第一章 雪深きヴィークリーズ 3
あれは、確かにひどい吹雪の晩だった。
今までに経験したこともないほどの大雪で、父のマグニは何度も雪かきをしに外に出て行った。そして、髪から垂らしたつららをカチカチいわせながら戻って来た。
ソールはティキと一緒に、暖炉の側で火を起こしながら待っていた。家が飛ばされてしまうのではないかと思うほど強い風が雨戸を叩き、ときおり暖炉の火は大きく揺れた。――そのたびに、ティキは悲鳴を上げて火の周りを走り回っていた。もともと火に棲む生き物であるティキにとって火は命の糧であり、日に一度は触れなければ存在しつづけられないほど大事なものだ。
そんな嵐も、何日かすれば収まるはずだと思っていた。何も心配することはないのだと。――けれど予想に反して、空は、いっこうに晴れることがなかった。
揺り起こされたのは、夜遅くなってからだった。眠たい目をこすりながら起き上がると、隣の、父の寝ていた場所は空になり、目の前に、いつになく険しい表情をして手斧を握り締めたマグニが立っていた。
「なに? とうさん」
「行かなきゃならん。お前はティキと一緒に隠れていなさい」
有無を言わさず上着を着せられ、ソールは、台所の下の食料庫に押し込められた。
「あの首飾りは持ってるな」
「うん」
ソールは、上着の下から鎖を取り出した。その先には、小さな黄金の鎚が揺れている。どんな意味を持つものかは知らない。大事にするように言われて、肌身離さず首にかけてきたものだ。
マグニは僅かに表情をほころばせ、腕を伸ばすと、大きな手でソールの赤っぽい金髪を撫でた。
「ソール。お前には俺と違って、戦う力がある。だがまだ、戦いに赴くにはまだ小さすぎる。死なせるわけにはいかんのだ」
「死ぬって、何?」
「石になるってことさ。絶対に出てくるな。何があろうとも、絶対に」
蓋を閉める直前に見たのは、父マグニの微笑む髭面。
「生き残れ。これからは、お前がここを守っていくんだ」
蓋とともに光が消え、闇の中に閉ざされる。
そのあと何が起きたのかは、分からない。
ほどなくして、頭上から激しい轟音と恐ろしげな咆哮が響いてきて、ソールは両手で頭を抱えて毛布と一緒に丸くなった。ランプの火が消えそうなくらい、地面が揺れていた。
(とうさん…怖いよ…)
恐怖、という感情を知ったのは、その時が初めてだった。死ぬ、ということの意味を知ったのは、それから数日経って、おそるおそる地下室を出てみたときだった。
家は半分壊れて、台所の端から雪が降り込んでいた。廊下は真っ白に凍り付いて、ちらちらと舞い降りる白い雪の向こうに、ぽつんと立っている黒々とした岩の柱が見えた。近づいて触れると、それは冷たく冷え切っていた。
呆然としたまま、ソールは、その前にしばらく立ち尽くしていた。
自分たちは死ねば石になるのだと、何度も聞かされていた。
森の奥には、同じように石と化した遠い先祖たちがたくさんいた。けれど、こんなに早く、…こんなに簡単に、「死」というものが訪れるとは思ってもみなかった。つい数日前まで暖かかった体が、物言わぬ冷たい塊に変わってしまう。大きな手も、優しい声も、もうどこにもない。
ティキが肩に駆け上がって、ソールの頬を突いた。
「…泣いてなんかない」
張り付いた、冷たい霜の跡を拭いながら、ソールは唇を噛んだ。
「約束したんだ。俺が、ここを守らなきゃ」
雪の中には、マグニの使っていた大きな斧が砕けて突き立っていた。それを拾い上げて、ソールは家に戻った。
今までに、涙を流したのは、あの時一度だけだった。
* * * * * * * * *
「…ん?」
何かひやっこいものが顔に触れるのに気づいて、彼は目を覚ました。ティキではない。ティキの前足は、いつも温かいのだ。
