カムパネルラへよろしく

逢巳花堂

カムパネルラへよろしく

 目を覚ませば、誰もいない列車のボックス席に座っていた。


 ここはどこかと車内を見回してみたが、見覚えのある車両ではない。


 そもそも、自分のことすら覚えがない。


「あれ、俺、誰だっけ」


 実に奇妙な言い回しであるが、仕方がない。自分の名前が思い出せない。


 どこに住んでいたのかも、どんな人生を歩んできたのかも、まったく出てこない。


 列車は、トンネルの中を走っているようで、窓の外は真っ黒だ。おかげで窓ガラスに自分の顔が写っている。かろうじて、それが自分の顔であるとは認識できた。


 スーツを着ている。髭はやや生え始め。会社帰りだろうか。でも、勤め先もわからない。


「ええと、落ち着け、俺。思い出せ。どうしてこの列車に乗っているんだ」


 うろ覚えだが、駅のホームにいた記憶はある。何をしていたのかわからないが、ベンチに座っていたかもしれない。


 そこから、真っ白だ。


 何がどうして、こんな列車に乗っているのかわからない。


 古い車両のようだ。清掃が行き届いていて綺麗ではあるが、造りが古めかしい。子どもの頃、こんな感じの列車に乗ったことがある気がする。車体がギシギシと軋めいているのも、どこか懐かしさを感じさせる。


 急に、進行方向の車両が、パッと明るくなった。外に出たのか、と思ったら、そうではなかった。


 それまで暗くなっていた車両に、明かりがついたのだ。


 こちらの車両のドアが、音を立てて開いた。


「おや。まさか、お客さんが?」


 中に入ってきた何者かが、とぼけた声を上げた。車掌だろうか。列車なのだから、客がいるのは当たり前だろ。


 と思って、ボックス席から身を乗り出して、現れた何者かの顔を見た途端、ギョッとしてしまった。


 黒い兎が、車掌の服を着て、立っている。


「まいったな。今日はお客さんがいるなんて、聞いてないよ」


 ペタペタと足音を立てて、黒兎はこちらへと向かってくる。


 記憶の無い自分でも、さすがにこれは尋常ではない事態だとわかった。


 兎は人間の言葉を喋らないし、人間のような歩き方もしない。車掌の服だって着ない。


 何だ、この不思議な生き物は、と面食らったまま、一歩も動けず、相手の接近を許してしまった。


「向かいに座らせてもらいますよ」


 丁寧に断ってから、黒兎は、私と向かい合う形でボックス席に腰を下ろした。


「えっと……ここは……」

「質問はしないで結構。あまり時間をかけると手遅れになりますからね、簡潔に状況だけ、私からお伝えしますよ。いや、その前に」


 黒兎は、私の言葉を遮り、早口で一気に話してから、そのつぶらな瞳でじっとこちらの目を覗き込んできた。


「乗車券は、お持ちですか?」

「持っていないと、思う」


 言われてから、スーツやズボンのポケットを探してみたが、見当たらない。念のため座席周りも見たが、落ちたりはしていない。


「記憶はありますか?」

「無い」

「まったく?」

「まったく」


 ああ、と黒兎は嘆きの声を上げた。


「迷い乗車ですか」

「なんだ、その、迷い乗車っていうのは」

「たまにいるんですよ、この列車にうっかり乗ってしまう人が。ちょっとした心の揺れ動きがきっかけになって、世界の境界線を越えて、乗車券も無いのに入ってきてしまう。それを迷い乗車と呼んでいるのです」

