第4話 恋をさせるって言ってもこれは違うだろ②
頭上から聞こえて来た、妙に聞き心地のいい明るい声。それに釣られて、志摩は思わず視線を上にあげた。
そこにいたのは、深紅の落ち着いたドレスを着た女性だった。
ただ何故だか、これまでの女の子たちには一様に覚えていた忌避感を、彼女には感じなかった。
「どーもこんばんは。隣、いい?」
「あ、ああ」
そのことを不思議に思いつつ、志摩は頷く。
「初めまして。私は今井茜(いまい あかね)。君はえっと……長谷部くん、だっけ?」
「なんで俺の名前を……?」
「裏でキャストたちが噂してたからね。どうしたら君に心を開いてもらえるかってさ」
「そんなことを……?」
「まあね。熱心でいい子だから、うちの子たち」
茜はそう言ってニカっと気持ちのいい笑みを浮かべる。
美人であるのだが、茜には今までの女の子たちと比べて近寄りがたさがない。何というかそう、近所のお姉さんと話している感覚だ。
「ねぇ。長谷部君さ、実はずっと帰りたくて仕方ないんじゃないの?」
「……なんで、それを」
志摩が内心を見透かされて驚いたように呟くと、
「いやいや、思いっきり顔に出てるよ? すっごい疲れた顔してるし」
「まじか……」
逆になんでバレないと思ったの?とでも言わんばかりにまくしたてられ、志摩は苦笑いを浮かべる。
感情を表に出していたつもりはなかったが、そうでなくてもにじみ出てしまうくらい、疲れてしまったのだろう。
「よかったら、帰るの手伝おうか? 大方、キャバクラの仕組みとかが分かんなくて帰るに帰れなかったんでしょ? そういう人良くいるし」
「……凄いな、そこまで分かるのか。でも、いいのか? 客を帰すような真似して、店から怒られたりは――」
「君、あれでしょ。漫画とかで聞きかじりの知識ばっかりあるからキャバクラをすっごい怖い世界だとか思ってるでしょ」
「え、違うのか? なんかこう、何が何でもお酒を注文させるとか、それこそ客を帰したら店ぐるみでいじめられたりとか……」
「ないないそんなの! まあ、昔はあったかもしれないけど、今はキャバクラでだってそんなことしたら普通に問題になるからね」
「なんだろう、逆に夢が壊れた気分だ……」
闇金ウシジマくんとか、ヒマチの女王とか、そういう裏社会系の漫画だけは読んだことがあるから、来店したこともないのに夜の世界に偏見ばかり持ってしまった若者の典型、それが今の志摩だ。そういうのは実際にないわけじゃないだろうが、少なくともこういう高級店では滅多に起こらない。
「ていうかそれならもっと早く帰りたいって言えばよかった……」
「え、もしかして君、ほんとにそんなこと気にしていたくもない場所にずっといたの?」
「えっと、まあ……ていうか帰りたいとか言い出し辛かったし……」
「あははっ! 何それ! 面白すぎでしょ!」
茜は机をバンバン叩きながら腹を抱えて爆笑する。
「何もそんなに笑わなくてもいいだろ」
「だって、ここはあくまでも接客を売るお店で、君はお客さんなんだからさ、帰りたかったら好きに帰っていいんだよ。その権利は君にあるんだから」
「確かに……」
茜から言われて今更、志摩はそんな当たり前のことに気付く。この一時間、手持ち無沙汰で空きっ腹に入れ続けていた酒が判断力を鈍らせていたのかもしれない。
「それじゃ、ありがたく帰らせてもらおう。あ、けどあいつは……」
志摩はいつの間にか左右に二人の女の子を侍らせてすっかり上機嫌の美濃部に視線を向ける。
「ああ、そこの人? 楽しそうだし気にしなくていいんじゃない? まあ心配なら、適当なところで切り上げさせてタクシーに乗せて帰しとくけど」
「すまないが、頼めるか?」
今となってはただキャバクラで遊んでいるだけだが、一応自分のためを思って動いてくれた美濃部を置いて帰るのは何となく後味が悪い。なのでメモ帳を取り出し茜に美濃部の住所を書いて渡す。
「よっし、あの人は責任もって任されたよ。それじゃ、出よっか。見送られたり引き止められたりとかは面倒だろうから、トイレ行くふりしてこっそり裏から出よう」
キャバクラでは客がトイレに行くとキャストも付いて行ってドア前で待つのが普通だ。だから、連れ立って歩いていても違和感は全くない。
「……そういや、会計は全部あっちの人任せでいいの?」
「ああ。一応今回は俺が接待される側らしいからな。ていうか、仮にそうじゃなくても今回は払わす」
