第一章 2
二
戦国期の武将の記録は、大変沢山ある。
しかし、確実に祖先の史料が、正しく残っている家系というのは、至ってすくない。
真田一族もその例外ではない。
真田氏の始祖は、清和天皇から貞元親王ということになるが、この辺りは神話と捉えた方が、気が楽である。
清和天皇を始祖にする家系は多く、家系図の流行りものの感がある。
下って大伴氏になり、滋野氏に分かれ、海野氏にいたって、現実味を帯びてくる。
海野氏の時代は長い。
真田氏を名乗りはじめるのは、幾つもの説があって、決定打と呼べるものはないのだけれども、信濃の真田 (地名)に住んで、それを姓にしたのは、海野信濃守棟綱が初めてである。
棟綱の嫡男が、真田幸隆で、幸隆は、真田氏中興の祖と言われる人である。
幸隆の三男が昌幸である。
昌幸の次男が、幸村(信繁)で、その子が大助幸昌(信昌)ということになる。
幸村は信繁でもあるのだが、真田信繁とは、滅多に書かれない。幸村で通っている。
大助も幸昌とはあまり描写されてはいない。
大助で通っている。慣例に従う。
幸村の兄に信之(信幸)がいる。
徳川に付いて、沼田城の城主になっているが、今後この作品の中で、描写されることは稀であろう。
真田幸村の大阪城入城の報は、すぐに知れ渡って、家康の耳にも届いた。
「嫌な奴が、敵に廻ったことよ」
家康が、呟いた。家康の肚の読めるものは、家中にも、敵にも一人もいない。
が、一人だけ、家康の打つ手の先が読める人物がいる。
幸村であった。
下克上、戦国時代の中期から後期までの、主(ぬし)のような家康の、ものの考え方や、行動には、苔が生えていた。
一々が、戦略的であった。
複雑怪奇な、人生を過ごしてきた。
それが、家康の思考や行動に、一筋縄ではいかない翳りを、付けているのかもしれなかった。
徳川家康の幼児期は、決して幸福ではなかった。
三河の松平の領主の嫡男ながら、いや、嫡男であったがために、五歳で、駿遠三
太守、今川義元の人質として育ってきた。
結婚も義元の親戚筋から、売れ残りのような年上の築山殿をあてがわれて、正室とされてしまったが、この築山殿が、実に嫌な女で、今川風を吹かせて、何かと高飛車に出て、家康はそのたびに、煮え湯を飲まされた気分になった。
家康の人質時代に、義元の養育係でもあり、今川家の黒衣の宰相とも言われた、太原雪斎に、読み書きを習った。
雪斎が建立した、臨済寺(静岡市に現存)には、家康の幼名、竹千代の、『竹千代手習いの間』というのがある。
義元が、織田信長に、桶狭間(桶狭間という地名はなく、田楽狭間というのが該当地であろうといわれている。名鉄、中央競馬場前駅の傍に石碑がある)で、劇的なゲリラ戦で討たれたあとは、家康は、飛躍的に領地を拡大して、今川領の駿遠三を、そっくり横領し、織田・徳川(松平を改姓)同盟を結んで、戦国大名の地位を盤石にしたのである。
本能寺の変の後は、格下の秀吉に、してやられた。
豊臣政権下では、前田利家とともに大納言となって、五大老の筆頭格として、豊臣政権を支える羽目になったが、
「長生きこそが、最大の戦略よの」
と、秀吉落飾後は、あからさまに、政権奪取を企図して、正親町天皇から、征夷大将軍の宣下を受けて、江戸に、徳川幕府を開府した。
苔の生えた、戦国村の古狸となった。
政治の裏表を知り抜いていた。
秀吉は、大阪城で、淀殿に夢中になって、お熱を上げている。
秀吉の女性の趣味は、自分の出自が低いところから、その劣等感にたいする反動からであろうか。とかく、名門の子女を側室にコレクションしていた。
中でも際だって、淀に夢中になっていたのには、理由があった。
淀の実母は、信長の妹である。
秀吉は、この妹のお市の方に、異常なまでの憧憬と恋慕の念を抱いていたのである。
事実、美形であった。
しかし、これも政略結婚であったが、美濃の隣国、北近江の浅井長政に嫁がせた。
その上で、信長は、長政と織田・浅井連合を、構築したのである。
けれども、浅井は、それ以前から隣国の、越前の朝倉と連盟していた。
そのために、長政は、
「仮にでござるが、義兄(信長)上が、朝倉殿を、お攻めになるような場合には、朝倉と長年の信義がござるゆえ。なにとぞ、この長政に、ご一報あらせられてから、ことを起されることを願い上げたてまつる。あってはならぬことでござるが」
と釘を刺しておいたのである。
が、信長は、長政に無断で、朝倉を越前に攻めた。
「浅井は、義弟だ」
と安心をして朝倉を攻めたのだが、長政は、朝倉との信義を重んじたのと、
「あれほど言ったのに、儂に無断で、朝倉を攻めた」
というので、信長の敵に廻って、信長の背後を衝く策に出たのである。
「おのれ長政め。儂を挟撃する気か」
信長は長政を憎悪し、
「折角、可愛い、市をくれてやったのに」
烈火のごとく、憤怒した。
しかし、挟撃を避けるために、撤退を余儀なくされた。
それが、織田・徳川連盟対、浅井・朝倉連合の〈姉川の合戦〉に繋がっていき、浅井・朝倉は、信長の苛烈な猛攻の前に滅亡していくのであった。
皮肉なことにこの戦によって、秀吉は、飛躍的な、出世をしていくのである。
長浜(旧今浜)城の城主となるのであった。
その浅井長政とお市の間にはすでに、三女が出来ていた。
政略結婚ではあったが、浅井長政とお市は、熱烈な愛を育んでいたのであった。
お市が生涯を通じて、一番愛したのは、この長政だったのではあるまいか。
落城の際に、お市は、長政とともに、
「死にまする。それが武士の妻の意地でございまする」
と懇願したが、長政は許さず、
「信長殿は、そなたの実の兄、よも、四人に危害を加えたりはいたすまい。信長殿とは武門の信義で、このような結果になってしまったが、市への愛は不滅じゃ。この三人娘たちのためにも生きてくれ」
結果からいうと、この四人の命を救って、落城する城から、救出したのは、他でもない秀吉であった。
奇しき縁(えにし)という他はない。
三人の娘の名を、長女・茶々(淀)、次女・はつ(京極高次の正室。二人の間に誕生するのが鞠姫)、三女・小督(お江とも。徳川秀忠の正室)だったのである。
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