4.イヴは眠らなかった

イヴ【Eve】

⇒エバ

①祭の前夜のこと。あるいは前夜に行われる祭のこと。

②旧約聖書では、アダムの肋骨から造られたとされる人類最初の女性。


「広辞苑」(第六版)他より抜粋

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 欠伸をしながら休憩室を出た慎也を、イヴが迎えた。迎えたと言っても、机の上にチョコンと座った彼女が、首を回して彼の方を見ているだけであるが。彼女の人工知能には、必要最低限のコミュニケーション手段、つまり簡単な会話を司る言語野以外には、まだ何の情報も格納されていない。現時点の彼女は、まだ歩くことすら出来ない赤子の様な存在だ。慎也が彼女の内部に実装したコードには、この様な日常生活を送る上で必要不可欠な手順や手法、手段は何一つ記述されてはおらず、それは彼女自身が実際に経験し、どの様に手足を動かして、どの様に体重移動をすれば歩けるのかを、自らが学んで習得してゆくからだ。つまりそれが人工知能たる所以であり、慎也はその脳の “機能” を植え付けたに過ぎない。従い、これからどのような経験を経て行くかによって、言い換えれば、今後の学習内容によって彼女の個性が形作られることになる。つまり、身体能力の高度化を促す経験を積めばアスリートの様にもなれるし、知識の吸収に努めれば学者の様にもなれる。あるいはリーダー的素養の発達がなされれば、指導者としての資質を持つことになる。もちろん、犯罪行為を植え付ければ、凶悪犯にも成り得るし、何も教え込まなければ、いつまで経っても子供のままだ。そんなイヴが自らの意思を持って慎也を見つめた時、彼は打ち震えるような感動を覚えた。それはきっと、初めて我が子に対面した父親のそれと同じだったのであろう。


 慎也は娘を育てるように、イヴを育てた。彼女は慎也のことを「お父さん」と呼び、不思議な共同生活が始まった。日常生活の諸々や人間のこと、魔物のこと。世界のことや、過去のこと、特に科学技術の知識に関しては、暇を見ては色々な書籍を集めてきては彼女に読ませるようにした。時折、玉川上水に連れ出しては、釣れもしない釣りを教えて会話も重ねた。それらを吸収しながら、彼女は着実に成長していった。ただしその外見に変化は全く無く、最初のコードを実装した時のままであったが。


 慎也はイヴと手を繋いで眠る時、今度こそ、妹を作ってあげようと考えながら眠りに就いた。そんな時でもイヴは眠らなかった。眠る必要は無かった。慎也と手を繋ぎながら、眼球部に内蔵された暗視カメラに映る慎也の横顔を、彼女は朝が来るまでじっと見つめていた。

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