ルサルカ 歌う人魚

 この水底から 揺れる空を見上げているの

 あなたがいつか 降りてこないかと


 うたううたう わたしはさかな

 うたうことしか しらないさかな


 ――Lusa=Luka「うたうさかな」



 Lusa=Lukaルサルカ、という歌手が居る。ティーンを中心に絶大な人気を誇る彼女はメディアへの露出が少なく、その歌声だけが本拠であるコクーンの中に響いていた。

 ルサルカのキャッチフレーズは、「人魚の歌姫」。彼女は生まれながらにして重篤な奇形を抱えており、その足は癒着し鱗に覆われ完全に萎え、目もほとんど見えていない。身体の内部も人間としては異常な作りをしており、一日の殆どを海洋水で満たしたポッドの中で過ごしているという。

 その彼女が歌ううたは、寂しさの中に暖かみがあると高く評価されている。押し付けるような前向きさではなく、自然と前向きになれるような歌詞と優しい声に癒しを求める者も多い。

 ――簡易タブレットでそんな記事を流し読みしていた男は、視線を前へ戻すと車の運転を手動に切り替えた。

 三階建ての道路、その一番上のラインが男の気に入りだった。ここからは、空が見える。

 コクーンの空は、人工のもやに淡く青や翠を溶かし込んだものだ。その色合いは時間帯によって変化し、同じ顔は二度と見られない。この「空」が出来るまで、コクーンの空は時間によって光量を変える人工太陽の光が照らすだけの殺風景なもので、不思議と精神疾患者数が地上時代とは比べ物にならない増加傾向を見せていた。

 「空」には、人々の心が溶けるらしい。単に光源としての役割を果たすだけの空は人類を狂わせた。ある学者が空についての研究成果を発表しなければ、人類は空を失ったが為に滅亡していたかもしれない。

 ……しかし、口笛を吹きながらご機嫌で車を運転する男はそんな可能性になど思い至りもせず、作られた空の美しさを楽しむのだ。


 男の名はアイミ。

 アイミはこの街で何でも屋のような事をしており、子猫探しから場合によっては荒事まで手広くこなす、コクーンによくいる「シュリンプ」と呼ばれる存在だ。

 日系人であるアイミはそれなりの責任感とほどほどの勤勉さで仕事をこなし、生活に困らない程度の収入と得意先を手にコクーンを掃除している。

 今回は古い友人からの依頼で、ある場所からある場所まで一人の少女を送り届けてほしいという事だった。運転手兼護衛である。

 最初の目的地である病院に到着したアイミは、時間きっかりに裏口から現れた姿に息を飲んだ。少女の姿形は説明されていたが、想像していたものとはまるで印象が違ったのだ。

 シャコガイのように優美な曲線を基調としたデザインの車椅子に腰掛ける、小柄な少女。艶やかな青い髪は真っ直ぐ伸びて背凭れに柔らかくかかり、薄く開かれた瞼を縁取る睫毛は儚げにはたはたと動く。投げ出された足は癒着し一本になっているのだが、すらりと伸びたそれはけして不恰好ではない。

 アイミに気付いて小首を傾げた少女は、少し遅れて微笑んだ。

「こんにちは。私がルサルカです」

 ――歌手、ルサルカを病院からスタジオまで送り届ける事。それがアイミの今回の仕事だった。

 車でスタジオまで一時間とかからない。移動中、彼女はアイミの話にごく普通に受け答えし、数秒あればコクーン中の若者を酔いしれさせる事が出来る歌手とは思えない気さくさだった。


 無事にスタジオへ着く頃にはアイミはすっかりルサルカのファンになっており、渋る彼女の世話役を説き伏せ、レコーディングの見学をする事に成功していた。

「……これを」

 いざルサルカが歌うという段になって世話役から差し出された物に、アイミはぱちくりと瞬いた。

 ……それは、耳栓だった。

「新曲の情報が流れたら困るから、部外者にはこれをつけてもらう事にしてるの。あなたにそのつもりが無くっても、あなたにトラップが仕掛けられてるかもしれないでしょう?」

 なつっこい笑みを浮かべたままそう言う世話役から耳栓を受け取ったアイミは、仕方無く耳栓で耳を塞ぐ。……ふりをして、広角聴域モードをオンにした。シュリンプとして長く活動しているアイミは他の例に漏れず、その身体を幾らか生体兵装に還装している。補助聴覚を起動すれば、アイミは例え耳を塞ごうが遮蔽物を無視して音をとらえる事が出来る。

 素知らぬ顔で立つアイミは、その歌声が聞こえてきた瞬間、動きを止めた。



 殺したっていいでしょう?

 あなたが あなたを いらないと言うなら


 ねえ


 おちるおちる 深みへと

 わたしが たゆたう この深海へ



 ――その、歌声は。限りなく透明で限りなく澄んだその歌声は、ひとの根源を刈り取るような鮮烈さを持っていた。公の配信に乗っている歌声とはまるで別物、後頭部を殴られたような衝撃を感じながら、アイミは自らの首に手を伸ばしていた。


 そして、数時間後。


 スタジオへやってきた清掃業者にひとつの荷を引き渡し、歌姫の世話役は溜め息を吐いた。

「ルーちゃん、今回も大分いじらなきゃ駄目みたいよ」

「そう……」

 ソファーに深く座り込みオレンジジュースを飲むルサルカは、ぼんやりと夢見るような表情で相槌を打った。

 ――スタジオに残っているのはルサルカと世話役だけ、しんと静まり返っている部屋。世話役は、ちらりと隣の少女を見下ろした。ストローを食む彼女の生み出す歌声が何千何万のファンを熱狂させ、何十何百のスタッフの生活を支えている。

 だが、大半の人間が知らない。

 公に流れているルサルカの歌声は彼女の歌を元に合成し直した作り物に近い音源である事を。

 そして、ルサルカの歌声が死をもたらす呪いである事を。

「彼には悪いことしたかしら、でも一応私はチャンスあげたもの。耳を塞いでいれば死なずに済んだのに」

 肩を竦める世話役の前で、ルサルカがオレンジジュースを飲み終え車椅子を動かした。揺れた青の髪に手を伸ばして、世話役は柔らかく微笑む。

「ルーちゃんは、まだ世界を憎んでいるのね」

 ――世界を憎み、呪う歌声。ルサルカの歌声は死への甘美な誘い、タナトスそのものであると言い換えてもいい。この美しく儚く歪んで生まれた少女は、世界への呪いを歌う人魚なのだ。

 彼女の歌声を聞いた者は九割九分九厘、死への憧れを踏み越えて自死へと至る。哀れなシュリンプも例外ではなかった。ルサルカの歌声が多感な時期の少年少女を惹き付けてやまないのは彼らが死への憧れを持っているからであり、それ以外の人間も世界に対する小さな絶望を人魚の歌に聞いているから。

 つまりは、皆、死への憧れを捨てられないのだ。

「……どうして人類は滅ばなかったのかしら」

 無感動に呟いてからスタジオを後にするルサルカを見送って、世話役は小さく呟いた。

「こんなに死にたがってる異常な生き物、神様も来てほしくないんでしょ」

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