第一章 雪深きヴィークリーズ 2
その山は、ヴィークリーズと呼ばれていた。
険しさと高さのあまり人の足では越えることは難しく、滅多に旅人も狩人も山奥まで入ることはない山脈。その山々の奥深くに広がる森が、ソールたち一族の長年のすまいだった。
といっても、ソールが生まれたときには、一族は父のマグニただ一人だけだった。青黒い髪に浅黒い肌を持つ大柄な男で、見た目はあまり似ていなかったが、ソールの怪力は紛れもなく父譲りのものだ。
父は、自分たちのことを"ブーリの一族"と呼んでいた。
ブーリというのは一族の始祖の名で、遥かな昔からそこに住み続けて来たという。それがどのくらい昔のことなのか、なぜここに住むようになったのか、ソールはよく知らない。父は、あまり喋らない男だった。そして森の奥での生活には、言葉で教えられることよりもっと大切なことが山ほどあった。
雪が降り、木々が白くなり、春がきて、緑が濃くなり、やがて色づく秋が来て、また冬になる…
その繰り返しを、ずっと見てきた。生活に必要なものを手に入れるために時折近くの町や村に出かける以外は、ずっと森の中に暮らしていたが、寂しいと思ったことはなかった。
事件が起きたのは十年以上前、ソールがまだ幼かった頃のことだ。
いつもと同じように始まったはずの冬は、春の雪融けの季節が来ても終わらなかった。それどころか、さらにひどい吹雪がやってきた。そして…、父はいなくなってしまった。
あの夜、何が起きたのかは分からない。はっきりしていることは、その時以来、山々に降った雪は溶けなくなってしまったということ。そして、父マグニが二度と戻って来ないということだけだ。
春が終わり、夏が過ぎても、緑は姿を現さなかった。次の年も、また次の年も…木々は真っ白なままだった。
森からは獣たちが消え、木々は死に絶えた。それでも、ソールはひとりヴィークリーズに住み続けた。一族の棲んだ山を守ることが、父との約束だったから。
"祖先の還った土地は一族のものとなる。"
それが、彼の知る、遠い血の中に受け継がれてきた掟だったから。
* * * * * * * * *
家まで戻って来たソールは、戸口に馬を下ろし、少女だけを抱えて家の中に入った。上着の雪を払い落とし、さっきまで彫り物をしていた台所の炉辺に戻ってくる。そこを選んだのは、火が起きていて、家の中で一番暖かい場所だったからだ。
かまどの中には、まだ火がちろちろと燃えている。ソールと一緒にいたリスのような生き物は、彼の体を駆け下りると大急ぎで火の側に寄って元通り丸くなる。ぱちっ、と木がはぜて、かすかに火が勢いを盛り返した。
「そこにいろよ、ティキ」
声を掛けてから、ソールは壁際の長椅子の上に少女を寝かせた。急いでいたせいで、生きていること以外は確かめていなかった。どこか怪我をしているかもしれないが、まさか、女の子の服を脱がすわけにもいかない。
(とりあえず、水を…)
水桶から水を汲み上げようとしていると、後ろで小さな声が聞こえた。振り返ると、硬い椅子の上で、少女が頭を抑えながら起き上がろうともがいている。
「まだ無理しないほうがいい。頭を打ってるかもしれない」
「…スキンファクシは?」
少女は、両手で頭を押さえて小さな声で呟く。
「あの馬なら、生きてはいるよ。足を折ってるけど」
彼が言うと、少女は呻いた。
「なんてこと」
「死にはしない。あとで手当てしとく。元通り走れるようには、ならないかもしれないけど…」
「なるわよ」
少女は、苛立ったように言って、思わず額を押さえた。すりむいたところから血が滲んでいる。
「落ち着けよ。ほら」
ソールは、水がめから汲み上げた水を柄杓ごと差し出した。
顔を上げた少女の瞳は、淡い緑をしている。
(春の色だ)
思わず、じっと見入ってしまう。ここ何年も――いや、それ以上の年月、この山では見ていない色。だが、同じように相手を見つめていた少女の言葉が、ソールを我に返らせた。
