[連作短編集] コクーン 海底で眠る繭

新矢晋

カサゴ その女、殺し屋につき

 フクロウナギが尾を光らせながら漆黒の世界をゆく。プランクトンがその尾を追い、ハリーの尻尾のような軌跡を描いた。

 グソクムシの一種が地を這い、白い壁にぶつかって進行方向を変えた。海底に降り積もった白く細かな砂がふわりと舞い上がり、またゆっくりと降り積もってゆく。

 壁は、見渡す限り続いていた。もしこの深海をあまねく見渡すことの出来る存在がいたとしたら、巨大な半球型のドームが海底に鎮座している様子を何と表現するだろう。

 ――ほの白い丸みを帯びたそれを、何かの繭のようだと言うだろうか。



 人類がその数を大幅に減じながらも海底に居を移してから遥かな時が過ぎ、人々の記憶から地上の記憶は消えていった。子供たちは人工太陽の下で遊び、大人たちも記録映像でしか地上を知らない。

 海底に作られたこの「コクーン」と呼ばれる巨大ドームでの営みに人類ははやばやと適応し、海の底で生まれ、死に、愛し、憎んでいた。

 ――つまりは、水深三千メートルの深海域でも人類は人類であり、何も変わってはいなかった。



 その女は「カサゴ」と呼ばれていた。項の辺りで切り揃えられた真っ直ぐな髪も、冷たく整った顔立ちも、あのごつごつとして荒々しい魚とは似ても似つかぬが、ただ一点。首の後ろからしなやかに伸びた鰭が、ミノカサゴの優美な鰭によく似ていた。

 その女は殺し屋だった。それも、誰にも知られず殺し誰にも知られず消えるのが得意なやり方だった。毒を好んで用い、それもまた「カサゴ」という呼び名を揺らがぬものにした。

 カサゴはいつも決まったバーで決まった酒を飲んでいた。真っ青なカクテルを一杯、一息に飲み干した後はカウンターの隅で多目的タブレットを弄っていた。

 ――そんなカサゴに追加のカクテルが差し出された時が、仕事の始まりだ。

 真っ青な、スカイ・ダイビング。埃の積もりかけた、今時誰も頼まないような海上時代のカクテル。そのグラスを持って、カサゴは依頼人の隣に腰かけた。

「……貴方の罪を教えて」

 落ち着いたヴィオラのような声でそう囁いたカサゴに、依頼人は黙って一枚のタブレットを差し出した。光沢の無い小さな鱗の形をした金属片。

「詳細はこの中に。事後に五キャラットお支払致します」

 タブレットを取り上げ手の平に握り込んでから、カサゴはひとつ頷いた。

「竜によろしく伝えて」

 後はもう話すことなど無いとばかりに、グラスを傾ける。依頼人は黙って席を立ち、カサゴはゆっくりとカクテルを味わってから改めてタブレットを握り込む。

 手の平から情報を読み取って、仕事内容を全身で理解する。髪の毛一本、爪一枚に至るまで総身を仕事道具と化したカサゴは音も無くバーを後にして、空のグラスだけがその場に残された。



 人間にある奇形が発生するようになったのは、陸から海へ住処を移した所為だと誰もが思っていた。何故なら、海底時代になってからというもの、あらわれる奇形は殆どが海洋生物じみていたからだ。

 鰓を持つ者。鱗を持つ者。数十人に一人が海のあかしを持って生まれてくる原因はまだわかっておらず、彼らへの風当たりも様々だったが、大抵哀れまれるか好奇の目で見られるかだった。

 その為、彼らは奇形を隠して生活する事が多く、カサゴのように堂々と鰭を揺らして歩く者はあまり見られない。何より彼らの奇形は形だけではなく機能も備えている事が多く、カサゴの鰭は、本物の「カサゴ」の鰭と同じく毒針を備えているというのに。

 優美な、たおやかな半透明の鰭はカサゴの項から緩く弧を描いて左右に広がるように生えている。それを揺らしながら駆けるカサゴはひとではない何かのようで、ビルの外に設置された非常階段のてっぺんからふわりと飛び降り地面に着地しても、まったく違和感は無かった。

 やっとの事で非常階段を駆け下りてきたばかりの男は、逃げ切った筈の相手が目の前に現れた事に驚愕し、次の瞬間その心臓は永遠に動きを止めた。

 心臓を動かす機構だけを正確に貫いたカーボンファイバーを手の中へ巻き取り、カサゴは地面に倒れた男の生体グラフを確認する。その波形が完全に死亡波形に変わってから依頼人へと連絡し、程なくして現れた清掃業者に男の死体を引き渡せばカサゴの仕事は終わりだ。

