18.「過去」

 橘は紅茶で喉を潤し、こちらを見て口を開く。


「私の産まれた家はいわゆるお金持ちの家でした。

 父が有名企業の社長、母は看護師。

 そして私には二歳年上の姉がいます。

 勉強、運動、容姿、全て完璧な姉です。

 私はそんなエリート家族の次女でした」


 いつもの平然とした顔はどこに行ったのやら。

 今の橘は真剣も真剣。

 声音も口調まで違い、僕はそれに思わず息を呑む。

 謎の緊張感。

 まだ家族についてしか話していないのに、鳥肌が止まらない。


「でも、私だけがエリートとは言えない人間だったので家族からは除け者にされ、私の傍にいてくれたのはいつもメイドさんだけ。そのメイドさんだけが唯一私が心を許す存在でした。

 彼女には多くのことを学びました。

 今、私が勉学、美容、ファッション、家事を難なくこなせるのは彼女の指導の賜物です。

 本当に感謝してます」


 息を一度整える橘。


 お金持ちとは言っていたが、まさかメイドまでいたとはな。

 で、そのメイドが唯一心を許していた存在か。

 表面上は良い家庭であり、本当は最悪な家庭だ。

 しかし、今の橘を育てたのがメイドという存在だったのは驚きだ。

 僕の中の橘は最初から完璧人間。

 家族から除け者にされるほどのダメな奴だったとは想像もつかない。

 

 ――橘も色々と大変だったんだな。


「ですが、そんな唯一心を許していたメイドさんと離れることになりました。理由は小学校卒業と同時に私は親から家を出るようにと言われたからです」

「な、何で?」


 僕の口が勝手に動き、橘にそう問う。

 その問いに橘は苦笑交じりでこう答えた。


「そんなの私がその家族に相応しくなかったからです。つまり、私が家族の中にいると、家族の名を下げることになる。だから、家族は私を邪魔に思っていた。

 というわけで、中学に上がるタイミングで家を追い出されました。

 で、このマンションに住み始めたのです」


 橘はそのまま言葉を続ける。


「追い出されたと言っても、まだ子供の私はお金を稼げません。なので、毎月一千万円が通帳に振り込まれています。ここのマンション代や水道代なども親が払ってくれています。ですが、それも高校卒業までらしいですけどね」


 全てを言い終わったのか紅茶を一口。

 それから「ふぅ~」とホッとしたようなため息をついた。


 今の話を聞いて橘のお金の出所がやっと分かった。

 毎月一千万円。

 中学一年生から今までを計算すると貯金は約五億円。

 そら僕に対して簡単に百五十万円も使うわけだ。


 まぁでも、けして橘が幸せな生活を送ってきたわけではないだろう。

 お金があれば幸せになれると思っていた僕がバカバカしい。

 母の存在がどれだけ僕に大きな心の支えになっていた今更気付いた。


 橘は中学一年生の時から一人でこの家に住んで、学校に通い、友達も出来ずに毎日を過ごしてきた。

 それは寂しく、辛く、悲しい日々だったに違いない。

 家事も一人でこなす必要もあり、身体面と精神面に相当な負荷がかかっていたことは想像しなくても分かる。


 そして橘の『もう私を一人にしないでくださいっ!』の意味。

 話の中で一言も直接的に言うことはなかったが、恐らくメイドと離れたことだろう。

 橘が過去に唯一心を許していたのはメイドだけ。

 そのメイドと強制的に離れ離れになってしまったのだ。

 しかも、中学生というまだ子供の中の子供という時期に。

 その記憶は深く深く残っているに違いない。

 だから、橘は僕を失いたくはなかった。

 なぜなら、やっと見つけた二人目の心を許せる存在だったのだから。


「全て理解したよ。でも、橘の過去に対して可哀想だとは思わない」

「……」


 その言葉に目を丸くして、こちらを見つめる橘。

 僕から「よく今まで頑張った」とでも言われると思っていたのだろう。

 だが、僕はそんなことを言うつもりはない。

 だって、そう思っていないのだから。


「僕の過去だって地獄のようなものだったからな」

「は、はい……そうですね」

「まぁでも、そんな地獄はもう終わった」

「えっ?」

「だって、今の僕には橘いて、今の橘には僕がいるだろ?」

「く、楠君……」

「だから、もう地獄じゃない。それに僕は今朝の橘の言葉で橘を信用し、一人にしないと決めた」


 そう、決めたんだ。

 僕は橘を一人にしないと。

 二度も橘に命を救われたんだ。

 もうこの命は橘のために使うべきだろう。


「私も楠君を一人にしません! ずっと養います!」

「お、おう。頼むわ」


 そこは「ずっと友達でいます」とかじゃないのか?

 一瞬、反応に困ったわ。

 まぁどうせ今の僕は橘に養われないと生きていけない。

 大人になって稼げるようになるまでは、この言葉に甘えさせてもらうか。


「では、早速! この記念日にキスでもしましょ!」

「は?」


 キス? 何でキス?

 まず何の記念日なんだ?

 僕が橘を信用した記念日?

 僕が橘に本格的な養いを受けることを決めた記念日?

 一体、何が記念日なんだ!


「ほら、楠君! 立ってください!」


 僕は椅子から引っ張られ、無理矢理立ち上がらされる。

 それから橘が僕に顔を近付け、瞼をゆっくりと閉じた。


 こいつ本気なのか?

 待て待て、僕のファーストキスだぞ?

 こんな形でいいのか?

 いや、良く無い!


 橘のキス顔を目の前にして少し顔が熱くなったが、深呼吸をして橘の頭をチョップ。


「あ、いたっ! 何するのですか!?」

「それはこっちのセリフだ。ただの友達はキスなどしない」

「ただの友達ではないです。もう親友って奴です」

「親友でもキスはしない。てか、そう簡単に男に唇を奪わそうとするな」

「私がキスを求めるのは楠君だけですよ?」


 平然と上目遣いでそう言ってくる橘。

 僕はそれに思わず息を呑み、二歩下がる。

 こういうことを自然と言うから質が悪い。

 僕の心はこういうことに慣れていないんだ。

 まぁでも、これから嫌でも慣れていくだろうけど。


「はぁ……そうか。でもな、僕の唇はそう安くないんだ!」

「では、何円でしょうか?」

「そういう安いじゃない! 全く、橘はまず友達の距離感を覚えるべきだ」

「どうやって覚えましょう?」

「僕がいるだろ?」

「あ、そうでした! じゃあこれからよろしくお願いしますね、楠君!」


 橘は満面の笑みでそう言い、手を握ってくる。

 そういうところだぞ、橘。

 これから友達の距離感を勉強しような。


 そう心の中で言いながら、僕は苦笑いでその場を流した。

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