4.涙は出なかった。嗚咽も出なかった
お‐えつ【嗚咽】
むせび泣くこと。すすり泣くこと。「―が漏れる」
「広辞苑」(第六版)より抜粋
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「元帥。幕僚長がお呼びです」
イヴと同じ顔をした大佐が気を付けの姿勢のまま、敬礼をしていた。むろん、幕僚長とはイヴのことだ。慎也は自分が元帥などと呼ばれることには不服であったが、指揮系統を明確化するという意味から軍隊式の階級制度を導入することは、ある意味合理的と言わざるを得ないことは承知していた。軍隊式ではなく会社組織でも良かったのに、と思ったが、自分が社長とか会長とか呼ばれると思うとゾッとしたし、イヴが専務とか常務と呼ばれている姿も、何だかピンと来なかった。結局、肩書なんてどうでも良いという結論に到達するのが判っているのに、元帥と呼ばれる度に、同じ疑問を蒸し返していた。イヴが自分のことをお父さんと呼んでくれる時だけは、慎也は自分自身に戻れるような気がした。
釣り竿を跳ね上げて、玉川上水に垂れていた糸を回収すると、慎也はそれをクルクルと回して竿に巻き付けた。そしてそれを、次に来た時の為に、近くの桜の樹の根元に隠すと、大佐に向かって言った。
「よろしい。連れて行ってくれたまえ」
「お父さん」
部屋に入るとイヴが抱き着いて来た。その頭を優しくなでながら、慎也は言った。
「いつ戻ったんだい? 西部戦線に視察に行っていたはずでは?」
「ついさっきよ。どうしてもお父さんとお話がしたくて」
二人は久しぶりの再会を確かめ合うように、そのままの姿勢で、暫くじっとしていた。かつては父と娘であったが、今では祖父と孫の様だ。イヴの外見は、宝石の輝きの様に全く変わらないのに、慎也だけが老いてゆくからだ。それから慎也は聞いた。
「あっちの方はどうだった?」
「九州ではまだ、解放に手こずりそうな街が幾つか残っているの。一進一退という状況ね。でも北部の主要都市を制圧してあるから、そこを拠点に少しずつ南下が始まっているわ」
九州という単語を聞いて、そこから遠征した朝鮮半島に思い至った慎也は、続けて聞いた。彼は、最初の海外派兵地としては、台湾やフィリピンなどの親日国が適当だとの意見であった。朝鮮半島や中国は反日国家であったことから、派兵することに関し、若干ながら懸念を持っていたのだ。しかしイヴはその懸念に対し、最も近いからという理由と、そんな昔のことを引きずっているはずは無いという観測から、朝鮮半島への進行を決め、手痛いしっぺ返しを食らったのだ。慎也の悪い予感が的中した形であった。
「海外の方は、どんな様子だい?」
「北と南は順調よ。現地の友好的な市民が、私たちのサポートをしてくれるの」
その答えは暗に、父の忠告を聞き入れず、己の判断に従った自分の愚かさを非難しているのであった。そんなイヴの様子に気付く素振りも見せず、慎也は続けた。
「そりゃぁ良かった。でも、話なら通信回線で出来るだろうに?」
「えぇ、お父さんの助言が必要なわけではなくて、同席して欲しい案件が有るの」
「同席だって?」
都心部に向かうヘリの中でイヴが状況を説明した。武装ヘリBK117 A1のローターが上げる暴力的な騒音にかき消されない様、二人は声を張り上げていた。
「北海道で展開中の北方部隊が、戦闘の際に魔物の捕獲に成功したの!」
「捕獲だって? 生きたままかい?」
「そう。その生体を市ヶ谷の駐屯地にまで輸送してあるわ」
「ほう! そりゃスゴイ。生体を確保したのは初めてだったよね?」
「えぇ。過去に死体の確保は有ったけど、生体は初めてよ」
ここまで魔物を追い詰めていたのに、その捕獲にまで至っていないのには理由が有った。それは、奴らには自分の命を絶つという、特殊な習性が備わっていたからだ。奴らは捕獲されそうになると、自分の舌を噛み切るという昔ながらの方法を用いて、生きながらの捕獲を避けるという、不思議とも異常とも言える生態を持っていた。これにより、ヒューマノイド軍の手に落ちるのは全て死体のみとなり、その生態学的な研究を阻んでいた。結果的に得られる、魔物の死体の解剖結果から、その内部器官は人間のそれと殆ど同じであることが確認されている。そういった視点から、彼らには、ある程度知的な行動が可能であるという予測は、なんら的外れではなかったし、開戦当時からささやかれていたことでもあった。
「お父さんには、その魔物に会って欲しいの」
「まだよく判らんね。その魔物の生態調査に立ち会えってことかい? それは私の専門じゃないことは判っているだろ? にも関わらず、そいつに会えってのは・・・ ちょっと待て。会うだって? 『見る』じゃなく『会う』って言ったのかい?」
