第一幕

1.文明が崩壊する以前

ぶん‐めい【文明】

①文教が進んで人知の明らかなこと。「―の世」

②都市化。

生産手段の発達によって生活水準が上がり、人権尊重と機会均等などの原則が認められている社会、すなわち近代社会の状態。

宗教・道徳・学芸などの精神的所産としての狭義の文化に対し、人間の外的活動による技術的・物質的所産。


「広辞苑」(第六版)より抜粋

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  息子を送り出すパウラの目は不安で満たされていた。そうせざるを得ないことは判り切っている。だが、それがあまりにも危険な任務であることも判っていた。それにも拘らず、何もしてあげることの出来ない自分の無力さを、彼女は呪っていた。その任務の最中に最愛の夫を失ったのを機に、彼女は信心をゴミ箱の中に投げ捨てた。神に祈ることの無意味さを悟った。子供の頃から大切に育て上げてきた信仰心は今や埃を被り、彼女がそれを顧みることは無くなっていた。自分の歩んできた道のりと、今、自分が置かれている状況を天秤にかけ、明らかに不当な苦渋を強いられていることに思いを馳せ、その元凶たる神を呪うことすらいとわないという心境にまで達していた。

 「大丈夫だよ。気を付けるから」

 息子のイヴァンはそう答えたが、何一つ「大丈夫」ではないことは彼自身が一番よく判っていたし、そんな言葉で母の心が慰められることは無いことも知っていた。

 もう都会で生きて行くことは難しいと、彼は考えていた。だからと言って、今さら田舎に引っ越すことも出来なくなっていた。ガソリンを含む、全ての化石燃料の供給は止まって久しかった。電力も失われた今、あらゆる交通機関はかつての文明の名残を留める、もの悲し気なモニュメントとなっていた。もちろん、物流が途絶えると同時に、食料を得ることは最も困難で、かつ重要な最優先事項となっていた。「あれ」が始まった時、即座に田舎へと移動した連中は上手くやっているのだろうか? そんなことを考えない日は無かった。だが「あれ」が、都会でのみ起こっているわけではないことを、彼は知っていた。テレビ、ラジオ、インターネットなどの情報伝達手段が沈黙を始める前のつかの間に、「あれ」が全世界で起こっていることを告げていたではないか。結局、何処に行っても同じだったに違いない。イヴァンは、都会に残った我々は致命的な判断ミスを犯した訳ではない、と自分自身に信じ込ませようとしていたが、その企みは今のところ成功してはいなかった。彼は今も、この堂々巡りを繰り返していた。


 大幅に人口の減った街にも、それなりの残留組が居た。当然、彼らの最大関心事は食料の確保である。各家庭からは主に男性が寄り集まり、グループを形成して食料調達の任に就いた。これまでの経験から、単独での行動は決して良い結果をもたらさないことが判っていたからだ。かつては、通りですれ違っても挨拶すら交わすことの無かった者同士が、あるいは家族同士が、今では強固な共同体を形成し、お互いに助け合うことの意味を理解していた。そうしなければ生きて行くことは叶わないのだ。「あれ」が、長らく忘れ去られていた人間同士の繋がりという、きわめて根本的な人間性を復活させるのに一役買ったと考えるのは、幾分シニカル過ぎるだろうか。

 「今日は東地区の物流倉庫に遠征してみよう」

 この九人から成るグループのリーダー的存在であるエアハルトが提案した。付近の商店、倉庫、会社や工場、病院や打ち捨てられた個人宅など、口にできる物が有るかもしれない、ありとあらゆる施設、地区を探索し尽くした彼らは、もう既にこの近隣には、彼らの家族を養うだけの食料が存在しないことを知っていた。公園や川沿いの土手、道路脇のちょっとした緑地帯など、地面が露出している部分では、僅かな野菜が栽培されてはいたが、それは、この地区に暮らす人々の腹を満たすには程遠いと言わざるを得なかった。彼らは生きる為に、危険を冒す必要が有ったのだ。

 その危険とは、主に二つの要素で構成されていた。その危険に対処するため、何人かのメンバーは銃を携帯していた。狩猟が趣味だった者はライフルを。だがそれらの火器は、二つの要素のうち、片方にしか威力を示さない。その一つが今、イヴァン達に降りかかろうとしていた。


 東地区の倉庫にたどり着いた彼らは、その内部への侵入経路を物色していた。灰色に薄汚れたその壁面は、例えば車などをぶつければ簡単に破れそうであったが、今時、動かすことの出来る車など存在しなかったし、大きな音を立てることもはばかれた。音を立てることは、己の存在を他者に開示することに外ならず、無用なトラブルを招くことを全員が承知していた。