「待て、この列車は、なんなんだ」

「わかりませんか? わかりませんよね。普通は、一生で一度しか乗ることのない鉄道」


 その時、列車がトンネルを抜けた。


 車内に日の光が差しこんでくる。


 窓の外には、青空のもと、地平の彼方まで連なる、広大な花畑が広がっている。幾億もの花びらで彩られた鮮やかな大地は、どれだけ目を凝らしても、果てが見えない。


 その中を突っ切るように、列車は走っている。ひたすら、まっすぐに。


「この列車は、あの世へと向かう列車なのでございます」


 そう言って、黒兎はうやうやしく頭を下げた。


「へえ」


 続いて出た私の声は、我ながら驚くほど、無感動なものであった。


 もっと慌てたり、怯えたりするものだろうが、なぜか何も感じなかった。


「まるで『銀河鉄道の夜』だな」

「なんですか、それ」

「宮沢賢治の作品だよ。聞いたことない?」

「私は浅学なもので」

「ひょっとしたら、この列車の終着駅には、カムパネルラがいるのかもしれないな」


 なぜか『銀河鉄道の夜』だけは思い出せる。


 中学生の頃に読書感想文で読んだ、あの不朽の名作を思い返しながら、私は楽しい気分になってつぶやいた。


「お客さんが何をおっしゃっているのか……」

「今度、本を貸してあげようか?」

「何を呑気なことを。このままじゃ、あなた、帰れなくなってしまうんですよ」

「帰るって言っても、記憶が無いから、どこへどうやって行けばいいのか、さっぱりだ」

「この列車に乗った人間は、みんな自分のことを忘れてしまうのです。大切な人のことも忘れる。だから、あの世へ行くまで、特に何も感じることなく乗っていられる」

「よいことじゃないか」

「ですが、それは、寿命を迎えて、正式に乗車券を発券された人だから許されることなんです。迷い乗車は、ハッキリ言って迷惑です」

「おい、待てよ。俺は乗りたくて乗ったんじゃないぞ。たぶん」

「とにかく、迷い乗車の人は、まだ生者なのです。そんな人を、終点まで連れていってしまったら、上司に大目玉です。だから、途中で引き返してもらわないといけない」

「ふうん」


 途中から、私は、黒兎の話をぼんやりとしか聞いていなかった。


 車窓の風景に見とれていたからだ。


 遙か遠く、目もかすむようなところまで一面広がっている、色とりどりの、花、花、花……。


 こんな心地良い景色の世界にいられるのなら、(どんなところか記憶は無いけど)元の世界には戻りたくない。


「ちょっと、お客さん、お客さん。やめてくださいよ。外を見ないでくださいよ」


 黒兎の慌てた声で、私は我に返った。


「とにかく、いまなら引き返すことも可能です。途中駅で下車して、そのまま反対方面へ向かう列車に乗ってもらえればいいのです」

「別にいいよ、俺は。このままでも」

「だから、私が困るんですってば」


 本当に、黒兎にとって、まずいことなのだろう。動きに落ち着きがなくなってきている。


 かわいそうなので、協力してあげることにした。


「わかったよ。途中駅で下車して、元の世界に帰るさ。それでいいんだろ?」

「助かります。ただ、そのためには、記憶を取り戻してもらわないといけません」

「反対方面の列車に乗るだけじゃないのか?」

「戻る場合は、行き先が途中で別れてしまうのです。列車によって、戻りの終着駅は違う。失敗すれば、元の世界に戻るどころか、とんでもないところへ行ってしまう恐れもある」

