リュウグウノツカイ 臥竜
その男はリュウグウと呼ばれていた。濃紺のスーツに身を包み、少し長めの髪を後ろへ撫でつけた様はやり手の青年実業家にも見えた。完璧に仕立てられたスーツはまるである種の戦闘服のように男の身体に馴染んでおり、柳を思わせる痩身の男にぴんと張り詰めた雰囲気を与えていた。
リュウグウはある企業から派遣されている管理官で、日本海コクーンをその名の下に管理統括している。元々中国系の犯罪組織にいた彼は周辺に顔も利き、抑止力としても適任だと判断されたのだ。成る程、男の手腕は確かであり、コクーンは適切に活動した。リュウグウは清廉潔白ではなく、またそうであろうともしなかった為、非合法の手段が適切に使われていた。
コクーンは閉鎖空間である。いくら広大な面積を持つとはいえ、徹底的に管理された安全な空間とはいえ、壁一枚隔てた向こう側は人間の生存など不可能な深海域だ。その閉鎖空間の治安を維持するにおいて、生ぬるい手段など使ってはいられないというのがリュウグウの持論だった。思想は容易く感染し、閉じた環境は容易く瓦解する。腐敗の速度は常に想定より一歩早く、駆逐の速度は常に想定より一歩遅い。彼はそれをよく知っていた。
リュウグウは深海三千五百メートルの管理官室で一日の殆どを過ごしている。「竜の寝床」と揶揄されるその部屋で、日がな一日モニターを眺める彼は爬虫類のように微動だにしない。
壁の一面を覆う大きさのモニターはコクーン内の地図を分割して映し出し、そこに幾つもの赤い光点が浮かび上がっては端から消えてゆく。イレギュラー、対処完了、イレギュラー、対処完了。
天井から垂れ下がり床を這う細くしなやかなコードはリュウグウの髪の間へ潜り込みその奥深くへと繋がっている。リュウグウの感覚とコクーンとは常に繋がり、彼は指先ひとつ動かさず繭を編み直す事が出来る。彼の手足であるところのドロイドはコクーン内の至るところに存在し、彼の思考とリンクして動く。それぞれが違う顔をし、人間のような顔をして人間のような生活をしている彼らを見分けられる者は少なく、人々は知らず知らずのうちにリュウグウの監視下に置かれているのだ。
海の底の底にて微睡む管理者であるリュウグウの巣には装備類を完全解除したドロイドしか入室出来ず、万が一に備えて部屋中に迎撃システムが張り巡らされている。彼が倒れればコクーンの営みは止まり、次の管理官が見付かるまでの間に天文学的な損害が出るだろう。だから竜の巣は閉ざされ、竜はひとりで微睡み続ける。
ただ、例外が一つだけある。
革張りの椅子に深く身体を沈め、感覚はオープンにしたまま十五分の睡眠をとっていたリュウグウは、床を擦る何本ものコードを揺らしながら頭を起こした。幾つもの門を何の準備もせず堂々と通り抜ける事の出来る唯一の人間。その客人が訪れた報せだけが、彼の重い腰を椅子から持ち上げさせる。
何故ならそうしなければ殺せないからだ。
部屋の扉が音もなく開いた瞬間、天井の四隅で眠っていた蜘蛛型のセキュリティバディが頭をもたげ、一つ目を来訪者へ向け微細なニードルを撃ち出した。片手で指揮者のようにそれらのバディたちを操りながら、リュウグウが自ら銃を持つまで一秒もかかっていない。だが、彼が銃口を来客へ向けた時には蜘蛛たちは目標を見失いぐるぐると天井を這い回り、銃口の向いた先には射線を遮るように立つ異貌の青年がいた。感情というものを親の胎内に置き忘れてきたような、女の腹から産まれたのかすら怪しい能面のような顔。その一部が半透明になっており眼球と頭骨が透けて見える不気味な姿は何度相対してもリュウグウを不快にさせる。
リュウグウはひとつ溜め息を吐くと、その青年の後ろに立つ来賓を見た。
「ようこそ、待ちわびていたよクソビッチ。こいつがいなけりゃもっと良かったんだが」
「装備品は持ち込み自由という取り決めせでしょう」
涼しげに言う来賓はまだ年端もゆかぬ少女であったが何処か成熟した色気を持ち、真っ赤な旗袍は寸分の狂いなくその肢体を覆っていた。くるくるとカールした黒髪はふわりと襟足にかかり、象牙に透かし彫りの入った扇子に扇がれ揺れている。
「……さあ、商談を始めましょう?」
――この少女はミストレス。女王だ。
少女は日本海コクーンの東南部エリアで、身を売る者たちの顔役をしている。街娼同士のいさかいをおさめ、幼すぎる子らは保護し、自ら娼館を経営するやり手である。
