序幕

そしてこれが、全ての起点となった

き‐てん【起点】

物事の始まるところ。おこり。「日本橋を―とする」


「広辞苑」(第六版)より抜粋

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 エミリーは森の中を歩いていた。傍らには愛犬のルナが寄り添っていた。既に年老いた黒いラブラドールの老犬の足取りは、若干怪しい感じも有ったが、一人と一匹が踏みしめる落ち葉の層はカサカサと賑やかな音を立て、その散歩を楽し気なものにするのに一役かっていた。彼らの奏でるリズミカルな音楽が、冬の訪れを告げる赤や黄色に染まった森を、素敵なコンサートホールへと変身させていた。そのステージも同様に、赤や黄色の落ち葉で斑に敷き詰められていた。エミリーは小学生の頃に学芸会で歌った「森のくまさん」を思い出し、軽やかな声で歌った。その声はモンタナの乾いた、それでいて優しくそよぐ風に乗って森の木々を縫うように縦横無尽に駆け抜け、そしてまた澄み渡る大空へと吸い込まれて行った。ルナは時々、その風の匂いを嗅いでいるのか、黒く艶の有る鼻をピクピクさせた。

 自宅のバックヤードから北に延びる広葉樹の森を、ルナを連れて散布するのが彼女の日課であった。地元の大学に通うようになった今も彼女は、暇を見つけては、おばあちゃん犬のルナを連れて、よくこの森を散策していた。彼女が子供の頃、よくそうしたように。

 見覚えの有る銀杏の木の根元でエミリーは、デイパックに仕舞い込んだ敷物を広げ、その上に座り込んだ。ルナは彼女の横にチョコンと座り、これから繰り広げられる夢の時間にワクワクして尻尾を振った。ルナは、エミリーのデイパックの中から、骨の形をした美味しいガムが取り出されることを知っているのだ。彼女の尻尾は益々激しく振られ、辺りを覆いつくす落ち葉を、土埃と一緒に巻き上げた。垂れた耳も良く見れば、精一杯立てられており、エミリーの一挙手一投足に全神経を集中していることが見て取れた。その様子を見てクスリと笑ったエミリーが言った。

 「用意は良い? 行くわよ~・・・ それっ!」

 エミリーが投じた骨型のガムを追って、ルナは森を疾走した。おばあちゃんになってもやはり彼女は、この遊びが大好きなようだ。その後のルナは勝手にあちこち走り回り、一人遊びに夢中になってしまうことを心得ているエミリーは、更にデイパックの中に腕を突っ込み、何やらガサゴソとしたかと思うと、アルミホイルに包まれた何かを取り出した。それは今朝、久しぶりに早起きした彼女が、両親が目覚める前にこしらえたサンドイッチであった。併せて光沢の有る緑色をしたスタンレーのボトルも取り出した。その中には熱々の紅茶が仕込まれている。子供の頃、まだ若かった両親と共にこの森を訪れては、この銀杏の木の下でお弁当を広げたことを思い出しながら、エミリーは湯気の上がるカップを両手でおさえ、口を火傷しない様にゆっくりと飲んだ。あの頃のルナは、まだ小さな子犬だったはずだ。そういう自分も、将来はどんな夢もかなうと思っていた、幼く夢見がちな少女であった。その夢が破れたとは言わないが、あの頃の自分が想像していた将来と今の自分には、いったいどれ程の隔たりが有るのか? 現状に不満が有るわけではないが、大満足しているわけでもないことは、心の底で気付いていた。最後に家族でここに来たのは何歳の時だったろう? そんなことを思いながらもう一口、紅茶を含んだ。


 そんな夢想からエミリーを引き戻すように、ルナの吠える声が森に木霊した。危うく彼女は、手に持った紅茶を落とすところであった。エミリーは緊張した。普段ルナは、決して吠えたりしない。グリズリーかもしれない。あるいはムースか? 静寂を突き破り、エミリーの鋭い指笛が森をつんざいた。直ぐにルナが彼方から反応した。それまで聞こえていた威嚇の声ではなく、愛すべき飼い主に送る、コミュニケーションの声が届いた。その声は徐々に近づいてくる。そのうち、落ち葉を蹴るルナの足音が、その声に混じり始めた。ルナはもう直ぐそこだ。下草の生い茂るブッシュを飛び越え、エミリーの懐に飛び込んで来たルナは、一瞬彼女の顔をペロペロと舐めたかと思うと、直ぐに自分が今駆けてきた方向に振り返り、そして再び威嚇の唸り声をあげ始めた。ルナを左脇に抱え、エミリーもそちらを凝視した。何かが近づいて来る気配を感じた。

 その足音は大型獣のそれであった。ズシリとした音圧が、自分を遥かに超える体格の持ち主であることを告げていた。エミリーは自分の失敗を痛感していた。熊除けのペッパースプレーは、つい先日、彼女のバックパックの中から取り出され、自室の本棚の隅に置かれたままだ。まさかこんな市街地の近くにグリズリーが現れるとは!『リビングストン郊外にグリズリー現る! 不幸な女子大生が犠牲に』彼女は明日の朝刊の見出しを想像し身震いした。しかしエミリーは、その悲観的な観測をやめる賢明さを持っていた。幼い頃より、フィッシングガイドである父、ジャックと共に野山を駆け巡っていた。母であるリンダも、キャンプスクールの講師を務めるほどのアウトドア一家の長女として育ったのだ。グリズリーに遭遇した際の対処法など、しっかりと身に付いている。彼女はバックパックを右手に掴むと、手付かずのサンドイッチをとスタンレーのボトルを中に放り込み、すっくと立ち上がった。グリズリーが、こういった手荷物や食べ物に気を取られているうちに、その場をそっと離れることが最も有効な生存手段であることを知っていた。

