第二章 国境の砦 1

 険しい山並みを進み始めて三日目、ようやく木立を抜けた。

 スキンファクシに空を駆けさせれば難なく越えられただろう山並みだったが、空を飛べば目だってしまう。近くに他にもドラゴンがいるかもしれず、木々の合間を縫っていくほうが目立たないとソールが提案したのだ。それに、ソールの抱えている荷物が多すぎて、二人で馬に乗るのは難しそうだった。

 「一番近い村があるのは、この先だ。」

 「ふーん…で、キミはそれ、重くないの?」

ゆっくりと歩み続ける馬の上から、フリーダは、呆れたような視線をソールのほうにやった。背中に背負っているのは彼の体の三倍ほどの体積もある大荷物で、大量の薪に毛皮に、それに鍋まで乗っかっている。

 「そんなの、置いてくれば良かったのに」

 「家を空けるんだから大事なもんは置いてこられないだろ。それに、飯がなきゃ死んじまう。」

 「だからって…、せめて薪くらいは」

 「キューッ」

肩の上で、ティキが抗議の声を上げる。

 「燃料は、こいつの飯。火が無いと死んじまうんだからさ。あと、この鍋も火にかけないと粥が出ない仕組みなんだよ」

 「ああ、そう…そうね。だけど、…まあ、いいわ」

諦めたように、フリーダは視線を正面に戻した。

 「で、村ってどの辺りなの」

 「見えないか? そこの川のほとり…」

ソールは、思わず足を止めた。「…全部凍ってる」

 「そうよ、当たり前でしょ」

 「……。」

一人になってから、一度も山を出ていなかった。

 山に降る雪はいつか止むと思っていたし、まさか外の世界まで冬になっているとは思っていなかった。

 (世界が真っ白だ…)

山々や森の木々と同じように、白一色の静まり返った世界。空はどこまでも淀んだ色のまま、山奥と同じように低くたれこめた雲が続いている。


 世界には、もっと色んな色があったはずなのに。


 歩き出しながら、ソールは、かつてここへ来た時のことを思い出そうと試みた。ずっと昔――、父がまだ生きていた頃のこと。夏の日差しと緑の木漏れ日、この坂道には草原が広がって、草を食む羊たちの群れがいたはずだった。

 溜息とともに白い息を吐いて、彼は歩調を速めた。

 「ねえ、そっちで合ってるの?」

 「合ってるよ」

凍りついた斜面を駆け足に降り下ったところに、確かに村はまだあった。ただし、どの家も死んだように静まり返って、もう長いこと人は住んでいないようだった。戸口は凍りつき、長いつららが窓を傷つけている。雪の重みで潰れてしまっている家もある。

 「皆、どこに行ったんだ」

 「多分もっと南のほうね。雪がまだ降っていないところ」

と、フリーダ。「そうじゃなければ、北の、私の国だと思うわ。結界に守られた町へ逃げて来た人たちも、幾らかはいたもの。」

 「……。」

ソールは、まだ形を残している一軒に近づいた。荷物を降ろすと、扉を力任せに引き開けた。ばりばりと音がして、衝撃で屋根に積もっていた雪の一部が滑り落ちる。

 「ちょっと、そんな乱暴に」

構わず、ソールは無人の家の中に踏み込んでいく。足元でほこりが舞った。

 (…ここには、いつから人がいないんだろう)

しん、と静まり返った冷たい空気が家の中にわだかまっている。かまどの灰は冷えて久しく、居間の屋根は落ちて雪が溜まっている。辛うじて壁があるのは土間と台所だけだ。

 戸口に立っているソールの後ろから、フリーダが覗き込む。

 「もしかして、今夜はここで泊まるの?」

 「ああ。雪でかまくらを作るより手間がかからないだろ」

これまでは、岩陰や雪を積み上げて作った壁の中で宿をとっていたのだ。フリーダは、スキンファクシをなだめすかしながら土間に入ってきて、ちょっと眉をしかめながら染みだらけの天井を見上げた。

