第一章 12
十二
「さて、こたびの我らが行動は、敵、味方の陣中に、早くも、噂となって拡がっていよう」
幸村が言った。
幸村の手の者が、素早く広げてもいったのである。
宣伝工作も、真田忍軍の、仕事の一つであった。
「はい。この内記の耳にまで、徳川家康が、裸馬にかじりついて、後方の陣に退いたと」
「真田幸村殿は、父昌幸殿に輪をかけた、智謀と豪胆さを合わせ持った名将よ。軍神、武田信玄公の薫陶を受けた家筋の凄さを、思い知った心地でござると、味方には、血の気が蘇り、敵将は誰もが、膝頭をガクガクと震えさせておりまする」
青柳千弥も、高梨内記と同じように、噂のことについて答えた。
「それで良い。すでに、豊家恩顧の諸将には、一の矢は、濃霧の中で放ってある。望月六郎の弓箭の腕は確かぞ。あの矢文で、豊家恩顧の諸将は胆が冷えて、動きも出来なくなった。裏切り者の片桐旦元の首と、日和見の処世術使いの藤堂高虎。この二人の首だけは、刎ね上げて、茶臼山辺りに、晒してくれる。この二人の首だけで、まだ気が付かぬ愚魯な者たちには、結局の所、家康陣に走った福島正則の子、正勝と、加藤嘉明の一族、明成・・・この二つの首も付足せば、これこそが太閤殿下の報いじゃと、さらに膝頭が震えようよ」
幸村がさらに恐ろしいことをいって、
「これらの四つの首は、穴山小助、海野六郎、筧十蔵、由利鎌之助、根津甚八、望月六郎と、霧隠才蔵に、既に命じた。今宵辺り、一つ、二つの首を、血祭りに上げているはずぞ」
さらに現実味のあることを、その場の者たちに告げた。
伊木遠雄が、幸村の、気迫のある言葉に、動揺を見せまいとして訊いた。
「戦略として、血祭りに上げ申すのでござりましょうや?」
「意味のないことはいたさぬ。高梨。首を上げた後、すかさず大野治長殿の所に行き、敵も、我らが首を掻きに来るやも知れませぬな、と脅かして来い。大阪城勢の実質的な総大将は、大野治長様と敵も承知をしているはず。充分にお気をつけられよとな。三好清海入道と、三好佐三入道の兄弟を連れていけ。血のりの付いたままの丸太ン棒を持っていかせよ。大野は実戦の経験もなく、気が弱い。あんなのが大将では、命が幾つあっても足りぬわ」
と言った後で、言葉の調子を変えて、幸村が、心の奥の一端を、吐露するように、言葉をこぼした。
自分自身に言い聞かせている思いでもあった。
覚悟と言っても良いものであった。
「聞け。儂は・・・この戦は天下分け目とはおもっておる。小さな戦ではない。しかし、この戦だけに勝てば良いと九度山を降りてきたのではないぞ。秀頼君に、再び豊臣の天下を取らせんがために、一族郎党を引き連れて降りてきたのよ」
「はい」
一同が、真剣に頷首した。
幸村の眼を見続けた。
眼の奥に、巨大な正義への覚悟の炎が、燃えているのを、その場の誰もが見た。それは、大聖不動明王の光背で燃えさかる、紅蓮の炎の渦が、天空にまで立ち昇る、
聖なる炎のように映じて、一同の魂を惹きつけていった。
幸村が、大きく見える。
揺るぎなく見える。
幸村の全身から、光明が発されているのが、全員の心身で感じられた。
その幸村が、宣言するように述べた。
「天下に不似合な者には、引っ込んで貰う。最初に豊臣の中側の大掃除をする。官僚や、大言壮語の輩も廃する。豊臣を一つにまとめねば、天下は戻らぬ。判るか?」
「はい!」
一人々々が、一斉に答えた。
「寄せ集めの豊臣軍である。善を残し、不善の者を廃さねば、真の正義の軍勢とはならぬ。秀頼君の旗本衆などは、どうにでもなる。実戦がない者たちに、勇気を持たせれば良いことよ。この戦を食いものにしているような輩を、すべて、廃することだ。大野治長と・・・いま一人」
(これが、厄介だ)
「こちらは、儂と、佐助と才蔵、それと、大助とで行く・・・」
と自ら、大きく頷いた。
「大同をとり、小異には拘泥せぬ」
と自分に言い聞かせるように呟いた。
幸村が描いている戦略の真意は、誰にも判りようがなかった。
*
「所領と石高が少なかったかの」
本多正信と、天海に、家康が、首を振っていった。
(またしても、大御所様の吝嗇ぶりが出たわ)
いつも傍近くにいる本多正信にしたら、毎度のことであった。
(物質と、実利以外での思考がない。何人(なんびと)であっても、それで動くと多寡を括っている大御所様だが、こたびは、少しく様子が違っているぞ)
そのことは、正信だけではなく、天海も、強く感じていた。
(よほど真田幸村を味方に誘い込みたいようだ)
正信も、天海が感じていることに、同感の思いを実感していた。
(幸村を本気で誘い込む策を講ずる必要がある)
思ったが、その思いは、心の深奥に、沈殿させた。
天海も同じ思いをいだいた。
(幸村めを徳川軍に誘い込むのには、いままでのような、姑息な手段は通じまいよ)
天海も思いを、心の奥に仕舞って蓋を閉じた。
(大御所様は、幸村の、こたびの本陣への奇襲を本気で恐怖しておる)
正信が思った矢先に、家康が、
「幸村を、何としても欲しい」
駄々っ子が、菓子をせがむように言って、肥満した体をもむようにして、揺すりたてた。
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