60.「謝罪」

 僕は一人教室へ向かう。

 一時間目がもう始まるということで廊下には誰もいない。

 とても静か。

 そんな廊下を僕は下を向きながら地面を擦るように歩く。


「楠君っ!」

「た、橘……」


 目の前から心配そうに走ってきたのは橘。

 僕のもとへ来ると、膝に手をつき息を整える。


「大丈夫か?」

「そ、それはこっちのセリフです!」


 橘は「ふぅ~」と息を吐き、顔をパッとあげる。

 額から汗が流れ出し、それは首元まで濡らしていた。

 夏が近く湿気が凄いこの時期だとしても、この汗の量は異常。

 校内を走り回っていたのだろうか?


「ああ、大丈夫だ。見ての通り怪我はない」

「よ、良かったです……」


 それを聞いてホッとしたのか顔から硬さが薄れる。

 同時に上がっていた肩も下りた。

 本当に心配性だな。


「でも、ごめんなさい」

「えっ?」

「私が傍にいればこんなことには……」

「気にしなくていい。それに心配してくれていたことは分かっている」

「楠君……」


 僕は橘の頭をポンポンと叩きながらそう言う。

 その言葉に対して橘は上目遣いで僕の名を呼んだ。


 まず橘が謝る必要なんて何一つない。

 心配な思いをさせてしまった僕が謝りたいぐらいだ。

 でも、僕が謝っても橘は「楠君は悪くないです」と言うだけ。

 橘はそういう女の子。


 どこまでも僕に優しくて。

 どこまでも僕に甘くて。

 何があっても僕を本気で悪くは言わない。

 逆に自分を責めてしまう女の子。

 僕の謝罪は逆に橘を苦しめることになる。

 だから、謝罪の言葉を僕は心に留めた。


「それよりも教室に戻ろうか」

「はい」


 僕の言葉で僕たちは横に並び教室へ。


「それで楠君はどうやって逃げて来たのですか?」

「桜木先生が助けに来てくれたよ」

「わ、私より早く楠君を見つけるとは……」


 橘は悔しそうに『むぅ~』という表情をしている。

 争うところじゃないんだけどな。

 それにもし橘が来ていた場合、間違いなく大怪我していたはずだからな。

 先に桜木先生が来てくれて良かったと思う。


「助かったんだからいいだろ?」

「まぁいいことにします。そう言えば桜木先生はどうしたのですか?」

「あの四人をどうにかしているよ」

「教師も大変ですね」

「本当にな」


 そんな雑談をしていたら教室に到着。

 橘が扉を開け、教室の中へ。

 その瞬間、一気に視線がこちらに来る。

 しかも、その視線はいつもとは違う。

 なんか、なんか……違う。

 気持ち悪いような、否、何とも言えない視線。


「では、私は席に戻りますね」

「ああ」


 僕は橘と別れ、自分の席へ。

 視線は僕の方に集中している。

 それに気付き、僕は思わず下を向く。


「く、楠……」


 そんな声が前から聞こえ、顔をあげるとそこにはあのホッケー部の女子がいた。

 パッと見る限り怪我はないように見える。

 それを確認し心の中で「良かった」と思いながら口を開く。


「さっきはありがとうな」

「あ、うん」

「じゃあ、僕は席に――」

「待ってっ!」


 僕の言葉を遮り、叫ぶようにそう言うホッケー部の女子。

 その叫びに自然と足が止まり、僕はホッケー部の女子が喉まで出かかっている言葉を待つ。


「……ごめ、ごめんなさい。今まで本当にごめんなさい!」


 スカートを強く握り、深々と頭を下げる。

 その姿に僕は一瞬目を疑ったが、心から反省していることを感じた。

 それにさっき助けようとしてくれたしな。

 だから、いや、だからというわけでもないが、別に橘の時のように責めようとは思わなかった。

 今だからそう思えたのだと思う。

 橘との一件がなければ、今頃大泣きするまで攻め立てていたことだろう。


「うん、もういい。それよりホッケー部の部長に感謝しておけよ」

「え、あ、うん」


 恐らく彼女があのホッケー部の部員。

 僕を助けたということは、どこかで虐めることに抵抗を感じていたはずだ。

 根は良い奴なんだと思う。

 ただ自分が虐められたくないから虐めていたのだろう。

 そんな奴はこの世にたくさんいる。

 人間として当然の行動だ。


「私もごめん」

「オレも悪かった」

「うちもごめんなさい」

「見ていることしかできなかった。ごめんなさい!」


 彼女が謝ったことによって、連鎖するようにクラスメイトが次々と謝り出す。

 虐めていた奴から虐めを見ていた奴まで。

 僕はそれに戸惑い、違和感を感じた。


 僕には分からない。

 分からない、分からない、分からない。

 何で無理して謝るのか。

 謝った生徒の半分以上がその場のノリ。

 それに僕は……


 ――吐き気を感じた。


「あ、うん。もう大丈夫。だから、気にしないでくれ」


 みんなに向かってそう言ったものの心ではそう思えなかった。

 僕は人の心を読み取るのが得意だ。

 そのせいで表情や態度で分かってしまう。

 口先だけの謝罪だということに。

 罪悪感を微塵も感じていないということに。


 それが僕にとっては耐えきれなかった。

 気持ち悪くて、意味が分からなくて。

 体中の細胞が吐き気を覚えた。


 もう我慢の限界。

 僕はクラスメイトの視線から避けるように教室を出る。


「楠君っ!?」


 橘の呼ぶ声がした。

 けど、今は無視せざるを得なかった。

 止まれば吐く。そう思ったから。

 そんな僕は口を両手で抑えながら小走りでトイレへ向かった。

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