 「辛うじて屋根と壁のあるところで眠れるってわけね。在り難いことだわ」

とても心からそう思っているようには聞こえない口調で言って、諦めたように馬のはみと鞍をはずしてやる。ソールのほうは、壊れた椅子の端に上着をひっかけると、荷物の中から取り出した毛皮を土間にしいて、かまどの中に薪を何本か放り込んだ。待ちかねたようにティキが駆け込んで行く。リスにしか見えなかった小動物の尾が明るい炎に包まれ、その尾が湿った薪に触れたとたん、ぱっと燃え上がる。ティキは気持ち良さそうに起きたばかりの火を浴びている。

 ソールの上着のポケットから、ヤルルとアルルがそっと顔を出した。

 「あったかくなったぞ。出てきても大丈夫だ」

表情をぱっと明るくして、ふわりと妖精の子供たちが飛び出してきた。薄緑のふわふわとした髪が揺れる。二人は、ティキと一緒にかまどの端に腰を下ろすと、火に向かって手を翳して温まりはじめた。妖精族は寒さに弱いのだ。

 「ここから先は平野だし、あと何日かすれば私の国の端に出られそうね」

フリーダは、鞍に敷いていた敷き布を土間の端に置かれていたベンチの上に広げながら言った。

 「敵が来なきゃな。平野ってことは、隠れる場所も無いわけだしな」

 「あ、…そうね」

口元に手をやってから、彼女は、小さく溜息をついて布の上に上品に腰を下ろした。

 「こんなところで敵に会いたくはないわね…。」

 「冬の女王、だっけ? そいつは、何であんたを狙うんだ」

 「私というより、たぶん、その子たちよ」

彼女は、ティキの毛皮に楽しそうにじゃれついているヤルルとアルルに視線をやった。

 「その子たちは、妖精の森を治める女王様の直系なの。次の世代の森の妖精族の長になるべき子たちよ。…妖精族は、すべてを血で記憶する。魔法や伝承、特別な知識もすべて。ラヴェンナは、森の妖精族の伝承を絶やしたいんじゃないのかしら」

 「そんなことして何になるんだ」

 「分からないわよ、そんなこと」

彼女は、口を尖らせた。

 「――分からないわよ。どうして大地を凍らせたりするのか。冬の女王は、昔から北の果ての高い山に棲んでいると言われていた。ずっと長い間、それはただの伝説でしかなかった。どうして今頃になって、私たちの国や、そのほかの国にまで攻め込んできたりしたのか、こっちが理由を教えてもらたいたいくらいよ。」

 「誰も聞かなかったのか」

 「どうやって聞くの。果ての山は遠すぎるし、吹雪や怪物たちに阻まれて、とても辿り着けやしないわ。それに、出合ったら最後、心臓を凍らされてしまうような相手なのよ」

 「…ふーん」

ぱちっ、と薪の上で火がはぜる。振り返って、ソールは薪の具合を確かめ、荷物から取り出した鍋をその上に置いた。

 「今日もミルク粥なのね」

フリーダは、少しうんざりした顔だ。「体があったまるから、いいけど…。」

 「ちょっと飽きた」

振り返って、アルルが言った。

 「でも嫌いじゃないよ」

とヤルル。

 「キミはよく飽きずに毎日食べてられたわね」

 「飽きるって? 食えれば、なんだって一緒だろ」

 「…はあ。食べ物にこだわりが無いひとはいいわねぇ」

ぼやきを聞き流し、ソールは、鍋から取り出した粥を器に取り分ける。味に飽きるとはいえ、それでも、冷え切った体に湯気のたつ暖かい粥は、美味しかった。

 フリーダと妖精たちが粥をすすっている間、早々に食事を終えたソールのほうは、毛皮の上に腰を下ろして黄金の鎚をいじっていた。重さや握り心地を確かめ、放り投げてみたり、ひっくり返してみたり。