目の前に、こちらをのぞきこんでいる小さな顔が二つある。焦点が合うにつれ、彼はそれが、薄緑色の髪をした小さな子供たちであることに気が付いた。
「?!」
飛び起きると、子供たちが薄い透明な羽根を広げて、ふわりと宙に浮かび上がった。ソールは自分の顔を確かめ、目をぱちくりさせて辺りを見回した。辺りには見慣れた台所の風景が広がっている。夢を見ているわけではないようだ。
「何で…妖精がここに」
話に聞いたことしかないが、それが妖精族だということは何となく分かった。羽根が生えた小人なんて、他にいるはずもない。何ひとつ身につけていない手の平に乗るほどの子供たちは、首をかしげてソールの膝の上に降り立った。二人は、まるで双子のようにそっくりな顔をしている。
「お前ら、一体どこから入って来た」
一人が、少しだけすきまの空いたドアのほうを指す。
「いや、そうじゃなくて…どこから来た? この山には妖精なんて棲んでない」
それには返事せず、もう一人が、じぶんのおなかを指した。
「…?」
もう一人も、同じ仕草をする。
「もしかして、腹がへってる?」
頷くところを見ると、そういうことらしい。ソールは起き上がって、かまどの火を確かめると鍋を火にかけて蓋を叩いた。ティキの姿がないのは、ドアの隙間からどこかに出て行ったせいらしい。
「ったく、あいつ、ドアは開けられるくせに閉められないからなあ」
文句を言いながら、熱々の粥を椀に入れて、スプーンでかきまぜて差し出す。
「これしかないけど。食えるのか? お前ら」
聞くより早く、二人はスプーンを無視して粥に手をつっこむなり、がつがつと食べはじめた。ミルクをすすり、顔じゅう麦粒だらけにしながら、いかにもうまそうに飲み込んでいる。よほど空腹だったらしい。よく見ると、二人は片方が男の子で、もう片方が女の子だった。綿毛のような繊細な髪とは裏腹に、蜻蛉のように見える羽根は丈夫そうで、折り曲げたり踏んづけたりしても破れそうにない。
「へくちっ」
一人が、小さくクシャミした。
「ああ、服が無いのか…ていうか、そんな格好でどうやってここまで来たんだよ」
戸棚を探して、服を作れそうな小さな布切れを引っ張り出してきたとき、後ろで小さな悲鳴が上がった。
「あ、…あ、キミ、何てことを」
フリーダだ。暖炉の側に乾かしていた上着を手に、真っ青になって震えている。
「妖精の繭に何をしたの?!」
視線は、テーブルの上に零れた麦粒を拾っては口に運んでいる、裸の小さな子供たちに釘付けになっている。
「繭? 何のことだよ。こいつら、目が覚めたら俺の顔の上にいたんだ」
「この子たちを保護するために連れて帰るところだったのよ!」
少女の声は、ほとんど悲鳴のようになっていた。「繭に包まれて眠ってたはずよ。安全圏に入るまでは破れるはずなかったのに!」
「知らないよ。光ってる妙なものは見つけたけど、暖炉の上に置いただけだし」
「私の上着をどかしたでしょ!」
「濡れたまま置いといたらカビが生えるだろ」
ソールも、少し苛立ってきた。「俺はあんたの事情なんか知らない。泊めてやってるんだから、いちいち怒鳴るなよ」
「それは――…」
「いつまでも開けっ放しにしないでくれ。入るなら入るで、入り口閉めて」
所在無げに台所の入り口で佇んでいたフリーダだったが、いつまでもそうしているわけにはいかない。渋々という顔で扉を閉め、上着を抱えたまま中に入って来た。ソールのほうは、引っ張り出してきた布を手に妖精たちの体の大きさを測り始めた。
「なに…してるの?」
「服作ろうと思って。このまんまじゃ風邪ひくだろ」
かまどの側の窓辺には、針やはさみを入れた小さな籠が吊るしてある。
「そんなことも出来るの?」