 メンバーの一人、グスタフが倉庫の事務所と思われる小部屋へと続くドアに取り付いた。右手に拳銃を構え、ドアノブに左手を添えた。彼は従軍経験が有り、こういった役割を率先して引き受けていた。鍵は掛かっていないようだ。ノブがゆっくりと回された。そして音も無く、ゆっくりとドアが外に向かって開いた。グスタフは用心しながら中を覗く。少し離れた物陰からその様子を窺っていたイヴァンは、内部の机や椅子を垣間見ることが出来た。やはり倉庫に併設された事務所の様だ。グスタフがこちらを見ながら、左手で合図を送ってよこした。それを見た三人が、身を屈めながらドアの両サイドに移動した。その三人は、いずれも銃を携帯している。グスタフを含む四人が素早く事務所内に滑り込むと、突然、銃声が鳴り響いた。

 これが一つ目の危険要素だ。つまり、他のグループとの接触である。もちろんイヴァン達の様に対話を重んじるグループも有るが、いきなり攻撃してくる好戦的なグループも有る。この倉庫に陣取っていたのは、明らかに後者の類であった。

 銃撃戦が始まった。だが、待ち伏せされたイヴァン達は圧倒的に不利であった。建物の構造も知らない。事務所に侵入したグスタフ達四人が命を落とす前に、後続部隊であるイヴァン達を狙う狙撃兵が、倉庫の陰から現れた。こんな戦争の真似事はイヴァン達の本意ではなかったが、相手がこちらを敵視している以上、打つ手は限られている。イヴァンは大声を張り上げた。

 「俺達に戦う意思は無い! 話をしよう!」

 その提案に対する回答は銃弾であった。その弾は、以前は教師をやっていた人の良いローレンツのこめかみに穴をあけた。そこからはホーフガルテン公園の噴水の様に、血吹雪が噴出した。丸腰で残る四人の命は、今や風前の灯火と言えた。するとその時、地面が揺れた。外れかけた倉庫の壁や、明り取りの窓、事務所の窓ガラスがガタガタと音を立てた。敷地内に植えられた樹木もユサユサと揺れ、そこで翼を休めていた小鳥たちは、一斉に空へと逃げ去った。

 すると、倉庫脇のアスファルトが敷かれた通路に亀裂が走り、それと同時に、その表面がモコモコと盛り上がり始めた。それはイヴァン達の周りだけでなく、離れた場所から彼らを狙う狙撃兵の所にも現れた。裂けたアスファルトの隙間が開くと、その中から黒い腕が伸びた。それに続いて地表に現れたのは顔であった。イヴァンは悟った。もう直ぐ自分も父親の待つ天国に行くことになることを。

 今やそれらは上体を地上に出し、残りの半分も地中から引っ張り出そうとしていた。クラウスは、頭を撃ち抜かれて絶命したローレンツの右手から銃をもぎ取り、奴らに向かって発砲したが、それは無駄な行為である。奴らに小火器の弾など通じない。弾はプスプスと音を立てて、奴らの不気味な皮膚にめり込んだが、奴らがそれを気にする様子を見せることは無かった。その傷口からは正体不明のドロドロとした何かが噴出したが、それが奴らにとって、致命的ではないことは明らかであった。

 地中から現れた三体の魔物に挟まれる形で、イヴァン達と狙撃兵は退路を断たれていた。倉庫内に逃げ込むことも選択肢ではあったが、その中からも銃声と怒号が響いて来ることから察するに、内部でも同じような地獄絵図が展開されていることは間違いなかった。

 遠くの方では、狙撃兵が一体目の魔物に首根っこを鷲掴みにされ、その体は宙に浮いていた。彼は魔物の顔面に向かって、ライフルに残った弾の全て打ち込むという最後の抵抗を見せたが、弾切れになる頃にはその肢体はダランと垂れ下がり、既に息絶えていた。それでも魔物は、彼の首を掴む腕の力を緩めることは無く、更に締め上げた結果、グシャリというおぞましい音と共に彼の脊椎は粉々に潰れ、その首は体に対し妙な角度となってしまった。魔物が、そのぼろきれの様な死体を壁に向かって投げ付けると、地上2メートル程の所に赤い染みを残し、それはズルズルと地面に落ちて行った。

 イヴァン達四人は、残る二体の魔物に取り囲まれていた。そのうちの一体が、その大きな腕を振ると、たった一撃で二人の体が吹き飛んだ。その際、骨の砕ける不快な音が響き、彼らが即死、ないしはそれに近い状態で飛ばされたことをうかがわせた。もう一体は、イヴァンの隣にいたクラウスの腰を掴んで、その爪を体にのめり込ませた。

