2.ありとあらゆる物が眠る墓標の群れ
ぼ‐ひょう【墓標・墓表】
墓のしるしに立てる、木や石。はかじるし。
「広辞苑」(第六版)より抜粋
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翌朝、目を覚ますと、彼の耳に賑やかな鳥の声が飛び込んで来た。壁に寄りかかって寝たはずだが、いつの間にか床の上に横になっていた。雀かな、と半ば眠りに引き摺られながら、その可愛らしい歌声から判断した。天井のあちこちに備え付けられている明り取りの小窓からは、幾筋もの光の束が、薄暗い部屋に差し込んでいた。家に帰ったら、また雀採りの罠を仕掛けようと想いながら上体を起こし、そして大きな伸びをした。その瞬間、大勢の目がこちらを見つめていることに気が付いた。
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昨日の朝、慎也は食料の調達に出ていた。時は西暦2080年頃(今となっては、正確な年月日が判る者など存在していなかった)、場所は東京郊外の小平市。およそ30年前に勃発した魔物との戦争に敗れた人類は、この極東の国、日本においても細々と生きながらえていた。あの当時、慎也は都内のAI関係の企業に勤めるプログラム開発者であった。大学を卒業して間もない彼は、将来の自分を想像するのが好きであった。仕事には自信が有った。人付き合いが苦手な彼は、おそらく出世することは無いであろうが、ひょっとしたら世界を変えるような技術開発に成功するのではないかと、ボンヤリと夢想したものである。ところが現実は過酷であった。「あれ」が始まると、会社どころか社会が崩壊し、人々は生存するためだけに、日々生きることを強いられた。生き残ることだけが、唯一価値の有ることになった。そんな生活を、もう30年も続けているのであった。
そんな折、慎也は近くを流れる玉川上水に釣りに行ったのだ。その辺は全て釣り尽されており、今更何が釣れるわけではないことは判っていたが、それでも生きる為のあがきをしないわけにはいかなかった。釣りの手ほどきは父から受けた。年齢を考えれば、田舎の両親はきっと既に他界しているだろう。今思えば、魔物との戦いに人類が破れる前に、両親の待つ田舎に帰るべきであったが、慎也は人類が敗北する姿など、夢にも想い描いていなかったのだ。戦後の復興を期待して東京に留まり、結局は帰ることが出来なくなってしまった。両親の安否を確認することも、こちらの近況を報告することも出来ず、家族は離れ離れになったまま消滅しようとしていた。慎也が家族を持たなかったため、この血筋は彼の代で潰えることが確定していた。彼はもう五十代となっていた。今更家庭を持つことなど不可能であったし、それに如何ほどの価値が有るのかも判らなかった。
「オヤジに習った釣りが、こんな所で役立つとはなぁ・・・」
慎也はぼんやりと、そんなことを考えながら釣り糸を垂れたが、魚がその竿をしならせることは無かった。ザリガニすらも、タニシすらも、その釣り針に掛かることは無かった。
その時、何かの気配を感じた慎也が振り返ると、背後の家の角から魔物が躍り出た。釣竿を放り出し、慎也は即座に走り出した。魔物も彼を追った。慎也の判断は素早かったが、彼が自分の年齢を痛感するのに、それほど長い時間は必要なかった。栄養状態だって良くはない。自分の体力を考えれば、遅かれ早かれ魔物の手に落ちてしまうことは自明であると判断した慎也は、とにかく入り組んだ住宅街をジグザグに走り抜けた。魔物には驚くべきスタミナが有るが、その図体の大きさから敏捷な動きには着いて来られないことを知っていた。
手入れの行き届かなくなった家々の合間を走り、身を隠す場所を探した。その家々の中には、息を潜めて隠れ住んでいる人が居るかもしれないが、それを確認している暇はないし、今の状態の慎也を助けてくれるとは到底思えない。慎也は短期決戦を覚悟し、全速力で走り続けた。後ろを振り返っている余裕は無い。地面を揺るがすような、奴の足音の遠さから判断し、そろそろ頃合いかと思った時、その工場らしき建物が目に入った。彼は、その窓の一つに飛び込んだ。慎也がそこに身を隠している間も、奴の重々しい足音が暫く聞こえていたが、いつの間にかそれは聞こえなくなっていった。おそらく諦めて、地中にでも潜ったのであろう。慎也は物音を立てない様に部屋の隅に移動すると、壁に背中を預けて目を閉じた。
彼が飛び込んだのは、打ち捨てられた工場の様な建物であった。その入口ではボロボロになった看板が朽ちつつあったが、辛うじてその文字を読むことは可能であった。TSUBASA ENGINEERINGと読めた。建屋は部分的に崩壊を始めていた。敷地内には下草が伸び、それは人の背丈にも届く勢いで茂っていた。長年の風雨に晒された窓ガラスは、ただの一枚もその原形を留めてはおらず、擦り切れたカーテンが、まるで手招きするかのように風に揺れ、いくつかの窓を寂しく装飾していた。
薄暗い建物の中は、荒れた状態のまま放置されていた。机や椅子は乱雑に位置し、キャビネットは荒らされていた。何者かが侵入し、内部を物色したのかもしれない。部屋の隅の観葉植物は、水分補給を断たれて久しいのであろう、茶色い繊維状の物質を、その鉢にこびり付かせるだけであった。壁にかけられた額は、斜めになったまま辛うじてぶら下がっていたが、そこに書かれている社是「最高品質こそが社会を救う」は、ただ虚しさを強調する効果しかもたらしてはいなかった。
更に奥へ進むと、だだっ広い一室に出た。その部屋に窓は無く、天井に数か所の明り取りの小窓が有るだけであった。その数少ない貴重な窓からも、室内を照らし出すだけの明かりは差し込まなかった。むしろそこから差し込んでいたのは闇だったのかもしれない。既に夕暮れが近づいていた。何か機械部品の組み立て工場と思われたが、何を組み立てていたのか、それを確認できるほどの明るさは無かった。とにかく、そこに居れば取り敢えずは安全だろうと判断し、彼はそこで一夜を過ごすことに決めたのであった。数分後、静まり返った部屋に、慎也の微かな寝息が聞こえ出した。
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翌朝、大勢の目に見すくめられた慎也は、その光景に足のすくむ思いであった。それは異様とも言えたし、美しいとも言えた。恐怖を覚えなかったと言えば嘘になるが、神々しいとさえ思えた。そこには、50人程の全裸の少女達が、碁盤の目の様に規則正しく等間隔に、しかも其々がチョコンと正座をして全てがこちらを向いていた。どの顔にも表情は無かったが、風の凪いだ内海の様な平穏で穏やかな無表情であった。歳の頃なら10歳くらい。それらは美少女と言えたが、全員が全く同じ顔をしていた。彼女たちの姿はまるで、人類が築き上げてきた文明に内包される数々の英知の結晶、例えば自然科学や工業や医療、哲学や文学や芸術、美徳や道徳や教育、貨幣や流通や経済、あるいは宗教やイデオロギーや国際紛争すらも含めた、ありとあらゆる人知の功績やら愚行やら蛮行やらが眠る墓標の群れに思えた。人類が失った物の全てが、そこには有るようであった。
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