「当たり前だろ。他に誰もいないんだ。必要なことは自分が出来なきゃどうしようもない。」
妖精の子供たちは、食べ物に満足したらしく、ふくらんだ腹をさすりながらソールのほうにふわりと飛んでいく。肩さきに座って、彼の手元をじっと見下ろしていた。
「……。」
「あんたも腹が減ってるなら、鍋から適当に取ってくれ。」
「ずっと一人で暮らしているのよね。食べ物は、どうしてるの」
「鍋から出てくるよ。その鍋、魔法の鍋だから。粥しか出せないけど」
布の大きさを揃えて断つと、馴れた手つきで針を走らせていく。唖然としていたフリーダだったが、気を取り直して、別のことを言った。
「水を貰ってもいい? スキンファクシに飲ませてやりたいの」
「いいよ。そこの水桶から適当に汲んで」
廊下のほうでは、目を覚ました馬が脚を踏み鳴らすような音が聞こえていた。狭い玄関では、思うように動けないでいるのだ。けれど、ソールは目の前の仕事に集中していて、フリーダのことに構う気がなかった。
「キュッ」
フリーダの出て行った扉から、ティキが駆け戻って来た。ひくひくと鼻を動かし、見慣れない妖精たちをちょっと眺め、それからいつもの場所に丸くなる。
「よし、出来た」
縫いあがったばかりの服を妖精たちに被せて一息ついてから、彼は、さっきから廊下がやけに静かなことに気が付いた。
(あれ?)
覗いてみると、玄関に馬がいない。だが、外からいななきが聞こえてくる。
フリーダと馬は、玄関の外にいた。白い雪の上には、走り回ったような足跡がついている。
「何してるんだ?」
「この辺りを少し見て回って来たのよ。ほんとにここだけしか家がないのね。町は遠そうだわ」
「勝手に歩き回るな」
ソールは、むっとして言った。「ここは、俺の山なんだから。」
「あら、何よ。領地でもあるまいし――」
「元気になったなら、さっさと出て行ってくれ。こいつらも、あんたのなんだろ」
肩に張り付いていた妖精たちを苦労して引き離し、フリーダに差し出そうとするが、二人の妖精たちは、無言にソールの指をつかんで離そうとしない。小さな体なのに、すごい力だ。
「離せよ。俺はお前らの仲間じゃないし」
「んー」
首を振って、何か訴えるようにソールを見上げる。フリーダのほうに目をやると、彼女も困惑した様子だった。
「同族でもないのにそんなに懐くなんて、おかしいわね。妖精族は、本来はとても――」
そのとき、頭上でごうっと音がした。突然、冷たい風とともに雪が降り始める。
視界の端を、黒い影が過ぎっていく。
「! あれは…」
「まずい。おい、お前ら、家の中に入れ」
ソールは慌てて玄関に飛び込んだ。フリーダも馬を引いてついてくる。扉を閉めるのと同時に、家のすぐ上を、大きな羽音がスレスレに通り過ぎていくのが分かった。スキンファクシが足を踏み鳴らして嘶き、妖精たちは、震えながらぎゅっとソールにしがみついている。
「ドラゴン…、あいつ、まだ諦めてなかったのか」
「私たちを探しているんだわ」
低く呟き、フリーダは胸の前で拳を握り締めた。「あいつがいるんじゃ、ここから出られないじゃない」
「何で、あんなのに追われてるんだよ」
「それは…。」
少女は口ごもっている。ソールは、彼の上着のポケットにもぐりこもうとしている妖精たちのほうに視線をやり、渋々とそれを容認しながら重ねて言った。
「俺はあんたらに早くここを出てってもらいたい。巻き込まれるのはごめんだが、ずっと居られるよりはマシだ。隠してることがあるなら、早く言えよ」
「何よ。そんな言い方しなくてもいいでしょう? 私だって、好きでこんなところに落ちてきたわけじゃないんだから。一刻も早く、ローグレスに帰りたかったのよ!」
「ローグレス?」
「私の国よ。今は魔女と戦っていて、それで、妖精国に援軍を要請しに行っていたの。」