「あなた、…誰?」
「ソール。」
誰、と言われても名前以外に名乗るべきことがない。
「ここはどこの村? 私、どこかの山の上を飛んでたはずなのだけれど…」
少女は不安そうに、視線を、半分だけ開いた押し出し式の窓のほうに彷徨わせている。
「村なんてないよ。ここには、うちだけ」
「だけ?」
「町か村に行きたいのなら、案内は出来る。けど、今は少し休んだほうがいいと思う」
「私、急いでるのよ」
「もう日が暮れるよ。」
それは本当だった。窓の外は、既に薄暗くなりはじめ、雪が白く輝くようになっている。きっとした目つきになって、少女は、固い口調でもう一度、ソールにたずねた。
「スキンファクシは? どこなの」
「…こっちだよ」
柄杓の水にも口をつけようとしない。仕方なく、ソールは少女を連れて玄関に戻った。
薄暗がりの中で、白い馬は立ち上がろうとけんめいにもがいていた。真っ白なたてがみがところどころ泥に汚れて、足からは真新しい血が流れ落ちている。
「動かないほうがいい。じっとしてろ」
言いながら、ソールは馬に近づいて、傷口に布を当ててぎゅっと縛った。馬は暴れようとしているが、ソールの力に押さえつけられて動けないでいる。
「何してるの、私の馬!」
「応急処置をしてたんだよ」
少しむっとしながら、ソールは答えた。「血で玄関が汚れる。」
「……。」
「で? あんたは」
「何よ」
「名前だよ。あんた自分の名前、言ってなかっただろ」
「……。」
一瞬きょとんとした顔になった少女の表情が、ゆっくりと変わっていく。
「フリーダよ」
名乗って、それから小さく付け加える。
「あの…助けてくれて、ありがとう。それは…感謝するわ。でも、私…」
「礼はいい。朝になったら道は教える。けど、ここには飼い葉とかはない。足が折れた馬は、可愛そうだけど処――」
フリーダと名乗った少女は、ソールの言うことなど耳も貸さず、馬のそばにしゃがみこんで傷口に手を翳した。
「大丈夫よ。すぐに直してあげるから」
優しく語りかけながら、そっと馬の首を撫でる。少女の手元に暖かい色の光が生まれるのが見えた。馬は小さくいななき、おとなしく首を垂れている。きつく巻きつけた布の下からはみだしていた傷口が、みるみる塞がっていくのが見える。
(傷が治ってる…?)
ソールの視線は、初めて目の当たりにする治癒の魔法に釘付けになった。
「おい。あんた」
「…集中してるのよ。声をかけないで」
「そのまま治しても元通りにならないだろ。骨が曲がったままなんだから。馬の足が折れたら、こうするんだ」
言うなり、ソールは、ひょいと馬の体を掴んで持ち上げ、脚をまっすぐに伸ばさせた。一瞬驚いた顔になったものの、少女は、強張った表情のまま手を翳すのをやめなかった。
「もうちょっとだから…じっとしてて、スキンファクシ」
居心地の悪そうにしている馬に語りかけながら、傷口に向かって意識を集中する。いつしか額には汗が浮かんでいた。
どのくらい時間が経っただろう。
小さく息をついてフリーダが手を下ろすのと同時に、馬が嘶いて身をよじった。ソールが手を離すと、白い馬は何事もなかったかのように元気いっぱいに立ち上がっていた。
「よかった」
ほっとしたように呟いて、立ち上がろうとしたフリーダはよろめいた。
「おっと」
慌ててソールが支える。「転ぶぞ。あんたのほうが怪我してどうする」
「ちょっと疲れただけよ。魔法は…体力を使うから」
廊下は既に真っ暗になって、台所のドアの隙間から漏れる光だけが薄く照らしていた。
台所に戻ると、かまどには変わらず暖かい火が燃えていて、ティキが元通りかまどの側に丸くなって寝ている。
「腹は減ってる?」
「……少しは」
ソールは、かまどの脇に置いてあった鍋を取り上げて、蓋をたたいてから火にかける。
「ねえ」
「ん?」
「やけに静かなんだけど…この家、ほかには誰もいないの」
