第25話 橘家の事情

 俺達の母親が亡くなったのは、綾姉が十歳、俺が四歳の頃だった。

 元々身体が丈夫な方ではなかったらしいし、子供は産めて一人だけだろうといわれていたそうだ。

 それでも母さんが俺を産んだのは、綾姉いわく


『私の欲しいもの?……う~ん、だったら弟か妹が欲しい!』


 と、事情を知らない頃の自分が言ったせいだろうと語っていた。

 確かに俺を産んだせいで寝込む事が多くなったらしいが、それを後悔していたとは俺には思えない。

 俺の、そして綾姉の記憶にある母さんは、いつだって俺達に惜しみない愛情を注いでくれていたからだ。


 だから俺は自分が産まれた事を悔やむつもりはない。

 そんな事をすれば、それでも俺を産んだ母さんの思いを踏みにじる事になるからだ。


 だがそれでも、母さんが若くして亡くなった事は事実だ。

 父さんは母さんを亡くした悲しみを堪えて、俺達姉弟を男手一つで育ててくれた。

 そして綾姉は母さんの代わりとして、幼い頃から我が家の家事全般を担っていた。

 だから俺にとって橘綾音という人間は、姉であり早くに母親を亡くした俺にとってはもう一人の母親のような人物だった。


 そして父さんが事故で帰らぬ人になったのは、綾姉が高二、俺が小五の頃だった。

 両親は駆け落ち同然で結婚していたので、頼れる親類は一人もいなかった。


 そんな父親の代わりに俺を育てる為、高校時代からバイトに励み卒業したらすぐに就職。

 俺よりよほど優秀だったのに、そうやって俺を大学にまで進学させてくれた。

 その事を後で綾姉に尋ねたら


『私はお姉ちゃんだからね。弟を守るのは当たり前だよ』


 と、曇り一つ無い笑顔で答えるようなそんな人だった。


 そんな姉に自分が報いるには、努力して少しでも綾姉が誇れるような人間になる事だと思ったから必死で頑張った。

 その結果どうにか国立大学に進学が叶ったので、どうしても伝えたかった事をその日の夜に綾姉に告げたのだった。


『綾姉、今日までずっと俺の親代わりをしてくれた事にはどれだけ感謝しても足りない。だけどそのせいで綾姉が、ずっと自分の幸せを犠牲にし続けてるのは我慢できないんだ。俺も大学に進学するからこの家を出る。だから綾姉、もう自分の為に生きていいんだ。もうこれ以上、正彦さんを待たせなくていいんだよ』


 綾姉には碓井正彦という高校時代からずっと一途に思いを寄せてくれる人がいた。

 かなりの名家の三男だが驕ったところの無い努力家で、成績で常にお互いがトップ争いを繰り広げるライバルのような存在だった。

 そんな人だから、高二の頃綾姉が俺を養う為にバイトを始め成績が落ちた時、喜ぶどころか『自分が援助するから勉強に専念してくれ』と綾姉に言ったのだろう。


 まあ、もちろんそんな申し出を受けるような綾姉じゃない。

 見た目お淑やかで基本的に争い事は嫌いだが、とんでもなく頑固で負けず嫌いな人だというのは実の弟である俺は嫌というほど知っている。

 そんな綾姉にあんな事を言えば


『同情ですか?見くびらないでください。私は一人でもちゃんと公平を立派に育てるって決めたんです。貴方の施しなんて要りません!」


 となるに決まっている。

 その後どんな言葉も突っぱねた綾姉に追い返され、肩を落として帰る正彦さんに


『姉がすいませんでした。決して貴方の事を嫌ってる訳じゃないので、これからも姉と仲良くしてやって下さい』


 後を追って謝罪したら、妙に気に入られて仲良くなったのだった。

 その後別の日に


『君がバイトの間、僕が公平くんの面倒を見よう』


 と言う正彦さんを追い返そうとする綾姉に対し、


『綾姉、一人じゃ不安だし誰か一緒に居てくれた方が心強いよ』


 俺が援護射撃をした結果、渋々ながらも綾姉も折れたのだった。

 そのお礼として綾姉は、正彦さんの分のお弁当を毎日作って渡していた。

 正彦さんとしてはお礼などもらう為にやっていたのではないが


『借りを作りたくないんです。要らないんだったら捨てて下さって結構ですよ。所詮私の自己満足ですから』


 と綾姉に言われては受け取らざるを得なかった。


 ……綾姉。弟の俺が言うのも何だけど、正彦さん可哀想だから気付いてあげてよ。

 普通は、何とも思ってもいない相手の弟の面倒は見ないよ?

 俺と二人で留守番してる時も勉強見てくれたし、綾姉の作った弁当を絶賛してたし思いっきり綾姉に気があるよ、この人。


 と、当時の俺でさえそう思うくらいに分かりやすかったんだけどな。


 まあ、俺が大学に合格できたのは間違いなく二人に勉強をみてもらったからだ。

 進学校でトップ争いをしていたような二人に教わったのだから、今思えばとんでもなく贅沢な環境だったよな。


 綾姉が就職し、正彦さんが進学してからもそれは続いたのだから、どれだけ一途に正彦さんが綾姉の事を思い続けていたのかが良く分かる。

 まあ正彦さんは男の俺から見ても非の打ち所がない人だったし、当然の様にモテていたのだが、綾姉にだけはその好意が殆ど伝わっていなかったあたり不憫な人だ。


 そんな綾姉だったが、流石に正彦さんの思いに気がついたのだが


『私は公平を育てるだけで手一杯なんです。恋人を作るような余裕はありません』


 と固辞したが


『だったら公平くんが一人前になるまで待つ。そのくらいで僕の思いは揺らいだりはしないさ』


 と正彦さんに返され、嬉しさを隠し切れないような顔で困っていた。


 結局俺が高一の頃からお付き合いを始め、俺の大学進学を期に結婚。

 その後めでたく長女となる幸を授かるのであった。


 ……俺にとって二人は恩人であり、大切な家族だった。

 もっと生きていて欲しかった。もっと幸せでいて欲しかった。

 だからそんな二人が残した幸を、俺が代わりに守るのは当然の事なんだ。

 ……たとえ、それ以外の全てを無くしたとしても。

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