82.「体育祭――放課後」

 午後三時四十分。

 閉会式が終わり、体育祭は幕を閉じた。


 僕はずっと離れず、橘が目を覚ますのを待っているのだがまだ寝ている。

 気持ちよさそう「すぅ~、はぁ~」という可愛らしい寝息を立てて。

 軽く寝返りを打ちながら。

 そんな橘をずっと見ている僕は異常かもしれない。

 でも、橘の寝顔は癒しだ。


 と、その時だった。


「んっ、んぅ……」


 橘は眠たそうな声を出しながら、長いまつ毛を上げ、潤んだ瞳を僕に向ける。

 目を擦り、「ふわぁ~」と大きな欠伸を一つ。


「橘、おはよう」

「お、おはようございます……おはようございます?」

「体調はどうだ?」

「んー、少し体が重いです」


 体は起こし伸びをする橘。

 寝ている間に汗を掻いたのか体操服はビチョビチョ。

 体操服が肌に付き、体のラインがしっかり見える。

 少し……エロい。

 って、何を考えているんだ、僕は!


「それよりここはどこですか?」

「保健室だよ」

「保健室? 何で私が保健室にいるのですか?」

「綱引き中に意識を失って倒れたんだよ。それで僕がここまで運んで寝かしたって感じ」

「はぁ……私、倒れたのですが……重いのに運んでもらいありがとうございます」

「別に感謝されるほどのことじゃないよ」


 お礼は桜木先生に言うべきだ。

 なぜなら、今回は桜木先生の素晴らしい対応により橘は大事にならなかったのだから。

 僕のパニックに対しても冷静に対処してくれた。

 本当に感謝している。


「って、体育祭はどうなりましたか!?」

「丁度さっき終わったよ。今は片付け中だと思う」


 橘はそれを聞き、『やってしまった』みたいような表情をする。

 確かにやってしまっているんだが。

 一応、全競技出ているので特に問題もない。


「それにしても、橘が目を覚ましてくれて良かったよ。何時間も目を覚まさないから心配で心配で仕方なかったぞ!」


 僕はそう言い軽く笑みを浮かべる。

 今は少しでも橘を元気にしたい。

 橘のことだから罪悪感を感じているはずだからな。


「もしかしてずっとここにいたのですか?」

「そらな。友達として当たり前だろ?」


 僕の言葉を聞いて橘の表情は更に暗くなる。

 元気付けようとしているのに何でこうなった。

 正直、分からない。

 いつもなら「楠君……」みたいな感じで、目を輝かせて喜んでくるところなのに。

 どうなっているんだ?


「本当に……ごめんなさい」

「えっ、何で謝るんだよ」

「だって、私のせいで楠君が体育祭を楽しめなかったじゃないですか」


 橘は視線を下に向け、申し訳なさそうにそう呟く。


 はぁ……なるほど。そういことか。

 現在ネガティブ思考なせいで、僕の元気付けもネガティブな方向へ捉えてしまっているようだ。

 橘は単純だからネガティブだとネガティブ思考一直線。

 ポジティブだとポジティブ思考一直線という感じか。

 分かりやすいが厄介だな。


 てかさ、謝るなら僕の元気付けを台無しにしたことの方を謝ってほしいんだけど。

 なーんてな。

 そんなことより今はネガティブな橘をどうにかしないと。


「午前だけでも充分楽しかったぞ?」

「でも、午後は……」


 弱々しい声でそう言う橘。

 完全にネガティブ思考一直線。

 ちょっとのことでポジティブ思考に変わりそうにない。


 少し沈黙が流れた後、僕は「はぁ……」とため息をつく。

 それから一度姿勢を正して橘の顔を見つめながら口を開いた。


「僕は体育祭を楽しいと思えたのは今日が初めてだった」

「え、えっと……」


 橘はその言葉を聞き、顔を上げて戸惑った表情をこちらへ向ける。

 だが、僕はそんな表情には構わず話を続ける。


「それは橘がこの世に存在して橘が僕を救ったからだ。さっきも言ったが、午前だけでも僕にとっては充分幸せ時間だった」

「……」

「だからさ、橘が倒れてしまったから楽しめなかったなんて思ってない」

「でも、午後から保健室にずっといたことは事実で、それで楽しめなかったことも事実です」

「確かにそう捉えればそうかもな」

「ならやっぱり――」

「違う!」


 僕は橘の言葉を遮り、はっきりそう言い切る。

 もうネガティブな話は聞き飽きた。

 それに元気のない、笑顔じゃない橘なんて見ていて悲しすぎる。


 僕は元気で笑顔の橘を見たい。

 午前のような、昼食中のような。いつもの笑顔を。

 今日はいっぱい笑って楽しかったというのに、こんな悲しい表情で終わるなんて絶対に嫌。

 人生で初めて楽しかった体育祭なんだ。

 最後まで楽しくないと笑顔じゃないと終われない。


 少しの沈黙の後、僕はゆっくりと口を開く。


「体育祭が最初から最後まで楽しかった。それは体育祭の思い出として良いものになると思う。けどな、トラブルを起こったり、友達が倒れて傍にいることになった体育祭も間違いなく良い体育祭の思い出なるんだよ!」


 僕は一息入れて続ける。


「今日は色んなことがあったな。二人三脚でハグしたり、借り物競争で注目を浴びたり、橘が気合いを入れて作ってくれたお弁当を食べたり。綱引きで橘が倒れて、体育祭の中、橘の寝顔を見ることになったりもした。僕にとってはその全てが体育祭の良い思い出だ」

「楠君……」

「だから、橘が倒れたことによって僕が楽しくなかったなんて思わないでくれ。良い思い出なんだ、僕にとっては」


 昔の僕には良い思い出なんてなかった。

 それを橘が生んでくれた。

 別に今日だけじゃない。

 出会ってからずっと良い思い出だ。


「やっぱり私を責めないのですね」

「別に責めるところがないだけだ」

「楠君はどこまでも優しいですね。これではダメダメな楠君にダメにされそうです」


 三角座りをして笑みを浮かべながら涙を流す橘。

 必死にそれを体操服の襟で拭いている。


「ダメになればいいさ。完璧なんて求めなくていい。橘は少し肩の力を抜いて、僕に甘えるぐらいでいいと思うぞ」

「ふふっ……確かにそれはいいかもですね」

「だろ?」

「はいっ!」


 橘は潤んだ瞳のままくしゃっとした笑顔を僕に向ける。

 同時に窓から差すオレンジの光が橘を照らした。

 その光景は息を忘れるほど幻想的。

 まるで、橘の笑顔がオレンジの光を放っているよう。

 これぞ体育祭の最後に相応しい最高の笑顔だ。


 ――やっぱり橘は笑顔じゃないとな。

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