「あはは……まあ確かに、嫌な思いをしてお金まで取られたんじゃ割に合わないよねぇ」
二人は誰もいないことを確認しつつ、従業員用の裏口から外に出る。
志摩はヒールを履いた茜を気遣い、適当に雑談しながらゆっくりと外階段を降りる。
「にしても君、まだ大学生くらいなのに接待されるくらい偉いんだ。意外だね」
「ただ身に余るくらいの、何の役にも立たない才能があるってだけだ。それに、どれだけ素晴らしくても一番欲しいものは手に入らないままだからな。大した意味はない」
螺旋状の外階段を降る最中、時折見えるまるで異世界みたいにキラキラした夜の街を眺めつつ、志摩はつい、思い浮かんだ内心を吐露してしまう。
「……君、ちょっと酔ってる?」
「……かもしれないな。手持ち無沙汰だったから、中身も確かめずに随分飲んでたし……」
そこからは、志摩のセンチメンタルな気持ちを察してか茜は話を振ってくることはなかった。時折思い出したようにぽつりぽつりと交わす静かな会話が、妙に心地よかった。
「それじゃ、ここを真っ直ぐ進んだらタクシー乗り場だから。くれぐれも変なキャッチに引っかからないこと」
下まで降りると、茜は志摩を分かりやすい通りの角まで案内し、遠足終わりの先生みたいな口調で茶目っ気を出しつつ注意する。
「あいよ先生。……ほんと、何から何までありがとな。えっと……茜さん」
小さなビルの五階から降りただけの、ほんの僅かな間。だがそれは、まるで永遠の幻の中にいるみたいな美しい時間だった。さっきまであんなに帰りたかったのに、今はこの時間が終わることに一抹の寂しさを感じている自分を、志摩は不思議に思う。
「名前、覚えててくれたんだ。ありがとう。……あの、さ。こんなこと言うのもあれだけど、皆、少しでも楽しんで帰ってもらおうと必死だっただけだから。帰りにくい空気を作っちゃったあの子たちを、悪く思わないであげてくれないかな」
本当はこんなこと言うつもりはなかったのか、茜はどこかバツが悪そうに苦笑を浮かべる。それは茜もこの短い時間で志摩に心を開いたという証拠だろうか。
「いや、むしろ熱心に話しかけてくれていたのに俺の都合で不快な思いをさせて申し訳なかったと思ってる。よければ彼女たちに俺がそう言ってたと伝えておいてくれ」
「ん。分かった伝えとく。……ありがとね」
胸のつかえが取れたのか、茜はほっと安堵するととびきりの顔で笑う。
その笑みはネオンの明かりに照らされ幻想的で、志摩は心臓の鼓動が飛び上がるのを感じる。
「――っ、じゃ、じゃあ、俺はもう行く。あんたもあんまり店を空けるわけにいかないだろうし、早く戻った方がいい」
「そうだね。……それじゃあね」
二人は別れを告げ、別々の方向へと歩き出す。――直後、
「あ、そうだちょっと待って」
大通りを進む志摩の背を、カタンカタンと危なっかしいヒールの足音が呼び止める。
「一応だけど、これ、私の名刺。いらなかったら捨ててもいいよ。けどもしまた君がこういう場所に連れて来られて困ったら、連絡してよ。特別タダで助けてあげるからさ」
茜は白い高級そうなポーチから名刺を取り出すと、志摩に手渡す。
「……それじゃ、ありがたく。何かあったら頼らせてもらおう」
「うん、そうしなよ」
そして二人は何故かおかしくなって顔を見合わせると思い切り笑い合う。
「じゃあ、今度こそ俺は帰る。本当に助かった、ありがとう」
そうして今度こそ志摩は帰路に着く。そんな志摩を、茜は胸の前で小さく手を振って見送った。
(……そうか。他の女の子に比べて髪型と化粧がそんなに盛られてないから接しやすかったのか、彼女)
帰りのタクシーの中。志摩は不思議と自然に話せた茜のことを思い出して、その理由に気付く。
(やたらいい人だし、妙に通るいい声だったし……まあ、キャバクラも悪くはなかった……かもな)
そうして胸ポケットに入った名前と連絡先、お店のロゴだけが入ったシンプルな茜の名刺を取り出して、タクシー運転手に怪訝な視線を向けられているのにも気付かずに、志摩は一人にやける。
――お酒のせいか、あるいはすぐに眠ってしまったからか。間違いなく茜に惹かれていたというのに、何故かその時だけは呪縛に苛まれることがなかった。
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