第一章 3

   三


 秀吉は、夫を失ったお市の方に、身も世もないほど、恋焦がれるが、お市は、秀吉を嫌っていた。

 お市が再婚相手に選んだのは、宿敵・柴田勝家だったのである。秀吉は、夜、悶々とした。

 その市に、生き写しに成長したのが、茶々であった。

 その、茶々を、手に入れた秀吉は、天にも昇る思いで、淀となった、彼女に惑溺していったのも、無理からぬことであった。

 淀が子を産んだ。

 嫡男は、夭折した、次に生まれたのが、秀頼だったのである。

 ここには、ある種の運命の縮図があった。

 その縮図は、真田幸村の代になっても、尾を引いていくのであった。

 奇しきこという他はない。

 が、その縮図を、ただ傍観しているしかない女性がもう一人いた。

 そこに眼を付けたのが、徳川家康だったのである。

 ねねこと、北の政所、大政所は秀吉の母である。

 北の政所は、秀吉の落飾後、高台院となるが、法号である。

 秀吉の正室、北の政所に、徳川家康は、さりげなく、然し、急接近して誼を通じていったのである。

 こういうことは、人情の機微に通じている、戦国村の主(ぬし)である、家康であったからこそ、可能なだったのであろう。

「大変に美味しい水戸の納豆が手に入りましたのでな」

 ふらりと立ち寄った風情をよそおって、何本もの藁筒をぶら提げて、

「奥のみなさまにも、どうぞ・・・」

「まあ、水戸の納豆だなんて」

 北の政所が、少女のような声をあげた。

「飯はござるかな?」

「ええ、ええ、ありますとも」

「だったら呼ばれたい。納豆に醤油をかけて、ぐりぐりとまぜてな。飯の上に掛けて喰いたい」

「あい。一番美味しゅうございます」

「図々しく、上がらせていただく」

「はいはい・・・」

 北の政所は、喜々として、家康を迎えた。

 根は庶身のままであったのである。

 夫、秀吉が望外の大出世をした。

 その分、ねねのままで夫と、家庭を造っていきたかった部分を、北の政所は、まだ多分に持っていた。

 家康は、巧みにそこを衝いてきた。

 膳を、北の政所とともに囲んで、家康は、健啖に納豆ご飯と沢庵と、若芽の味噌汁を、けろりと胃の腑に流し込んで、

「いや、ご馳走に相成った」

 と立ちかけた。

「あれ? もう、お帰りで? せめて、食事のあとのあとの、お茶ぐらい」

「左候。いかにも慌ただしいかの。いや。いま、伏見に太閤様を見舞って参りましたがの。秀頼を頼みまいらせる、と誓約書まで書かされましての。大分、息もお苦しそうでござった」

「どうせ、お傍には、あのお方がついてお出ででござろうほどに。わたくしなど、いては、却って邪魔者・・・」

「政所様・・・」

「家康どのになら、判って頂けましょう。私にも、数多の側室にも出来なかった子供が、なぜ、淀だけに出来たので、ございましょうなあ」

「政所様・・・」

「誰の子種か、判ったものでは、ございませぬ・・・その証拠に、私が他の殿方のお種を頂けばいまでも、孕んで見せまする」

 北の政所の口調には、家康も驚くほどの激しさがあった。

 秀吉と、ねねの歳は、十二歳も離れているのである。

ねねは、五十歳前であった。

 もしかしたら、本当に孕めるかもしれないのであった。

「儂の子種では、不満かの? もう一膳、馳走になれるが・・・」

「健啖家でございますね。それだけ、元気と言うことでございますね」

「元気なだけが取り柄じゃよ」

 二人きりの部屋である。

家康の手が延びて、北の政所の手を握った。

 家康の女性の趣味は、『後家殺し』と言われていた。

 秀吉の、名門ブランド志向と、正反対で、質流れ品での掘り出しもの思考であった。

「後家ならば、誰にも恨まれぬわ。それにの、しっかり経験を積んでいるので、 一々、手取り、足取りせずとも良い。面倒なこともない上に、痒いところに手の届くような、細やかさも持っておる。得なことばかりよ」

 家康は、側近の一人である、本多正信に、そういって笑ったことがあった。

 事実、側室には、後家の在庫が揃っていた。

いかにも吝嗇家で、実利に徹していた。

 男性の家臣たちだけではない。女性も、

「馬と同じじゃ。いかに名馬であっても、悍馬では、乗りこなすのに手間が掛かろう。その時間が勿体ないわ」

 というのである。

 そして、

「大名も同じじゃな。大名の飼葉は、所領と禄高よ。これの匙加減で、いかようにも、なついてくるものよ」

 本多以外の、ブレーンである、天台僧の怪僧、南光坊天海などにも、そういった。世間を見る眼が、湯漬けの、湯を掛ける前の、飯のように冷め切っていた。

 秀吉には、愛嬌や、茶目っ気というものがあった。

 しかし、家康には、それが、薬にしようがないほどなかった。

 喰えない。

 吝嗇と、猜疑心の固まりが歩いているようであった。

 当然、誰からも好かれない。

 無二の友の素行でさえも、忍びを使って、詳細に調べ上げてからでなくては、つきあわない。

 交際をしても、心を許すことはなかった。

 それが、戦国大名としての心得と、心の底から、信じ込んでいるのであった。

 しかも、交際には計算があった。

(どんな得があるか?)

 最初に考えた。

 高台院に対しても、その身辺を、最初に調べ抜いてあった。

 家康の忍びの頭領は、服部半蔵であった。

 服部氏は、伊賀の国服部郷を領していた。

服部半蔵正成の父、保長は、足利義晴に仕えた後に、三河の国に来住して、松平清康、広忠、家康の三代に仕えた。

 正成は、家康と同い年である。

 三河宇土城の夜討のときは、十六歳であったが、伊賀者六、七十を指揮して戦功を挙げた。

 三方ヶ原の役のときには、伊賀者百五十人を預けられて戦っていた。

 裏の仕事の殆どは、半蔵正成の仕事であった。

 江戸城には、半蔵門の名があった。

 半蔵が守備したためとも、半蔵のための長屋があったからとも言われている。

 その半蔵から報告があった。

「孤独なものです」

 北の政所の身辺調査を、命じたのである。

 すでに北の政所から、高台院になっていた。

 秀吉は、黄泉に旅立っていた。

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