 「どうしたの? それ、何か気になるの」

 「うん、まぁ」

ずしりとする感覚はあるが、普段は、ただの金槌とそれほど変わらない。巨人やドラゴンを倒そうとしたときのあの重みや衝撃は、あの時だけ生まれたものだった。大きさも、重さも自在に変えることが出来るのだ。使い方など、教わった覚えはなかった。父マグニも、ただ持っていろとしか言わなかった。

 (でも俺は、これの使い方を知ってる…いや、分かる)

それは、獣の皮のなめし方や家の梁の組み立て方と同じく、血の中に"覚えて"いる祖先の記憶だ。ならば何故、父はこれを使おうとしなかったのだろう。

 (これがあれば、きっと、父さんは死なずに済んだ)

脳裏によぎる、歯の欠けた斧と、冷たい青黒い石。あのとき、マグニは「お前には戦う力がある」と言った。

 (父さんは…どうして…)

 「ソール」

顔を上げると、膝の辺りにヤルルがいて、器のほうを指していた。

 「おかわり」

 「いいよ。良く食うな、お前」

隣でスキンファクシがいななく。腹をすかせたのか、土間に落ちていた古い藁を齧っているのだ。

 「そうね。あなたのご飯も、早く見つけないと。――ねえソール、ここを出たら馬で一気に走ろうと思うの。どうせ見つかるんなら一緒でしょ」

 「それは構わないけど。アテがあるのか?」

 「ええ。この先の川を越えたすぐのところに、国境くにざかいの砦があるのよ。そこに行けば、馬用の飼い葉があるはずだから」

 「砦?」

 「正確には、城塞都市ね。城壁に囲まれた村なの、兵士以外の人も住んでいるわよ。一緒にスキンファクシに乗れば、半日もかからずに着くと思う。あとちょっとだから、その大荷物はここに置いて行かない?」

ソールは、ちょっと考え込んだ。

 「鍋も薪も?」

 「そうよ。食料も燃料も、砦に行けば手に入るから。砦から先のローグレスの国の中は、この辺りよりはずっと安全よ。」

 「……。」

彼は、火の側に丸くなっているティキのほうを、ちらりと見やった。

 「――俺はいい。一日くらい食わなくても大丈夫だから。けど、こいつは火が無いとダメだ」

 「じゃあ、薪は少しだけ持って行きましょう。」

フリーダが妥協する。「それで、いいでしょ?」

 「ああ」

火は、かまどの下でちろちろと燃えている。ソールは無造作に薪をもう一つ火の中に投げ入れた。おなか一杯になったヤルルとアルルは、まるくなっているティキの腹のあたりを枕がわりに、うとうとしかかっている。フリーダも小さくあくびを一つした。

 建物の外は、しんと静まり返っている。もうそろそろ日は暮れた頃だろうか。雪に囲まれた、半分崩れかかった小屋の中は、火のお陰で暖かく、快適な寝床が無くてもすぐに眠りにつけそうだった。

 「私も休むわ。おやすみなさい」

 「おやすみ。」

ベンチの上に横になったフリーダは、目を閉じるとすぐに寝息を立て始めた。この何日も雪の森の中での野宿ばかりで、寒さで浅い眠りしか得られていなかったせいで疲れていたのかもしれない。ソールだけは、毛皮の上に座ったまま踊る火を見つめていた。

 眠りは、彼にとって習慣でしかなかった。眠らずにいようと思えば何日でも起きていられる気がする。ただ、腹が減るのだけはどうしようもなかった。火が燃えるのに薪やほかの燃料を必要とするように、命という火を燃やすのにも、たぶん、燃料が必要なのだ。




 座ったまま、浅い眠りの中でどのくらい過ごしていただろう。

 ふと外に気配を感じて、彼は目を覚ました。物音が聞こえたわけではないが、確かに、何か生き物がうごめくような気配がある。眠っているフリーダたちを起こさないよう静かに立ち上がったとき、ティキがぱちりと目を開けた。体を起こしたとたん、もたれかかっていた妖精たちがかまどの縁の石の上にごろんと転がり落ちる。だが、よく眠っている二人は、小さく何か呟いただけで目を覚まさない。