「そうだよ。俺一人」
フリーダが不思議そうな顔になったので、ソールは、ちょっと考えてから付け足した。
「この家は、今は俺しか住んでない。父さんはずっと前に死んだ。庭に立ってるやつがそう」
「あ、…え? 立って…」
「ほら、そこ」
ソールは、開いたままになっている台所の窓の外を指した。外は既に真っ暗になってはいたが、白く浮かび上がる雪の上に、黒っぽい影があるのは見える。影だけ見れば人の形をしているようにも見えなくは無い、黒々とした岩の塊だ。
「あれって、岩よね?」
「そうだよ。俺たちの一族は、死んだら岩になるから。」
少女の目が、みるみる大きく見開かれていく。
「岩になるのは巨人族のはずよ。あなた、巨人族――なの?」
「違う。"ブーリの一族"だ」
「…それって巨人族の一種じゃないの? 巨人族にも色々いるって聞いてるけど。さっき、馬を持ち上げたあの怪力は…」
「そういうのじゃないって言ってるだろ」
ソールは、ぶっきらぼうに否定した。
少女は怪訝そうに、目の前の少年を見上げている。
見た目はただの人間だ。――年は、まだ十台の半ばくらいに見える。けれど、格好ときたらひどいものだ。古い毛皮に何度もつぎあてをしたボロボロの服に、大きさの合わないブーツ。一度も梳いたことがないようなぼさぼさの髪は赤黒く見える。けれど、煤に汚れた顔には、どこか奇妙に惹き付けるものがあった。
火がぱちぱちとはねる。居心地の悪い沈黙。
ソールは、鍋からミルク粥を椀に注ぎ分けて差し出した。
「ほら。食え」
「……。」
フリーダは、椀を受け取って匂いを嗅ぎ、少しためらいがちに口につける。ソールも自分のぶんを椀にとって、かまどの側の丸椅子に腰を下ろして掻きこんだ。暖かい粥が、体を芯から温めていく。
フリーダは、食べるよりも部屋の中に視線を彷徨わせていた。狭い、質素な台所の中には、生活用品が整然と積み上げられている。鍋と水桶。洗い物をする流し場。机の端には、彫り掛けの木彫りと彫り刀。木屑が床に散らばっている。かまどの側の壁には、外を歩いた時に濡れたマフラーや上着。長椅子の脇には、毛布が畳んで置かれていた。
「あんた、何処まで行くんだ。」
「え?」
「馬の脚が治ったんなら、また飛んでいくんだろ?」口元を拭って空になった椀を置きながら、彼は言った。「空を飛んでるところを見てた。ドラゴンに追われてた。空飛ぶ馬もドラゴンも、このへんじゃ見ないものばっかりだ。」
「……。」
フリーダは、俯いた。「北へ…自分の国へ帰る所だったのよ。あのドラゴンは敵なの。私を待ち伏せしていたんだと思う。」
「ふーん。」
「私は、この近くに落ちてきたの?」
「ああ。そこの森に。そのドラゴンは、すぐ引き上げてったよ」
「私たちが死んだと思っててくれればいいんだけど」
そう言って、彼女は上着のポケットのあたりにそれとなく手をやった。ソールはそれに気が付いたが、見なかったふりをして立ち上がった。
「食べ終わったら、器は適当に置いといて。あんたを泊める部屋を用意してくる。行くぞ、ティキ」
声をかけると、かまどの側でうとうとしていたリスのような生き物が、ぴくりと耳を立て、顔を上げると、ソールのあとをついてちょこちょこと部屋を走り出していく。
廊下に出たソールは、玄関の気配をうかがった。暗がりからは、馬のかすかな気配が感じられる。立ったまま眠っているのだろうか。廊下を渡って台所の向かい側の部屋を開くと、しばらく使っていない、ほこりっぽい匂いが漂ってきた。
「前にここ使ったの、いつだったっけなぁ…」
手探りで暖炉の中に残る炭を確かめる。
「ティキ、頼む」
足元を走ってきた生き物が、ひくひくと鼻を動かしながら暖炉の中に入っていく。そして、くるりと一回転すると、高々と尾を掲げた。その尾が見る間に燃え盛る炎に変わり、辺りが赤々と照らし出された。
「! それ、リスじゃなかったの」
振り返ると、フリーダが立っていた。