ベッドで口の軽くならない男はおらず、娼婦のいない街はない。少女は蝶たちの女王であり、彼女の世話になった男たちは彼女に頭が上がらない。それ故彼女は誰からも愛され、誰よりも孤独である。その少女とリュウグウが出会ったのは昔のことで、その時のことは二人ともが語らない。ただその時リュウグウはまだ若く、少女は妙齢の美女だった。
「おいビッチ」
「なんですか」
「お前、……もう前の身体には入らないのか」
少女はゆるりと視線を動かし、男を見た。はたはたと長い睫毛が揺れ、それからまた視線が落ちる。
「貴方の欲に付き合う気はありません」
「ちっ」
「貴方、そんなに前の私が好みだったんですか」
「具合が良かっただけだ」
へえ、と興味の無さそうな声を出してから少女は書類――今や滅多に手に入らない、どこにも繋がっていない「紙」だ!――にサインをして、骨董品の万年筆を後ろに控える青年へと渡した。書類の上に並ぶ文字は旧い漢字で、リュウグウはそれを一瞥して鼻を鳴らした。
「欲求不満ならうちの子をここへ寄越しましょうか?」
「いらん」
「では失礼、また伺います」
軽く一礼してから部屋を辞する少女の背に、一瞬、ナイフを投げるかどうかで迷ったリュウグウは、こちらを一瞥する連れの青年の目が気に食わず鼻を鳴らした。
本日は曇天かな。
竜は寝床で微睡み続け、繭は安らかに閉ざされている。赤、黄、青のコードが彩る頭を僅かに揺らして、リュウグウは欠伸をした。コクーン全体を俯瞰で見下ろす視点のまま動かない感覚が、不意にイレギュラーを感知して疾走する。眠たげに瞬きをしながら見つけ出したそれは先日巣を訪れたばかりの少女と、その少女の生体パルスの異常と、何者かに少女が確保されているだろう状況だ。
「……あのアマ!」
小指をぴくりと跳ねさせるだけでリュウグウの視点は集束し、区画ひとつをその目におさめる。少女の存在を表す光点はまだ小指の先ほどの大きさでしかない。
「まだ広い……!」
余計なノイズが一瞬きごとに取り除かれ、集束し続ける視点はひと一人のそれと同一になる。ドロイド一体と感覚を共有したリュウグウは空気が肌に触れる事による違和感を覚えながら駆け出した。慣れない身体疲労にぜえぜえと借り物の喉を震わせ、何度目かの角を曲がった瞬間視界に捉えた姿へ叫ぶ。
「……!」
聞き取れる者のほとんどいないだろう、かつて存在した大国の言葉。叩き付けられたそれに動きを止めたのはまだ幼さの残る青年であり、その腕にはぐったりと意識を失った少女が抱えられていた。騎士を連れない蝶の女王。
「は、……そいつはお前の手に負える女じゃねえよ」
置いていけと言うリュウグウは肩で息をし、「のりうつる」ドロイドを選ぶ余裕が無かった為見るからに弱々しい男の姿をしている。青年はにたりと下品な笑みを浮かべ、少女を離す様子も無い。それを見たリュウグウはひゅうひゅうと鳴る喉になんとか唾を送り込み、そして指を一本立てた。
「三つだ。三つ数えてやる。それまでにそいつを置いてとっとと失せろ」
一つ。二つ。とほとんど間を置かずにカウントされる数に青年はようやく眉を寄せる。しかして次の瞬間にはもう三つだ。宣言と同時、青年は何が起こったのかもわからないまま昏倒した。周囲の環境にアクセスして電脳線を操作、青年の身体に強制終了がかかるレベルのジャンクデータを送り込んだリュウグウは塀に触れさせていた手を離して息を吐いた。それから地面に倒れている青年を足で蹴り除け、その脇に倒れている少女の様子を確認する。生体パルスは正常、外傷は無し。
気遣う素振りも見せずリュウグウが少女の頬をぺちぺちと叩けば、ゆっくりと目が開く。リュウグウ。少女の唇は静かにそう動き、一度きつく目を閉じてからまた開いた。
「……リュウグウ、ですね? 珍しいですね、そんな身体にのりうつっているなんて」
「好きで入ってるわけじゃねえよ」
リュウグウはひとつ息を吐き、遠くから少女の騎士が近づいてくるのを確認すると少女の言葉も聞かずその身体からログアウトした。次に目を開けた時には見慣れた寝床。細く息を吐いて椅子の背もたれへと――いつもの――身体を預ける。ざらりとコードが揺れ、リュウグウの目は閉ざされ、竜は巣で丸くなる。
世はすべてこともなく、繭は本日も安らかである。
[連作短編集] コクーン 海底で眠る繭 新矢晋 @sin_niya
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