第一章 雪深きヴィークリーズ 1

 どすん! と大きな音が響き渡り、屋根から雪の滑り落ちる気配がして、ソールは思わず顔を上げた。


 天井からぱらぱらとほこりが舞い落ちてくる。何か大きなものが屋根に当たったような衝撃だ。雪の塊でも滑り落ちてきたのだろうか。窓の外にちらりと目をやって、彼は、彫り掛けの木と掘り刀をかまどの側に置いた。

 立ち上がって台所の扉を開くと、かまどの側でまるくなっていた大きなリスのような生き物が、気配を察して、勢いよく彼の後を追いかけてくる。その生き物は台所から廊下に出るあたりで追いついて、足元から駆け上って彼の背中を伝い、肩の上に飛び乗った。

 どこかからヒュウっと冷たい風が吹き込んでくる。外の匂い。忍び込んでくる雪の気配。

 再び、家が揺れた。

 どこかから唸り声のようなものと、羽ばたきのような風の音が聞こえてくる。

 (一体、何だ…?)

顔をしかめながら玄関を開いた瞬間、目の前に黒い影が迫ってきた。

 「わっ」

大きな生き物が、轟音とともに頭上スレスレを通り過ぎていく。羽音と風。巻き上げられた雪が顔に叩きつけてくる。頭から雪を払い落すと、ソールは家から駆け出して、黒いものが飛び去っていった方向を振り返った。

 重たく垂れこめた灰色の雲の下、大きく旋回しながら飛んでいる二つの物体が見える。片方は、さっき見えた黒いもの。大きな翼が見える。…もう一つは、黒いものの前を空中を走るように動いている、白い、もっとずっと小さなものだ。

 (なんだ? あれ)

彼は目を凝らした。白いほうは灰色の雲に同化してよく見えないが、馬のような形をしていた。追われているのだ。あるいは、戦っているのか。黒いほうが口を開いた。白っぽい息のようなものを吹きつけ、馬に見えるほうがバランスを崩した。

 (落ちる…)

斜めに傾いたまま、それはぐんぐんこちらに近づいて来る。確かに馬だ――だが。

 その時になってようやく、ソールは、墜落しようとする空飛ぶ馬の背に誰かが乗っていることに気が付いた。馬の背にしっかりとしがみついたまま、一塊になった人と馬は、均衡を欠いたまま視界の端へと突っ込んでいく。そして、遠くのほうで、森の木々の枝が折れる乾いた音が響いた。黒い塊は、目標を見失って地表近くでぐるぐると旋回している。

 姿がはっきりと見えた。黒いものが何者なのかに気づいて、彼は思わずごくりと息を飲み込んだ。

 (ドラゴンだ…)

一度も実物を見たことはなかったが、その特徴的な姿形は先祖代々の記憶の中に焼きついている。それは、ずっと昔から生きている魔の獣の一種だった。

 (でももう、本物は死に絶えたはず。あれは…似た何か…?)

 しばらく旋回していたあと、追っていたものが死んだと思ったのだろうか、大きなドラゴンは鼻から白い息を噴出して翼をはためかせると、灰色の厚い雲の向こうへと消えて行った。

 ドラゴンが去るのを確かめてから、ソールは、大急ぎで雪の上を駆け出した。馬の落ちていったほうへ薄暗い森を分け入っていく。そこは、いつも薪にする木を取りにくる森だ。道はよく知っている。

 やがて行く手に、折れた木の間に倒れている馬と人間が見えてきた。真っ白な雪の上に点々と血が落ちている。倒れている人間は、大振りな弓を握り締めていた。背には矢筒。無謀にもドラゴンと戦っていたのだろうか。

 駆け寄って助け起こすと、被っていたフードが取れ、下からゆるく三つ編みにされた長い銀色の髪がぱらりと垂れた。

 (女の子…?)

意外な気がして、彼はしばしの間、閉ざされたままの瞳を縁取る長い睫を見つめていた。手にしている弓からして、抱き起こすまではてっきり男の狩人だと思っていたのだ。

 ぼんやりと見つめていると、少女が口元をかすかに動かし、苦しそうに白い息を吐いた。

 「スキンファクシ…どこ…」

 生きている。

 ほっとしたソールの側で、応えるように馬が弱々しくいなないた。呼んだのは馬の名らしい。馬のほうは足が折れているようにも見えるが、ここに置いていくわけにもいかない。

 ソールは片方の腕で少女の体を担ぎ上げると、もう片方の腕を馬の首に回した。普通なら大暴れしてうまくいかなかっただろうが、今は馬はぐったりとして、ソールのすることに異議を唱えない。

 彼は馬をひきずるように歩かせながら、もと来た道をゆっくりと戻って行った。白い雪の上には馬の傷から落ちる赤い血が点々と落ち、やがて、その跡も降り始めた白い雪の中に消えてゆく。




 曇天から音も無く舞い降りてくる、軽い粉雪。山から吹き降ろす冷たい風。

 つかの間の騒ぎが収まると、森はまた、元の静けさに包まれた。死の沈黙にも似た静けさ。ここにはもう、長いこと、彼と相棒以外に生きた者はいなかった。外から誰かがやって来ることもなかった。

 ――その日、外からの久方ぶりの来訪者があるまでは。

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