「何、もう腹いっぱいになった?」
「ええ…、あの、それより、その子…」
ティキは炎になった尾を掲げてくるくる暖炉の中を歩き回っている。やがて、燃えさしの薪や炭に火がついて、ぱちぱちと音を立てながら明るく燃え始めた。そうなってから、ティキは満足したように暖炉を出て、またくるりと一回転して、何事も無かったかのように元の姿に戻った。
「火の精霊ね?」
フリーダは、ようやく飲み込んだようだった。ティキを肩に乗せて立ち上がるソールを、警戒するようにじっと見つめている。
「キミ、精霊使いなの? その子が使役精霊なのね?」
「違う。こいつは俺の家族。寝るならそこを使って」
ソールは部屋の中ほどに置かれている、大きな寝台を指差した。整えられたまましばらく使っていないらしく、上にかけられた毛皮の上には、うっすらとホコリがかぶっている。
「薪はあとで追加しとく」
「待ってよ。キミは、一体――」
「俺が知ってるのは、俺に分かることだけだ。外の世界の話をされても分からない」
そっけなく言って、彼はフリーダを置いてさっさと部屋を出た。客人を拒むつもりはないが、必要以上に歓迎する義理もない。それに、知らないことを聞かれても答えようもないのだ。今日やる仕事だって、ちっとも終わっていない。
台所に戻って食器を片付けると、彼は、馬が落ちてきた時から中断していた仕事にとりかかった。荒削りのまるい木の上に彫り刀で模様を作っているのだ。新しく作る外套のボタンにするつもりだった。
作り方は誰に教わったものでもない。"血が記憶している"。先祖代々繰り返されてきた生活を、体が覚えているのだ。
森の中に暮らしを営み、生活を形作る――そういう一族なのだと、父が教えてくれた。だから、一人になってからも生きていくのに困ったことはない。
窓の外の闇が、次第に深みを増していく。
仕事が一区切りついたところで、ソールは手を止て、大きく伸びをした。
(そうだ、寝る前に馬に水を…)
水桶から幾らかの水を汲み出して、たらいにいれて玄関に運ぶ。暗がりの中、馬は頭を垂れて眠っているようだった。そっとたらいを置いて、代わりにソールは、玄関に積んであった薪の山から何本かを抜き取った。
「入るよ」
寝室のドアの前で声をかけたが、返事はない。入ってみると、フリーダは、寝台の覆いを完全にめくることもせず、倒れこんだような格好で眠りこけていた。
(よっぽど疲れてたんだな)
持ってきた薪を暖炉にくべてから、ソールは、寝台に近づいてそっと毛布を少女の肩にかけてやった。それでも目を覚まさないくらい、ぐっすり眠り込んでいる。
雪に濡れた上着は、寝台の端にかけられている。乾かすのなら暖炉の側のほうがいい。そう思って取り上げたとき、彼は、ポケットのあたりが薄く輝いていることに気が付いた。
(ん? 何だ?)
手をつっこんでみると、指に、暖かいすべらかな物が触れた。取り出してみるそれは、何かのタマゴか、繭のように見えるものだった。呼吸するようにほんのりと虹色に明滅して、暖かい。手の平に載せたまま、ソールは、しばらくじっとそれを見つめていた。これは一体、何なのだろう。
(何だか分からないけど、壊すといけないしな)
そっと暖炉の上にそれを置くと、上着のほうは、火の側に寄せた椅子に広げてかけておいた。
「おやすみ」
寝台のほうに声をかけて、台所に戻る。彼の寝床は、いつもそこだった。かまどの側の長椅子。台所はいつも火が燃えていて暖かいし、火を焚くのは一箇所のほうが燃料の節約にもなるのだ。
いつもと変わらない、静寂に包まれた夜が訪れていた。ソールにとっては、それは、何でもない一日の延長だった。旅路を急ぐ客人はすぐに去っていき、元通りの毎日が始まることを、その先の彼は疑問にも思っていなかったのだった。
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