第二章「家康の恐怖」1
第二章「家康の恐怖」
一
「正信。天海よ。我ら徳川が、こたびの戦で敗北して、天下を奪われることがあるとするなら、その敗因は、真田じゃ。幸村じゃぞ」
戦国時代を生き抜いてきた、戦いの本能に、強く響く危機感が、その言葉を言わせていた。
家康は、真田幸村の名を口にするたびに、悪寒を覚えたときと同じように、身を震えさせた。
家康のそんな姿は、滅多に見ない。
家康には、多面性があった。
図太いときは、巌のように巨大な存在感で相手に圧し掛かる。
変幻自在な老練の技術を使い分けたが、幸村への恐怖は、演技ではない。
心身の奥から、恐怖しているのが、正信と天海にも伝わっていた。
「幸村めは、神出鬼没じゃ。今にも、それ、そこに現れるやもしれぬ」
夕闇の迫った、本陣の幕の前を指差した。
「警固の数を倍にいたせ」
正信が、馬廻り役に、すぐさま命じた。
「はっ!」
馬廻り役が、即走った。
「判るか?」
「は?」
「幸村が心底よ」
「・・・」
「奴は、こたびを、好機と捉えているのだわ。豊臣恩顧の諸将が、こたびほど多く、一同に陣を張ることはないとな。そこで、一気に大阪城に向けている、鉄砲の筒先を、儂の方に向け変えさせようといたして、画策しておる。石田三成とでは、器量が違う。幸村が考えは、胆の大きなことぞ。この戦の先まで読んでいるわ。お主らには見えまい。奴の魂胆が。幸村が考えは、戦には、当然、勝つ気でおる。すでに着々とその手も打っていよう。普通の勝ち方ではない、戦略を立てておる。戦の後で、天下を掌握する策を立てているに、違いないわ。儂が、幸村ならそのようにするぞ」
この時点で、幸村を一番理解していたのは、最大の敵である、家康であったかもしれない。
それが、恐怖に繋がっていた。
そのことを、ブレーンたちは、判っていなかった。
「儂の恐れていることが、実現せぬことを念ずるばかりよ」
家康のことばに、
(怖気づいたか?)
正信は冷笑するように思ったが、おくびにも出せるものではない。
「大御所様。味方は二十万。敵は半分の十万でござる。それも、総ざらいにして、徴募を掛け、素浪人まで狩り集めての、寄合所帯でござれば、いざ鎌倉のときには、尻に帆を掛けて逃げ出す輩も多いことでござりましょう。総大将の大野治長など、鎧を着けたこともないような、嘴の黄色いひよこ。采配の振り方も判らないのではござりますまいか」
「正信。お主は、儂の亡きあと、位牌に小便が掛けられるか?」
「まさか・・・」
と絶句した。
「そのまさか・・・なことを儂は強いておる。豊臣恩顧の大名たちにの・・・」
「・・・」
「出てはくるまい」
「霊魂か何かで?」
天海が、間の抜けたことを言った。
「ならば、気が楽・・・秀頼よ。鉄砲の筒先を向けられるか? 豊臣恩顧の諸将がじゃ。位牌に小便どころではあるまい。その時点で、筒先は、儂の方に向く。正信。寄せ集めは我らが軍勢の方ぞ・・・それが、読めぬか」
「ははーっ」
と平伏した。
正信も天海も、そこまでを、読み切れていなかった。
「幸村の切り札ぞ。が、それは先刻承知よ。そうならぬために、手は打った。それが、まだ届かぬ。それが、来ぬうちは、采配は振れぬわ。高価なものぞ」
「はて、何を?」
「あの城の主が、恐怖して、戦になどに出たくなくなるものよ。さすれば、位牌も祀られる。小便を浴びなくてすむ。もう直に判るわ・・・幸村もそこまでは、考えまいよ」
と言ったときに、小動物の声がした。
「なんだ、いまのは?」
「野ネズミの類でございましょう」
正信が返事をしたときに、幕の外で、爆発が起こった。
「わっ!」
家康が、叫んだ。
その家康の茶碗の中に、鼠の頭が降ってきて、緑の液体の中に浮かんだ。
「な、なんと・・・鼠の頭が・・・」
家康が腰を抜かした。
その後から、華麗に舞いながら、赤く染めた矢羽根が落下して、鼠の頭の上に乗った。
「赤い矢羽根・・・さ、真田だ!」
家康が、茶碗を抛り投げて、
「二人とも、何をそんなに落ち着いておる。少しは慌てぬか!」
と地を蹴って怒った。
「真田幸村め! 必ず、金子で釣り上げてやるぞ。百万石なら、文句はあるまい」
「ひ、百万石で・・・ござりまするか」
天海が、亀が甲羅から、思い切り首を伸ばしたような恰好になり、ひゃっくりをした。
「身の危険には代えられぬわ」
「い、いかにもで・・・」
「正信。直ぐに使いを出せ」
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