台所では、ドラゴンの羽音を聞きつけたティキが不安げに窓の外を眺めやっていた。ソールが戻って来たのを見て、ほっとしたように一目散に駆け寄って、彼の肩の上に駆け上がった。かまどの中では薪がぱちぱちと音を立てている。曇った窓の外には、相変わらず雪が降り続けているのが見えた。
「魔女との戦争が始まったのは、私が生まれてすぐの頃だったわ。」
長椅子の端に腰を下ろして、フリーダは手早く語り始めた。
「そいつは大陸の北の果ての高い山に棲んでいて、冬の女王ラヴェンナと名乗ってる。魔女の呪いは私の国だけじゃなく、周囲の国を次々飲み込んでいって、…そのせいで、もうずっと季節が冬のままなの。雪が降り続けて、草も木もみんな枯れてしまった。」
「冬のまま?」
ソールは、ちらりと窓の外に目をやった。ここも、ずっと冬のままだ。…あの日から。
「魔女は吹雪のドラゴンや氷の巨人を操って、呪いをどんどん広げているの。いろんな国の軍隊や英雄、魔法使いたちが挑んだけれど、誰も魔女に打ち勝つことは出来なかった。北の国々には、もう魔女と戦える者がいない。だから南の国に向かっただけれど、そこももう…。」
小さな溜息。
「妖精の森には、霜が降りていたわ。妖精族も魔女の送り込んでくるしもべたちとの戦いに苦戦しているようだった。援軍は送れないけれど、せめて次の世代の長になるはずの子供たちだけは匿ってやってほしいと、妖精族の女王様に頼まれたの。それが、そこにいる子たちよ」
フリーダは、ソールのポケットの中にちょこんと収まっている二人を見やった。そこが暖かいのか、ずいぶん気に入っているようだ。
「匿うって、どこに連れていくつもりだったんだ」
「ローグレスの首都、私の住んでた町よ。そこは強力な結界と城壁に守られていて、北の国では唯一、呪いの干渉を受けていない場所なの。周囲が雪に覆われてしまっていても、町の中は雪も降らず、霜も降りず、暖かい。妖精族は寒すぎると死んでしまうわ。万が一、妖精の森が全滅しても、その子たちだけは助けられる」
「ふうん」
ということは、春が来ないのは、この山だけではなかったのか。外の世界がどうなっているかなど気にしたこともなかったし、原因があるとは思ってもみなかった。
その話には興味をそそられたが、ポケットの中で妖精の一人が小さくくしゃみをしたので、そちらに思考がそれてしまった。
ソールは、おもむろに立ち上がって戸棚のほうに向かった。
「…何してるのよ」
「いや、チビどもがまだ寒そうだから、もう一枚上着を作ってやろうかと」
戸棚の中をあさって、古い毛皮の切れ端をみつくろっている。フリーダは、呆れたような顔になった。
「キミって、冷たいのか、親切なのか、よく分からないわね」
「ここで死なれると困るだけだ。早く出てってもらいたいのは変わらない」
「はあ、繭が破れなきゃ、こんなことにはならなかったのに…」
溜息をつきながら、フリーダは頭を抱えている。
「ここからローグレスまで、この子たちを死なせないように守っていくのは至難の業だわ…」
ソールは、彼女の呟きを無視して手を動かしながら、別のことを考えていた。
ごうっ、と風の吹く音が聞こえた。ドラゴンの羽根の巻き起こす風なのか、どこからか隙間風が吹き込んで暖炉の火が揺れ、ティキが不安げに声を上げる。
――あの夜も、こんなふうだった。
(あの時からだ、春が来なくなったのは)
丸まったなめし皮を手の平の中で伸ばしながら、ソールは考えた。家のすぐ側で岩になっていた父。
――あの時、マグニが戦っていたのは、一体、なんだったのだろう?
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