 死体は適切な手続きを終えた後、甲殻類の餌になるだろう。あの男が何者で何を失敗したのかカサゴに知る由は無いし興味も無いが、彼を殺す事でカサゴは生活の糧を得るわけだから、車に積み込まれる死体に軽く黙祷を捧げるくらいの義理は果たしておく。

 それからカサゴはゆっくり歩いてその場を立ち去った。



 仕事が終わると、カサゴが必ず寄る場所がある。

 コクーンの外周近く、低所得者層が多く暮らす区画。飾り気の無い同じような灰色の集合住宅の影に、その教会はあった。



 カサゴは長いマフラーを首元にきっちりと巻き付けて鰭を隠してから、教会の扉を開いた。中に居た男が振り返る。

 濃紺の外套は、旧い海神を信仰する「深教」の中でも教典派の司教が好んで身に着ける。その外套の裾を摘まんで一礼した男は、彫の浅い情の薄そうな顔をしていた。

「ようこそ。深き底を泳ぐ蠍、貴方を待っていました」

 まるで感情のうかがえない無表情のままもってまわった言い回しをする男。エスコートの為に伸ばされたその手を取ったカサゴは、ごっこ遊びのお姫様のような足取りで教会の奥へと足を進める。

 ……その部屋は、一切の尖りや角を排除して作られていた。壁と床の継ぎ目すら無く、緩やかにカーブを描いていた。母親の胎内のような安心感と、形容しがたい違和感を併せ持つこの小部屋は、深教において特別な意味を持っている。

 「角張った時間には魔物が棲む」。深教における悪魔は、鋭角から侵入してくるとされている。よって、敬虔な深教徒は自宅にひとつは角を廃した部屋を持ち、瞑想や祈りの時間はその部屋で過ごす。また、悪魔が入れないとされるその球状の部屋は懺悔室としても使われ、大切な話や約束はこの部屋が使われる事が多い。

 柔らかな球を押し潰した形のソファにカサゴを誘導し、男はその肘置きに腰掛けた。

「こんなもの、ここではしなくても良いのに」

 カサゴの巻いているマフラーに触れながら首を傾げた男は、その指先をそっと引き寄せて唇を寄せたカサゴをぼんやりと眺める。

 長い睫毛をはたりと揺らしてから、カサゴは僅かに微笑んだ。薄く紅の引かれた唇は淡いオレンジ色。

「貴方が怪我をしたら嫌だもの」

 ほんの数時間前に人を殺した白い指が、今度はとても優しい所作で男の髪に触れる。極めて透明で純粋なアイスブルーの髪は人工の色彩。男は能面のような顔でカサゴを見下ろして、それから瞳を閉じた。



 ――カサゴと男とは友人同士ではないし、ましてや恋人同士でもない。教会以外の場所で会った事は無く、セックスはするがキスはしない。男はカサゴの生業を知り、またカサゴも男の本当の目的を知っているが、互いに一切の干渉はしないのが唯一のルールとなっていた。



「……もう行くんですか」

 裸身にシーツを巻き付けながら半身を起こした男は、既に乱れ一つなく身形を整えたカサゴの背にそう問うた。カサゴは短く肯定の言葉を発し、褥の中でもきつく巻き付けていたマフラーを解きながら部屋の扉へ手をかける。

 部屋を出る時にふわりと揺れた鰭を、男はじっと眺めていた。

 一人部屋に残された男は、そっと手元のシーツを口元に引き寄せて、それからうっそりと笑った。

「……死の、におい」

 感情の無いつるりとした印象だった顔が、笑みを浮かべた途端に生々しく生気を帯びる。それは不快感を伴うもので、決して生命の息吹や喜びを感じさせる事は無く、むしろ何か冒涜的ですらあった。

 死を想い、死を愛し、死を求む男はただそれだけの為にカサゴを抱き、カサゴはひとを殺した罪を男のところへ置き去りにする。二人には確かな共生関係が成立していた。

 シーツを引き摺りながら立ち上がった男は、生命の温かみや光を一切感じさせない影を背負ったまま、その部屋を後にする。

 ――るる、と喉を鳴らすような祈りの歌が、どこか遠くから聞こえてきた。

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