第2話 新しい恋をさせてやる!

「……あれ? もしかしてハセシマ先生……ですか?」


 彼女が声を掛けてきたのは、ちょうどそんな会話が途切れたタイミングだった。


「あ、ああ。確かに俺がハセシマだが……」


「やっぱり! よかったぁ……人違いだったらどうしようかと思ってヒヤヒヤしちゃいましたよ~」


 リアルに語尾に音符が見えそうな甘い言葉遣いは、鼻孔をくすぐる甘い香水の香りのせいだろうか。アイドルみたいに可愛らしい顔を緊張に染めた彼女は、志摩が返事をすると安堵を浮かべ、直後、打ち上げ花火みたいに一瞬で鮮やかな笑顔を弾けさせた。


「えっと、あんたは……?」


「わっ、失礼しました! 私、雪見れい(ゆきみ れい)と言います。今年入社したばかりの新人ですが、一応美濃部さんと同じ編集として働いてます!」


 れいが慌ててお辞儀をすると、緩くパーマのかかった短めの茶髪がふわりと柔らかく揺れ、僅かに開いた胸元からはち切れんばかりのブレストミサイルが二機、暴発しそうなくらいに押し上げられる。

 その破壊力に、志摩は思わず目が離せなくなってしまう。


「――っ、あー、えと、とりあえず顔を上げてくれ。俺も今年デビューした新人だし、そんなにかしこまられても困る」


 胸元を見ていたことがバレないように顔を逸らしつつ、そんな言葉を捻りだす志摩。


「あはは、憧れの先生を前につい緊張してしまって……では、お言葉に甘えて少しフランクに接しますね!」


 男受けの良い薄化粧。絶妙に開いた胸元。バレない程度に角度を付けた作り笑い。

 お辞儀をしている間に緊張が解けたのか、にんまりと偽りの笑みを浮かべるれいには、男のツボを理解して敢えてそう見せている、そんな暴力的な色気があった。


「憧れってそんな……むしろ幻滅しないか? あんなキラキラした青春小説を書いてるのが、俺みたいな冴えない奴で」


 編集部での打ち合わせなど美濃部に会うだけなので、今の志摩は履き古したジーパンに少しよれたパーカーという適当な格好をしている。辛うじて外に出るから髭だけ剃ってきたものの、もちろん髪形など整えておらず、寝ぐせでぼさぼさだ。

 そんな自分が憧れの青春小説の作者ではイメージが壊れるだろう。志摩はそう思って、苦笑交じりに尋ねたのだが、


「え? あれって、キラキラした青春小説だったんですか? 私にはむしろ、醜い欲望の最終形態……みたいな感じだと思ってたんですけど」


 それは、志摩の作品の根幹を見抜く、鋭い言葉。

 志摩の描く世界観に圧倒されて、誰もが、担当編集の美濃部ですらこうして志摩から聞かされるまで気付かなかった、『あの日々』の真実。

 それを、偽りの笑顔を張り付けて、きょとんと首を傾げた可愛らしい仕草で放つれいに、志摩は――、


「――くくっ、くははははははっ!」


 思いっ切り爆笑してしまった。


「ちょっ、なんでそんなに笑うんですかー! 確かに少し変なこと言ったかもしれないですけど、そこまで笑わなくても……」


 志摩の突然の爆笑にれいは心外だと頬を膨らまして怒り、しょんぼりと肩を落として見せる。


「……いや、すまん、つい我慢できなくて……くくっ」


 そんな、自分の発言の意味にまるで気付いていないれいを見て、志摩はこみ上げる笑いを抑えきれなくなってしまう。


「いや、ほんとにすまん。けど、別に馬鹿にしたわけじゃないから。むしろ、あんたの凄さに圧倒されて笑うしかなかったというか……」


「訳が分からないですよ……」


 しばらくして笑いが収まった志摩がフォローするも、れいはますます頬を膨らませてご立腹な様子だ。


(ハセシマの奴、雪見の計算高さも知らずに随分とまあデレデレしてんなぁ……って、もしかしてこれは……!)