 その足音は、前方に茂るムゴマツの直ぐ向こうまで近付いていた。エミリーはバックパックを握りしめる右手に力を込めた。これをグリズリーの前に、ポンと置いてやるタイミングを計っているのだ。こちらの思惑が外れ、グリズリーがバックパックに興味をそそられなかった場合は万事休すである。従い、そのタイミングはエミリーの運命を決すると言っても、何ら大袈裟ではない。エミリーはカラカラに乾いた喉を潤そうと唾を飲み込んだが、流動性の有る液体は、彼女の口の中には存在していなかった。ただ、ほろ苦い何かが彼女の舌を痺れさせるだけであった。これがアドレナリンの味なのかしらと、彼女は心の隅で感じていた。

 それはムゴマツを右に迂回し、一本の大木の裏で止まった。幹の太さは1メートル近く、その高さは優に20メートルは超えようかという立派なシダーウッドの大木の裏に、そいつは居る。枯れた小枝が踏まれ、ピシリと音がした後は、耐えがたい静寂が訪れた。エミリーの口からは恐怖が堰を切ったように溢れ出しそうであった。それでも彼女は耐えた。その静寂を飲み込むように、じっと耐えながらシダーウッドの幹を凝視した。

 すると、その幹の、エミリーの眼の高さの辺りから何かが現れた。黒っぽい物で湿っているのか、何やら不気味な光沢をたたえている。それは幹の表面を這うように、ゆっくりとこちら側に伸びて来た。

 「えっ? 何?」

 エミリーは目を見張った。どうやらグリズリーではないようだ。ある種の安堵感や拍子抜け感が彼女を包んではいたが、得体の知れない物、あるいは者がそこにいることには変わりがない。彼女は更に目を凝らした。そして気付いた。それが手であることを。


 形は人間のそれであった。ただしその質感は全く異なり、爬虫類の様でもあり、あるいは金属の様でもあった。また、その大きさも異様であった。その手がシダーウッドの幹の表面を滑りながら伸びたかと思うと、その上に肩が現れ、そして更に上方に顔が現れた。身長178センチメートルという、女性にしては長身のエミリーであったが、彼女をして見上げるような位置に、その顔が現れたのだ。おそらくそれは、身長250センチメートルを優に超えるはずだ。その巨大な者は、木の陰からこちらを伺うように顔を覗かせていた。だが、エミリーの心臓を握りつぶすかのような恐怖を与えていたのは、その大きさではない。彼女の心を凍り付かせたのは、その異様な全身であった。それは宗教関係の書物に挿絵として描かれている様な、まさに異形の魔物であった。逃げ惑う人々に襲い掛かり、その死体からはらわたを引きずり出して食らい、切り取った人の首を高々と掲げて雄叫びを上げる。そういった、混沌とした地獄絵図に描かれる化け物である。モンスターである。

 その顔の表面は細かな凹凸によって形作られ、それは爬虫類の皮膚を思わせた。目には色の濃い漆黒の円が描かれているだけで、その内部に瞳孔らしきものは見当たらない。眉毛は存在せず、その代わり、吊り上がったように尾を引く眉尻は、そのままこめかみ辺りにまで伸びて頭部に消えている。鼻はおぞましき鷲鼻で、その形は男性性器を思わせた。耳は見当たらず、いやそこには虚無を映し出すかのような、丸い穴が穿かれているだけであった。唇らしき物すら見当たらない口からは、嗅いだことの無い不快な匂いが、黄色い歯の間から漏れていた。両手から延びる大きな爪は不気味な緑色で、人間の皮膚など容易く切り裂き、そのはらわたを引きずり出すために存在しているかのようである。その隆々たる筋肉は肉食獣のそれを思わせ、人間離れした肢体の躍動を連想させた。股間には人間の物と似た形をした性器らしき物が認められたが、その大きさは巨大で、もし人間の女性

がそれと交わったならば、彼女の膣は裂け、子宮だけでなく、その他の重要な内臓器官すらも貫かれて絶命することは間違い無いであろう。そして何よりも嫌悪を抱かせるのは、その黒とも緑とも茶色とも言えない色をした全身を覆う皮膚であり、それは顔と同じ質感で、鱗のようにも粘膜のようにも、更には無機的なステンレス製品の様にも見えた。そしてその表面には、半透明をした粘液状の何かが塗りたくられたように、ヌラヌラと照り輝いていた。

 魔物はエミリーに近づいた。それでも彼女は一歩も動くことが出来なかった。叫ぶことも、目を閉じることも、それどころか息をすることすらも出来てはいなかった。地獄の深淵を覗いたかのような、その目に射すくめられ、彼女の脳は統制のとれた意味ある指令を出すことを拒んでいたし、たとえ的確な指令が送られたとしても、全身の筋肉はいかなる信号も受け付けようとはしなかったであろう。彼女の右手からバックパックがずり落ちると同時に、エミリーは尻餅をつくように、力なく魔物の前に崩れ落ちた。魔物は更に、彼女との間合いを詰めた。その生臭い息が、エミリーの顔に直接及んだ。ルナは自分の飼い主に迫る脅威に向かって果敢にも攻撃を開始していたが、それにより魔物が、その行動を変化させることは無かった。そしてこれが、全ての起点となった。

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