「とんでもないところって、どんな?」

「とにかく、とんでもないところです」

 黒兎はブルッと体を震わせた。私は、それ以上追及するのをやめた。

「お客さん、どうですか? スーツを着ている、ということは、何か仕事をなさっているのですよね。仕事で思い出せることはないですか?」

「仕事、ねえ……」


 問われれば、何か思い出せそうな気もする。


 ガタン、と車体が揺れた。


 列車は橋の上、大きな川を渡っている。海かと見紛うほどの大きな川だ。しばらくして対岸が見えてきた。あちらも、一面の花畑だ。


「少し思い出した」

「ほう! ほう! なんでしょうか!」

「最近、転職したばかりなんだ。具体的な仕事内容は思い出せないけど」

「転職なさったのですか。それは大変ですね」

「新しい会社はわりと気に入っていたと思う。悪いイメージが無いから。ただ」

「ただ?」

「前の会社でも、いまの会社でも、ずっと、『ここは俺の居場所じゃない』って思っていた。そんな、記憶がある」


 黒兎は黙ってしまった。かける言葉を探している様子だったが、いい言葉が思いつかなかったのか、次の質問に移ってきた。


「他に思い出せそうなことはありませんか? たとえば愛する人のこととか」

「愛する人……か……」


 女性らしき姿は、頭の中に浮かんできた。


 誰かが、私の帰りを待っている。そのことだけはわかるが、じゃあ、それは誰なのか、他人なのか、友人なのか、恋人なのか、はたまた妻なのか、さっぱりわからない。


 頑張って、さらにその姿を思い出そうとするが、どうしても輪郭線はぼやけたままだ。


「もう少しで思い出せそうだけど、あまり記憶を取り戻したくないみたいだ」

「ご趣味は?」


 その問いを聞いた瞬間、私の肉体に異変が訪れた。


 心臓のあたりが激しく痛む。ハッキリと、考えるのを拒否していることがわかる。


 脳内がチリチリと焼けるように熱くなってきた。数秒耐えたが、もう限界だった。


「すまん……その質問だけは……」

「うーむ。普通、迷い乗車してきた人は、この程度の問いかけには答えられるものですが」


 私に、一体、何があったのだろう。どうしてこの列車に乗っているのだろう。なぜ記憶が戻るのを拒んでいるのだろう。


 あの世へと向かうこの列車に、私は何を望んでいるのだろう。


 記憶さえ戻れば、元の世界へと帰れる。


 だけど、記憶の戻った「本当の私」は、はたして帰りたいと思うだろうか?


「……どうしても、俺に、記憶を取り戻させたいのか?」

「それはそうです。この列車の規則は厳しいのです。もしも生者をこのまま終点へ運んだりすれば、私はとんでもないことになってしまう」

「ちなみに、どんな目に遭うんだ?」

「私、この姿になる前は、銀色の毛を持つ狼だったのですよ」

「は?」

「一度、誤って、生者を終点まで乗せていってしまったのです。その結果、罰を受けて、この姿に……」


 私は思わずアハハと大笑いした。随分と可愛らしい「とんでもないこと」があったもんだ。でも、本人にとっては、とても辛いことだろう。


「そんなに笑うなんて、ひどいです」

「あー、ごめんごめん。そりゃ深刻な話だ」


 目尻についた笑い涙を手で拭うと、私は、黒兎にほほ笑みかけた。


「わかったよ。もう思い出せそうにもないし、俺はこの先で降りる。で、反対列車に乗るさ」

「何をおっしゃるのですか?」

「言葉どおりだよ」

「私の説明を聞いていなかったのですか? 記憶が戻っていない状態では、正しい列車には乗れません。そうなれば」

「それでいいんだ」


 実を言うと、おぼろげに、ある光景が脳裏に蘇りつつある。


 夜の自室で、キーボードを叩いている自分。目の前のディスプレイには文字が躍っている。


 そして、離れたところから、冷たい眼差しでこちらを眺めている女性がいる。


 私はその女性に、頭を下げて、何度も弁解の言葉を送る。


(いつか)

(きっと必ず)

(待っていてくれ、もう少しで)


 そんな自分の浮ついた言葉だけが頭の中に響いてくる。


 もう何年も何年も言い続けて、ついには心がこもらなくなってしまった、虚しいセリフ。


 もう少しで全部思い出せそうだけど、やめた。


 いつも何かに焦っていて、怯えていて、自分を痛めつけて……記憶の中の自分は、そんな荒んだ気持ちしかなかった。


「せっかくの機会だ。この際、全部忘れたまま、新たな地を目指すよ」

「よろしいのですか?」

「いいんだ。戻っても、きっとロクでもない世界しか待っていないと思う」


 列車の走行音が変わってきた。窓の外を見ると、スピードが落ちてきているようだ。


「そろそろ駅かな?」

「ええ。この鉄道、唯一の途中駅です。ここで降りれば、反対方面の列車にも乗れますが……」


 黒兎はじっと私の顔を見つめてきた。


「そんな風に見るなよ。別に、俺だけがこういう選択をしているわけじゃないんだろ? いままでにも、同じ道を選んだやつはいるだろ?」

「……数え切れないほど、おります」

「だったら、どうということはないさ」


 広大な花畑の中に、ポツンと佇む駅舎。


 そのホームに、我々の列車はゆっくりと滑りこみ、停車した。


 荷物は何もない。私は身一つ。軽やかに席から立ち上がり、通路を進んでいく。


 黒兎は、乗降口までついてきてくれた。


 列車から降りた後、私は振り返って、黒兎に手を振ってやった。


「カムパネルラへよろしく!」


 宮沢賢治も知らず、『銀河鉄道の夜』も読んでいない黒兎は、私が何を言いたいのかわかりかねる様子で、最後まで、困ったように首を傾げていた。


 扉が閉まった。列車は車体を軋ませ、少しずつスピードを上げていき、やがて花畑の奥へと消えていった。


 静かになったホームのベンチに腰かける。


 こんな穏やかな時間を、私は、ずっと望んでいたのかもしれない……。


 どこまでも続く花畑を眺めながら、次の列車が来るのを、のんびりと待ち続けていた。

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