 そんなどことなく甘い雰囲気を醸し出す二人の会話を聞いて、何となくタイミングを失って机に突っ伏したままでいた美濃部の脳裏に一つのアイデアが閃く。


「……なあ雪見、実は俺たち打ち合わせ中なんだが……お前知ってた? いや、知ってるはずないか。そうだよね。知ってたらまさか、先輩が打ち合わせしてるところに割り込んだりなんかするはずないもんなぁ?」


 そうと決まればさっさと行動しようと思い立ち、元来の強面に加えて眉間にしわを寄せた歪な笑顔を向け、美濃部は思い切りれいを威圧する。


 一見世渡り上手に見えるれいも、まだ社会人一年目。先輩の明らかな威圧に耐えられるはずもない。


「あ……。えっと……は、はい! 知りませんでした!」


「ならいい。お前今日これから外で打ち合わせだろ。早く行けよ」


 れいは美濃部に言われるがままにこの場を去ろうと一歩を踏み出したところで、しかしその足を止める。


「あの……ハセシマ先生。応援してます、これからも頑張ってください!」


 そして志摩の方へと向き直ると、とびきりの笑顔を浮かべた。


「あ、それからこれ、私の名刺です」


 それからついでとばかりに胸ポケットから名刺を取り出して、丁寧に両手で差し出す。

 何となく、相手に礼儀正しくされるとそう返さねばと体が動くのが日本人の習性というものだ。志摩もその例に漏れず、身を乗り出して畏まった動作でれいの方へ両手を差し出し、名刺を受け取ろうとして――、


「……もし良かったら、後で連絡くださいね」


 その瞬間、素早く近づき志摩の耳元で囁くと、れいはそのまま外に向かって去って行った。

 後には突然の出来事に思考が追い付かず、固まったままの志摩だけが残される。

耳元に残る彼女の声が、息遣いが、脳内に反響して消えない。声の残響に従って名刺の裏を見ると、丸っこいボールペンの文字でLINEのIDが走り書きされていた。


(ただ作者としての憧れかと思ったけど……これはもしかして、モテ期か⁉ そうなのか⁉)


 己の内に湧き上がる歓喜の衝動に身を震わせ、ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべた志摩がもう一度、名刺の裏の連絡先を眺めようとしたところで……、

 ――視界の端で、こちらを生暖かい目で見つめる美濃部の存在を思い出した。


「……」


「……」


 交錯する視線。二人の間に会話はない。


「な、何か言ったらどうなんだ!」


 無言に耐え切れずに、志摩が声を上げ、美濃部を睨み付ける。


「いや別に……ただお前が、普通に雪見にデレデレしてるのに驚いてな」


「そりゃ、男としてあんな子に言い寄られたら悪い気はしない。……それに、彼女は似てるんだ、あいつに」


「あいつ? ああ、確かに。言われてみれば雪見って『久川歩美』に結構似てるか」


 『久川歩美』とは『あの日々』のメインヒロイン、つまり、志摩が創作の世界に逃げ込んでまで追い求める理想の『彼女』だ。茶髪の清楚ギャルであるれいは、そのヒロインによく似ていた。いや、見た目だけではない。身に纏う雰囲気というか、会話の中で作り出す空気が、作品の中のヒロインに似ているのだ。それもかなり。


「しかしそうか。ハセシマお前、別にその理想の女の子以外に反応しないわけじゃないんだな」


「まあそりゃ、俺も健全な二十歳の男だしな。普通に可愛い子は好きだぞ」


「……そうか。その言葉を聞いて確信した。……思い付いたぞ、お前が新作、新しいメインヒロインを書く方法を!」


 美濃部は得意げに笑って胸の前で強い握り拳を作る。


「いや、確かに書けないとはいったが別に書くつもりがあるとも言ってないんだが――」


「それはずばり――新しい恋をすることだ!」


 志摩の抗議も虚しく、美濃部は天地に響き渡るような大声で高らかにそう告げる。

 明らかにオフィス内がざわつくが、もう周囲の視線は気にならないようで、


「考えてみれば簡単な話だ。お前は今をときめく売れっ子作家。過去の敗戦をいつまでも引き摺らなくてもどこかの公私混同するアホな後輩みたいにお前を気にいるやつは多いはずだ。なら、つまらない過去など新しい恋をして忘れてしまえ」


 言葉にはしないがそう告げる美濃部の顔は、妙案だろ? とそれは気持ちのいいどや顔だった。


「……それが出来れば、苦労はしてない」


 そんな美濃部の高いテンションとは裏腹に、志摩は俯き、そして、喉奥から吐き捨てるように小さく呟く。


「あのな、俺は――」


「とりあえずこの後ちょっと付き合え。なあに、悪いようにはしないから」


 再び抗議しようとする志摩を、美濃部はギラギラした瞳で遮る。どうやら志摩が乗ってこないのは予想済みで、反論すら許さないという強引な手に出ると決めたようだ。


(……はぁ。これはしばらく何を言ってもダメそうだな……)


 美濃部という男は編集として間違いなく優秀なのだが、たまにこういう暴走をすることがある。志摩は今までの経験から、こうなった美濃部は説得しようとしても疲れるだけだと知っていた。


 そうして意気揚々と突き進む美濃部に連れられて、志摩はそのまま編集部を後にした。

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