3.その姿は未来であり、希望であった

き‐ぼう【希望】

①ある事を成就させようとねがい望むこと。また、その事柄。のぞみ。「進学を―する」

②将来によいことを期待する気持。「―に燃える」「夢も―もない」


「広辞苑」(第六版)より抜粋

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 長閑な田園地帯であった。いや、正確には、かつては田園であった痕跡を残す、平坦な荒れ地であった。本来であれば、ここには水がたたえられ、暖かな泥を踏みながらのんびりと歩を進める水牛とそれを牽く農民の姿や、水田に規則正しく植え付けられた稲などが見られたはずである。春には、まだ背の丈の低い稲を透かして水面に映る近隣の山々が、秋になれば、たわわに実った稲穂が金色に輝く絨毯となって、見る者の目を慰めてくれたことであろう。そうして収穫された農作物は、この地に息づく人々の腹を満たしていたに違いない。決して「裕福」な地域とは言えなかったが、きっとそこは「豊か」であったと思わせた。しかし、人類が文明水準の維持を放棄してから過ぎ去った180年は、その心象風景を荒んだ姿へと変えてしまった。もちろんそこには、小動物や昆虫などの息吹が根付いてはいたが、人の営みを感じさせる要素は何一つ見出すことが出来なかった。


 スマはそういった荒れ地を歩いていた。その足元は裸足で、あちこちに既に塞がった傷跡がいくつも残っていた。着ている物は衣服とは言えず、胸の周りに布を巻き付けただけだ。布は左肩で無造作に結ばれ、右肩は剥き出しのまま露になっていた。かがむ度に開く布の合わせ目からは、褐色の腰や太腿が覗いた。下着と呼べるような物は、何も身に付けてはいなかった。そして、その背中には、生まれて間もない赤ん坊を背負っていた。

 こうして出歩くことは魔物との遭遇を招きかねず、決して好ましい行動とは言えなかったが、食料の調達は生きる上で避けては通れない。彼女が必要な滋養を付けられなければ母乳の出も悪く、背中ですやすやと眠る娘にも充分な滋養を与えることが出来ない。彼女が冒す危険は、子供の命を繋ぐ生命線とも言えた。その子の父親は、今の彼女がそうしているように、食料を求めて野山に出たきり二度と戻らなかった。それ以来、この仕事を完遂出来るのはスマだけとなっていた。そんな事情は知らずに母親の背中で眠る赤ん坊は、疑いも、不信も、嫌悪も知らず、虚栄とも、作為とも、絶望とも隔絶された世界に身を置き、世界中の祝福を一身に集めることに何の躊躇も感じることは無い様に見えた。その姿は未来であり、希望であった。真っ新であること、無垢であること、それ自体がそのまま可能性であった。だがスマには、それを感じる余裕は無かった。

 彼女は地面に穿かれた小さな穴を見付けた。それはおそらく、野ネズミの巣と思われた。スマは左手に持った枝を右手に持ち替えると、その穴の入口を広げ始めた。穴周辺には糞と思しき物が散乱している。間違いなく獲物は、この中にいる。そう確信したスマは穴を掘る腕に力を込めた。しかし、掘れば掘るほど、獲物は奥へ奥へと逃げて行った。それでも諦めることなく掘り続け、ついに巣穴の一番奥にまで獲物を追い込んだ。崩れかけた巣穴から獲物の尻尾が見える。やはり野ネズミだ。スマは枝を放り投げると、ガッシリとその尻尾を掴んだ。野ネズミは袋小路に居て、それ以上先に行けるわけでもないのに、引っ張り出そうとするスマの力には全力で抗った。右手で尻尾を掴み、左手で土をどけると、遂に野ネズミの尻が現れた。スマは思い切って、左手でその尻を掴んだ。だが、その作戦は賢明とは言えなかった。「窮鼠猫を噛む」というやつだ。尻を掴まれた野ネズミは戦術を変え、一転してスマに立ち向かって来た。体を翻した野ネズミは、その強力な齧歯で彼女の指に痛烈な一噛みを加えた。予期せぬ野ネズミの捨て身の反撃と、左手人差し指に走る激痛でスマが怯んだ一瞬を逃さず、野ネズミは彼方へと走り去ってしまった。

