニングもします」
私の担当の先生は安積先生とは別の人で、
色でいうと黒って感じだし、安積先生が「まる」だとしたらこっちは「とげとげ」という感じ。
「入院ですか?」と私が聞くと、「入院ですよ?」と「バカじゃないかこいつ」みたいな顔でそう言うので、その瞬間私はこの先生がちょっと嫌いになってしまった。
じゃあ安積先生はなんなのかといえば、私の執刀医ということらしかった。どうやら私は手術をするらしい。
鵜飼先生によれば、手術はせずに薬での治療で様子を見るという話だったけど、どうやら話が変わったみたい。
私は鵜飼先生のことをあんまりよく思ってないことを安積先生に言ったら「あの人はああ見えてもみんなの幸せを第一に考えてる人なんだよ」って言うから、この人の優しさは全方位に向いているんだ、と思って嬉しくなった。
「眠れた?」
「はい、おかげさまで」
安積先生は「よかった」というふうに微笑む。面白いくらいに目尻が下がる。いつまでもこの笑顔を見ていたい、と思う。
「コントロールの方はどう?」
「それも結構調子がよくって」
入院しはじめの頃ほどの不安がなくなっていた理由はそれだった。
もちろん、安積先生に出会えたことも大きいけど、薬を飲んで頭痛も治まってきていたし、ある程度なら記憶の消える時期や範囲も操作できるようになってきて、この病気は私の「能力」と言えるほどにはなっていた。
安積先生は再び微笑む。
「本当によかった」
「……はい」
「人に使ってみたりは?」
「それは……まだ怖くて」
「そっか。そっちも、いつかうまくできるようになるといいね」
「……はい」
そうか。この能力は「うまくできるようになるといい」ものなんだ。こんなの、無くせるものなら無くしたいと思っていたし、鵜飼先生もそう言っていた。基本的には薬で症状を抑えて、能力のコントロールの方は、完全に症状が収まるまでに暴走してしまわないようにしておくためにするもの。そうとばかり思っていた。
でも確かに、人の記憶もうまく消せるとなれば、消したい記憶のある人も多いだろうし、人の役に立てるのかもしれない。
なんだか希望が見えた気がして、嬉しかった。
安積先生はいつも10分ほどでいなくなってしまう。お医者さんが私なんかに割いていられる時間がそんなに多くないのはわかっているけど、それでもやっぱり、もっと長く、もっと長くと思ってしまう。もっと長く、このクリーム色の空気に包まれていたい。
「じゃあ、また明日ね」
安積先生は本当にかわいい笑顔をする。ずっと年上の男性にこんなことを言うのは失礼かもしれないけど、ちょっと犬みたいだ。それも大型犬。人懐っこい大型犬だ。
「はい、あの、いつも来てもらって、ありがとうございます」
「いやいや。僕の方もずいぶん助かってるからね」
「助かってる?」
安積先生が私と会っているのは「患者との信頼関係を築く」ため。それも患者の命を預かる外科医としての仕事のひとつなのだと、そう言っていた。だから、安積先生が助かっているとは、聞いたことがなかった。
私がそう聞き返すと、安積先生は一瞬あっ、という顔をして言った。
「だって、最初あんなに不安げだった子が、明るさを取り戻していくのを見てると、こっちまで元気になれる気がするからね」
私なんかと話して助かることがあるだなんて、それを聞いたこっちのほうが勇気づけられる。
安積先生と話していると、自分はここにいてもいいんだ、こんな
そういうところが好きなんだろうな。と思ってしまって、その「好き」という言葉に自分で打ちのめされた。
私は、安積先生のことが好きなんだ。
その自覚のせいで、私はさっきより赤さを増した顔色で安積先生を見送らなければならなくなってしまった。
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