第一章 4

   四


 高台院は、長浜城の時代から、少年たちを集めて、子飼いとして育ててきた。

 それが成長して、信長亡きあとの、柴田勝家との決戦の場と言われた、賤ヶ岳の合戦では、この子飼い集団が活躍をして、賤ヶ岳七本槍と言われた、武闘派の福島左衛門大夫正則、片桐東市正旦元、脇坂中務少輔安治、加藤左馬助嘉明、平野遠江守長泰、糟屋助衛門武則、加藤肥後守清正らの野生児を、高台院が、母となって育ててきたのである。

(彼らを、そっくり、徳川に付けられないものか?)

 いかにも家康らしい、策略を練った。

「まずは各個撃破かの?」

 と参謀役の本多正信と嫡男の正純、南光坊天海、金地院崇伝、林羅山らに話しかけた。

すると、天海が、

「武断派の武将、いまは、それぞれに、一国一城の大名になっておりますが、彼らの心の中には、同じ子飼いながら、五奉行の筆頭を勤めております、文治派の石田三成の専横が、何かと不満の種になっております。三成の後ろ盾は、秀頼の、ご生母をかさにきている、淀の方の威光・・・対して、武断派の後ろ盾は、高台院・・・三成は、あからさまに、徳川に歯向かって来ておりまする。いつかは、はっきりと敵になってまいりましょう。これは、見方を変えれば武断派は、高台院派。文治派は淀派と、言うことではありませぬか?・・・」 

 と分析した。

発言の主の、南光坊天海は、怪僧ではあったが、独特の人を惹きつける、光明(オーラ)を持っていた。

天海の希望(ゆめ)は、天台の複権であった。

長寿の人で、慶長年間から、寛永の中ごろまで健在であったという。

百十数歳を生きたとも、百三十歳まで生きたとも言われていた。

伝説の類であろうが。

伝説が生まれるほどの人物であったが、系統的な学問を修めたとはいいにくかった。

家康の仏教面や、戦略面、渉外を担当していた。

 家康には、もう一人、宗教がいた。

金地院崇伝であった。

臨済宗南禅寺派の管長であった。

南禅寺は、京都五山の上位に位置する寺であるともいわれていた。

しかし、禅の潮流は、五山派では飽き足らず、大徳寺、妙心寺などの、隣山派に流れているのが実態であった。

その崇伝がいった。

「いずれの世にあっても。乱には武、治にあっては文が台頭いたしましょう。仮に、もうひと波乱あったといたしましても、乱は降った雨が、裸馬の背を分けるように、戦国、武人の世は、終焉いたし、文官の世に向かいましょう。大局的にはでございます。しかし、そうなるためには、嫌でも、もう一波乱、夕立のような騒ぎがございます。戦が終焉していけば、武官の不満は鬱積いたし、文官の台頭に、専横が目に余るようになります。武官は情で動きますが、文官は、理で動きます。行政だからです。行政と軍事は、相入れません」

 崇伝は、らしいことを言う。

 豊臣の最終期の家臣団構成は、五大老(大年寄)、徳川家康、前田利家、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家である。

 次に三中老 (小年寄)、生駒親正、堀尾吉晴、中村一氏である。

 これに、行政の実行機関である、五奉行がいた。

石田三成、前田玄以、長束正家、増田長盛、浅野長政である。

行政文官といのは、木で鼻を括ったことをやるものであった。

 秀吉落飾後、先ず前田利家が、亡くなった。

太閤秀吉が考え抜いた、碁盤の大きな布石が一つ欠けた。

前田利家こそが、家康への押さえの一石だったのである。

その嫡男の利長と家康では、貫録が違い過ぎた。

上杉景勝は、秀吉の亡くなる七日前に、越後から、会津に移封された。

宇喜多秀家は豊臣家に付く。

五大老の中で残るは毛利であった。

その去就はどこまでも灰色であった。

 家康に負けぬ狸であった。

(ここは、一気に押すことだ)

 強引に碁盤の目を家康流に埋めていった。

「それにしても、腹の立つ、小童よ」

「石田三成でごさりまするな」

「む。秀頼、つまりはご生母、淀の威光をかさにきて、一々逆らってきおる」

「いっそ、挙兵させるようにもっていったら、いかがです?」

「正信。まだだ。高台院子飼いの、武断派の大名たちが、どちらに付くか? 高台院の一言が取れぬうちはな」

 その高台院のもとを、家康が、夜分に、隠密におとのうた。

高台院が、孤独なのは、調査ずみであった。

その孤独な心と体の隙を、家康は巧みに衝いていった。

(世間では、儂のことを、後家殺しと言っておるそうな。違うぞ。活用しておるのじゃ。それが役に立つわ)

 高台院の、心と体の疼くところに、家康の優しい言葉と、焦らされるはずの技術の粋が、高台院の核心から核心へと移って、高台院の、女の残り火を燻ぶりから、燃え上がる炎へと、確実に変化させていった。

 孤閨に耐えてきた、高台院の、朱に染まりはじめた肌の毛穴から、こらえようのない、女ならではの、特別な匂いと、汗が滲みだして、とろりと高台院の、肌の上を固まりになって走り落ちた。

生きている限りは必要行為なのであった。

 何よりもの説得であった。

生を実感できる瞬間であることを、家康は、多くの後家たちから学習していた。

「ねねどの・・・」

 家康は、それまで、高台院と呼んでいた呼称を、本能的に、女の中枢に響く呼び方に、いきなり変えた。

「あい・・・」

「美しい・・・なんと穢れのない、肌であることか・・・」

「嗚呼・・・は、恥ずかしい」

 声までが震えた。

呼応して、仄暗い燈火にした、その炎が、微かに揺らいだ。ねねの深奥の願望を象徴しているようであった。

 ともに果てたあとで、家康は、さりげなく、高台院に囁くようにいった。

「淀殿がのう・・・」

「え?・・・」

「治部少輔(三成)を使って、豊臣家を、良いように専横しておる・・・」

「そのような・・・ああ、離れないでくださいまし」

「零れ出てしまいそうじゃ。ねね。包み直して」

「このように?」

「おお、それじゃ・・・次々と、ねねの子飼いの大名たちに難題を・・・ねね、儂は、まだ、元気ぞ・・・」

「まだ、お攻めに?・・・あの子たちに申しまする・・・あっ!・・・いきなり、そんな、急所を・・・だめ」

「あの子たちとは?」

「市松や、虎之助・・・みんな、わたしの子供です」

「どのように?・・・ここかえ?」

「あああ・・・な、何か、大変なことがあったら、必ず、徳川様の言う通りにいたせと。手紙で・・・お願いです。往生させてくださいまし」

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