 ソールは鎚を手に、そっと入り口の扉に近づいた。真っ暗な中に、荒い息が聞こえる。それにかすかな獣の匂い。肩の上に駆け上がってきたティキが、用心深く低く一声鳴いた。

 「ああ。狼みたいだな」

こんな、人どころか獲物になる動物さえいそうにない廃村に狼の群れがいる。それとも、狙っている獲物というのは自分たちのことなのか。ソールは、ちらりと部屋の中を振り返った。スキンファクシが外の気配に気づいて目を覚まし、不機嫌そうに足を踏み鳴らしている。けれど馬の持ち主のフリーダは、深い眠りの中にあって、まだ目を覚ましていない。

 彼は凍りついた扉を勢いよく押し開き、隙間から体を押し出すようにして外に滑り出すと、扉を元通り閉めなおした。頭上で低い唸り声がした。顔を上げると、ちょうど直ぐ目の前の屋根の上に、狼が一頭、獲物を待ち構えていた。

 「ガウウッ」

いきなり、首筋目掛けて飛び掛ってくる。

 しかしソールは片手でその狼の首をひっつかみ、牙の届く前に無造作に遠くの雪の上に投げ飛ばした。どこか暗がりの奥のほうで、キャンッ、と悲鳴が上がる。その声で、入り口を取り囲むようにしていた群れが一瞬、ひるんだ。

 数十頭はいるだろうか。飢えた目を爛々と光らせた痩せた狼たちが、ソールたちのいた廃屋の周囲を取り囲んでいる。

 「退け」

ソールは、静かに、しかし恐れを抱かせるに十分な威厳を持って言った。真正面にいる、一際大きな狼の目をじっ、と見つめながら。

 狼の前足がぴくりと動き、低く唸りながら頭を地面に近づける。襲い掛かるべきか、引くべきかを図っているのだ。ソールは、一歩狼たちのほうへ踏み出した。

 「向かって来れば、死ぬぞ。」

じりっ、と狼が一歩あとすさる。ソールの手に提げた金色の鎚を見つめている。まるで、それが武器なのか飾りなのかを確かめようとするかのように。

 「キュッ」

ティキが、肩の上で雄雄しく尻尾を立てた。その尾がちろちろと燃える火に変わっていくのを見て、狼たちは慌てて飛び退った。大きな狼が撤退を吼え告げる。周囲にいた獣の群れは、波の引くように一目散に闇の中へと消えていった。あとには、無数の足跡だけが残されている。

 中に戻ると、目を覚ましたフリーダが眠たそうに目をこすりながらベンチの上に起き上がろうとしているところだった。

 「何? どうしたの」

 「いや、特に何も。」

ソールは元のように毛皮の上に腰を下ろし、ティキは、かまどの縁に戻って行く。ソールがうっすら微笑んでいるのに気づいたフリーダは、不思議そうな顔をしている。

 「外で何かあった?」

 「狼がいたんだよ。森の中には動物なんて一匹もいなかったのに、外の世界には居るんだな。」

こんな雪の中でも、人の捨てて行った土地でも、――獣たちは、何とか生きているのだ。それが妙に嬉しかった。

 「まだ朝まで時間はある。眠っててくれ」

不思議そうな顔をしながらも、フリーダは横になった。春色の瞳が閉ざされ、寝息を立て始めるまで、ソールは、横目に彼女を見ていた。静けさが落ちている。しかしそれは孤独な沈黙ではない。

 ヤルルがもぞもぞと動き、寝返りをうった。アルルが小さな声で何か呟きながら、多いかぶさってきたヤルルの腕を払いのける。ティキは、ぴくりと耳を動かしたきり、丸くなったまま動かない。

 ソールはそのまま、夜明けまで火の番をしながらずっと座っていた。やがて闇が開け、曇天の隙間から光が挿して来る頃まで。

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