「えぇ、そうよ。会って欲しいの」
慎也は次の言葉を待った。
「それは、私たちと同じ言語を話すのよ」
それを聞いた慎也の目が大きく見開かれた時、ヘリの姿勢が大きく崩れた。
それは、新宿副都心に差し掛かった時のことであった。ヘリが超高層ビルの屋上をかすめて通過しようとした瞬間、屋上の空調室外機の陰に潜んでいた魔物が一体、凄まじい勢いで宙に身を投げた。そして魔物は、その巨大な手でヘリの脚を掴んだのであった。ライカミング LTS101-650B-1エンジンを2基搭載するBK117とは言え、その最大離陸重量は2,850kgしかない。体重3tもある巨体が、一気に右脚に加わったヘリは姿勢を崩し、コントロールを失った。その姿勢を立て直す暇が与えられることも無く、ヘリは超高層ビル群の谷間に、木の葉の様に墜落していった。
イヴたちの乗るヘリは街路樹に突っ込み、その前部を大破させた。しかし、その枝のクッションのお陰で位置エネルギーの大部分が吸収され、致命的な墜落から乗組員を守ったのは幸運であった。ひしゃげた機体の下からは、ラジエターが噴出する湯気が吐き出され、パイロットは戦闘不能な損傷を受けていた。イヴは白く煙る機内でその顔を上げ、即座に被害状況の確認を開始した。彼女自身はシートベルトのおかげで大きな損傷を回避したが、不運にも慎也の座っていた席のシートベルトには、何らかの不具合が有ったことを、その時初めて気付くこととなった。更に悪いことに、慎也の体はサイドシールドを突き破り、墜落現場の左前方5メートル程の所に投げ出されていた。
ヘリを墜落させた魔物も無事では済まなかったが、それでもなお死に体で無抵抗の慎也に躍りかかり、彼の胸部を左手で鷲掴みにしたかと思うと、その五本の指を心臓にめり込ませた。投げ出された衝撃で意識を失っていた慎也は、何者が自分の命を断ったのかを知ることも無く、その心臓を握りつぶされた。イヴにはそれを止めるだけの時間は与えられていなかった。彼女は即座に理解した。慎也が殺されたことを。
衝突の衝撃で変形したドアは、イヴの意思に反して開こうとはしなかった。彼女は体制を入れ替え、左足でドアを内部から蹴り、なかば破壊するような形で機外に出ると、取って返してパイロットが携帯していたコルトM4A1カービンを手に取った。そして、そのまま魔物に向き直ると、引き金を引いた。
「うぉぉぉぉぉぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーっ!」
イヴは引き金を引き続けた。数十発ものRIP弾を食らった魔物の体は、弾がのめり込む度にガクガクと揺れた。魔物の左上腕から先は吹き飛んだ。右足から下は切断され、体はその場に崩れ落ちた。それでもなお、その目は狂犬の様にイヴを見据えていたが、その頭部も銃弾の雨を受けてその半分が千切れ飛び、殆どその原形を留めてはいなくなった。全ての弾を打ち尽くすと、更にマガジンを入れ替え、彼女は再び引き金を引いた。
「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーっ!」
二つ目のマガジンが空になる頃には、魔物は得体の知れない肉の塊となっていた。弾切れとなったM4A1の銃身がカチンという音でそれを告げると、イヴはそれを投げ捨て、今度は腰のホルスターからベレッタM92を引き抜き、肉の塊に向かって一歩一歩近づきながら、また撃ち始めた。プスリ、プスリと弾は突き刺さった。足元にぶちまけられた醜悪な肉塊に向かって最後の一発を撃ち込むと、やっと辺りに静寂が訪れた。硝煙が辺りを埋め尽くしていた。イヴはなおも銃口を肉塊に向けて引き金を引いていた。イヴと肉塊の間には、事切れた慎也が横たわっていた。
慎也の生命活動が停止していることは明白であった。一度失われた有機生命体の命は、二度と戻らないことも知っていた。涙は出なかった。嗚咽も出なかった。イヴには、悲しいという心情を理解する為の情報は記録されていたが、それを表現する手段を習得してはいなかったのだ。彼女にとって涙とは、その頭部に組み込まれた眼球と呼ばれる一対の光学センサの摺動を円滑に行うための潤滑剤であり、光学センサが有する石英ガラス製のレンズ表面を、細かな傷から守る保護膜の供給源でしかなかった。イヴは慎也の頭部を抱き上げ、その拡張し切った瞳孔を見つめた。口から血糊を吐いた跡の残る顔を、いつまでも愛おしそうに撫で続けた。
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