 後にはスマたちだけが残された。噛まれた指は傷んだが、それよりも一瞬掴んだ野ネズミの尻の感触が左手に残っていた。それは犬や猫、あるいは背中で眠る我が子と同じ、暖かな体温を持つ哺乳類としての感触だったのか、それとも貴重なタンパク源になる筈だった食料としての感触だったのか、スマには判らなかった。ただ、その生々しい感触だけが、いつまでも指先を離れようとしなかった。その時、彼女の聴覚が微かな音を捕らえた。彼女は顔を上げ、それが聞こえる方向に視線を向けた。森の向こうから、何かが近づいて来るようだ。


 マレーシアを迂回し、ベンガル湾からの海路経由で上陸した機甲大隊は、インドシナ半島を横断してきた歩兵師団と合流し、一部は西へ、一部は北へとその勢力を展開しつつあった。北はヒマラヤ山脈に遮られるまでの内陸部を、西は海岸線を伝ってインドへと続く。プラスコーヴィヤはバングラデシュを横断する部隊、機甲第4中隊に所属する10式戦車の砲台上部に据え付けられたハッチの縁に腰かけて、周りを見渡していた。その砲台側面には小さな星がいくつも書き込まれている。その戦車が葬ってきた魔物の数を表す「戦果」であった。もしここが手入れの行き届いた水田であったならば、それを戦車のキャタピラで踏み付けにする行為は、プラスコーヴィヤに罪悪感をもたらすことであったろう。だが今は膝上ほどの下草に覆い尽された荒野である。機甲中隊は、後続の歩兵部隊に先んじて、目標進路に従って真っすぐ進軍していた。彼女の車両は、中隊の一番左翼側を走行していた。


 「サツキ、スピードを落とせ」

 その戦車のドライバーであるサツキは、戦車長であるプラスコーヴィヤからの指示が来る前に、既にその速度を落としていた。サツキにもそれは見えていたのだ。サツキは答えた。

 「民間人です」

 速度を落とした戦車はギシリと音を立て、若干のピッチングを見せて停止した。そしてサツキは10式の90度V型8気筒4サイクル水冷ディーゼルエンジンを止めた。同部隊の他の戦車は、彼女たちを置き去りにして通り過ぎて行った。暫くは、戦車たちが巻き上げる砂塵で辺りが煙っていたが、南国の熱い風に煽られ、それは徐々に薄れて行った。戦車たちの排気音も、それに合わせて遠のいていった。それから風の音が聞こえた。

 プラスコーヴィヤは、砲台の上からその民間人を見下ろした。民間人はジッと彼女を見上げていた。スマであった。

 二人は暫くの間見つめ合っていたが、プラスコーヴィヤは背中の赤ん坊に気付くと、フッとその表情を笑顔に変えた。それでもスマの表情に変化は訪れず、険しい目の無表情を崩すことは無かった。

 「食料は有ったか、サツキ?」

 「左後部のツールボックスの中に、若干残ってると思います」

 ヒューマノイドに食事は不要だが、民間人との接触の際に必要となる場合を想定し、幾らかの食料を携帯することが多い。プラスコーヴィヤは砲台から降りると、そのボックスを開いた。中には、ビスケットタイプのCレーションと、凍結乾燥させた野菜類、更に、お湯を加えるだけのスープ類が残っていた。彼女はそれらを両手で抱えられるだけ抱えると、スマの方に歩いて行った。そして彼女にそれらを手渡しながら聞いた。

 「可愛い子ね。なんていう名前?」

 「আশা」

 「そう・・・ 良い名前ね」

 それだけ言うと、彼女はステップを駆け上がり、サッと砲台に戻った。そしてスマに片手を振ると、サツキに命令した。

 「エンジン始動。部隊を追うわよ」

 「アイアイサー」

 サツキのおどけた声と同時に、再び電子制御式ユニットインジェクタのエンジンが唸りを上げた。先行した仲間に追い付くべく発進すると直ぐに、可変ノズル排気ターボ過給装置が仕事を始め、最大出力である1,200psを絞り出してスピードを上げた。後には、ディーゼルエンジンが噴き出す黒煙と、キャタピラが巻き上げる砂塵だけが残された。そのキャタピラが穿つ轍はアジアの大地に深く刻まれ、スマの知らない遥か遠くの地へと続いてゆくことだろう。スマは今後、その地を訪れることが有るのだろうか? 彼女はプラスコーヴィヤたちの後姿を暫く見送っていたが、貰った食料をその “衣服” にくるむと、そそくさと家路に就いた。一度も振り返ることは無かった。


 サツキが聞いた。

 「あの赤ちゃん、なんていう名前だったんです?」

 「আশাだって」

 「私はベンガル語の会話エンジンは実装してないんですよ。どういう意味ですか、それ?」

 「希望・・・ かな」

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