 「うぎゃっ・・・」

 悲鳴とも叫び声ともつかない悲痛な声を上げたクラウスの口からは、赤い線となって血が滴った。苦悶の表情を示すクラウスにはお構いなしに、魔物はそのまま彼を軽々と持ち上げ、残った腕で肩の辺りを掴んだ。クラウスは渾身の力を込めて魔物の腕を殴りつけたが、その行為には何の効果も認められなかった。最後の瞬間、クラウスはイヴァンの方を見た。そして魔物は、道端で拾った小枝を折るかのように、彼の背骨を折った。イヴァンはそれを呆然と見つめていた。何もできないことは判っていた。クラウスもそのことは承知していたはずだ。それが幾分かでも、イヴァンの罪悪感を軽くしていたことが救いであった。その時、最初に二人を吹き飛ばした奴が、イヴァンの肩にその手を置いた。ゆっくりと振り返る彼の目は、暗黒の破片を切り取ったかのような魔物の目を捉えた。そこには何の表情も、何の感情も、何の意思も見出すことは出来なかった。彼は思った。自分が帰らないと、家で待つ母が生きてはいけないことを。夫を失った彼女は、既に半分死んでいる。今、息子である自分を失っては、残りの半分の命の灯火もかき消されてしまうことを。魔物はもう片方の手を、彼の頭に添えた。イヴァンは目を閉じて母の姿を思い描いた。そして彼女が言うように、この世に神など存在しないことを理解した。魔物は彼の頭部を、その体から引き千切った。


 これがもう一つの危険要素であった。銃は効かない。もちろん重火器であれば、奴らに対し有効な攻撃手段となる。当初、人類はその英知の結集である軍隊をもって魔物と対峙した。しかしその戦いが長期にわたると、人類は組織だった有効な反撃を続けることが出来なくなった。いかに最強を誇る軍隊といえども、燃料や弾薬、電力、食料といった生命線を確保できてこそ、その機能を発揮することができる。それらを断たれた上での果てしの無い長期戦は、次第に軍隊そのものを消耗させ、衰退させ、いずれ人類の反撃は、散発的で偶発的なもののみとなっていった。今や原始的な「狩る者と狩られる者」という、最も判り易い構図に落ち着いていた。奴らは何処でも現れた。そして何時でも現れた。そこら中で現れた。何が引き金で現れるのかも判らなかった。イヴァンが想像したように、それは都会でも田舎でも同じであったが、彼にその事実を確認する機会が訪れることは無かった。

 この魔物たちは何なのか? 奴らはいったい、どこからやって来たのか? 文明が崩壊する以前、つまり、まだ人類が魔物に対する対抗手段の模索を放棄していなかった頃、この問題は大いに議論されていた。ある生物学者は「突然変異説」を唱え、その生体サンプル、ないしは死体の確保こそ重要課題であると説いた。またある宇宙評論家は「地球外生命体」として奴らを崇め、UFOに拉致された経験が有ると言う貧相な男をテレビ番組に担ぎ出しては、宇宙船の中に奴らが居たと主張させた。その一方である宗教家は「終末戦争」の到来を予見し、示唆的存在としての魔物の意味を説いた。政府は国民の安全を約束したが、それには何の裏付けも無いことは誰の目にも明らかであった。メディアが垂れ流す情報を鵜呑みにして、自らの頭で考えることを忘れてしまった愚かな市民は、ただセンセーショナルな言葉 ―― この場合はアルマゲドン ―― に踊らされ、地下シェルタ

ーに隠れる者や、盲目的に旅に出る者、山奥や離れ小島に身を隠す者などが現れた。各国の要人たちも、ほぼこれらと同じようなことをしていた。結局、政治家は自分たち以外の誰も助けようとはしなかった。そのうち、自分がこの国にとって重要で不可欠な存在であるというポーズをとることすら放棄し、己の安全確保のみに腐心した。街では、目につくものを手当たり次第に破壊する者、強盗強奪・レイプを繰り返す者、気に入らない奴を殺して回る者、意味も無く笑い続ける者、酒や薬をあおる者、楽器を演奏する者などが通りを徘徊した。ただし、この様に屋外に身を置く者たちは奴らの餌食となる確率が高いことが判り始めると、いつの間にか通りからは人影が遠のき、街の営みは静かに死んでいった。そしてイヴァン達の様に自宅に引きこもり、不要不急の事案に迫られない限り、表に出ることは無くなった。

 当初、警察や軍などがその捕獲を試みたが、彼らの企みが成功することは無かった。むしろ手痛い反撃を食らうのが関の山で、どんなに強力な火力を用いても生け捕りに出来ないのは、奴らが地上と地中を自由に行き来出来ることと密接な関係が有ると結論付けられた。そして何よりも奴らは、統制のとれた組織的な攻撃を得意としており、人間を捕食する為ではなく、殺すために殺していた。それは知的生命体である証であり、それ故、非常に効果的で狡猾な手法で、軍隊は無力化されていった。そしてその承諾し難い事実が、人類を暗黒の淵へと突き落とし、再び日の当たる表層へと昇り詰めることを諦めさせたのであった。


 ドイツのミュンヘン市郊外にて、イヴァンがその短い生涯を閉じていた頃、地球の裏側では、人類の再反撃に繋がるかもしれない、ある出来事が起きようとしていた。

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