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母親の異常とも思える対応に違和感を拭いきれなかった京子は、次の木曜に長時間の番台持ちを買って出て、あの母娘がやって来るのを待った。そして午後7時過ぎに、遂に二人が顔を見せた。やはり黄色いワンピースであった。前回のいざこざも有り、母親はいつにも増して不愛想に金を置くと、さっさと服を脱ぎ、浴室に消えて行った。女の子も小走りにそれに続いた。その後姿を見た時、京子の心臓が締め付けられるような感じがした。「キュッ」という音が聞こえてきそうな程、彼女の心が凍り付いた。女の子の背中に、紫色の大きなあざが見えたのだ。
何とも言えず嫌な感じが京子の全身を包み込んだ。冷や汗の様な物も出ていたかもしれない。鉛の塊でも飲み込んだかのような重々しい何かが、京子の中に沈滞した。
あれは・・・ 虐待だ。
ジリジリと過ぎる時間を持て余し、京子はしきりに貧乏揺すりを繰り返した。早くこの目で確かめたい。出来れば見間違いであって欲しい。落ち着かない様子の京子が浴室から出てくる女の子を認めたのは、二人が消えてから15分くらい過ぎた時であった。急いで番台から飛び降りると、京子は女の子に近付いた。「こんにちは」と言うと、優し気な表情を崩さない様に気を付けながら、彼女のバスタオルで全身を拭いてあげた。女の子は、そんな風にされた経験が無いのか、ちょっとくすぐったそうだったが、すごく嬉しそうな様子で「ありがとう」と言った。
腕、脚、背中、腹。あらゆる所に、その痕跡が有った。あざ、傷、中には火傷と思わせる痕が見受けられた。それはきっと煙草の火だ。それらは、あの黄色いワンピースを着た時に見えない位置に、巧みに隠されていた。その時、母親が出てくる気配を感じた京子はサッと身をひるがえし、急いで番台へと戻った。その際に、女の子に聞いた。
「名前は何ていうの?」
「ハルカ」
京子はニコリと笑って番台に登った。でも、それから後は、顔を上げて二人を視界に収めることが出来なかった。
京子は以前のことを思い出していた。絆創膏。そう、あの絆創膏に母親があそこまで過敏に反応したのは、虐待に気付かれまいとしたからだ。そうに違いない。そう考えると、あの二人にまとわり付く様々な違和感に、納得のゆく理由付けが可能であった。いつも黄色いワンピースを着ているのは、それしか与えられていないから。痩せ過ぎの身体は栄養状態の悪さを表している。ひょっとしたら、満足な食事すら与えられていないのかもしれない。週一の銭湯。一人ではお風呂に入らず、父親とも入らない。つまり、週に一回しか入浴させていないということではないか。考えれば考える程、何かに気付けば気付くほど、京子の心は圧し潰され、声にならない悲鳴を上げた。
だが、本当にそうなのか? ただの取り越し苦労ではないのか? その答えを得る為には、更に一週間待たねばならない。しかも一週間後に京子に与えられる時間は、ほんの数分だけなのだ。京子はジリジリしたまま七日間を過ごすことなど出来なかった。丁度、入ってきたタケシとケンジを捕まえて言った。
「ねぇ。ちょっと。アンタたち」
そう話しかけた京子に、タケシが面倒臭そうに答えた。
「何だよ? まだ何にもしてないよ」
京子は二人がご機嫌を損ねないように笑顔で言った。
「アンタたち、悪いんだけどさ、今出て行った女の子の後をつけてって貰えないかな? どこに住んでるとか、そういうの探って欲しいんだ」
ケンジは露骨に嫌な顔をした。
「えぇーっ、何でだよ。自分でやりゃぁいいじゃん」
「お願いっ! 私、ここに居なきゃいけないじゃん? 二人にコーヒー牛乳ご馳走するからさっ」
そう言って両手を合わせる京子にタケシが言った。
「俺はフルーツ牛乳ね!」
「うん、判った。お願いね」
タケシとケンジは、着替えやら入浴道具をその場に置くと、踵を返してハルカの後を追った。
二人に尾行されていることにも気付かず、ハルカと母親はテクテクと住宅街を歩いて行った。ハルカは楽しそうに話しかけるが、母親の方は相変わらず、適当に相槌を返すだけだ。そして児童公園を横切ると、一軒の安アパートに向かった。
その時、髪を茶色に染め、耳にはピアス。眉毛も短く剃ったタチの悪そうな男が声を掛けた。ハルカが嬉しそうに駆け寄る。
「あっ、パパっ!」
丁度、父親が返って来たところらしい。しかし父親は駆け寄るハルカには反応せず、母親の方に一言二言声を掛けると、咥えていた煙草を吐き捨ててかったるそうに階段を昇り始めた。その後ろを、ハルカと母親が続いた。ハルカは嬉しそうだったが、母親は終始俯いていた。子供であるタケシとケンジから見ても、ハルカが幸せそうには見えない。本人がそのことに気付いていない様子が、二人の心に言い様の無いしこりとなって残った。
尾行を終え、銭湯に戻った二人が事のあらましを伝えると、京子は考えるような顔付きになった。
「へぇ~、そんななんだ? ってか、アンタたち同じ学校でしょ? あの子、普段はどんな感じなのかな? 知らない?」
「学年が違うから、よく判んないよ」とフルーツ牛乳の栓を開けながらタケシが言った。
「そうだね。あの子、一年生か二年生だろ? たまに見かけるくらいだよ」ケンジもそんな感じだ。その手にはコーヒー牛乳が握られている。
「じゃぁさぁ、今度は注意して見てみてよ。学校での様子とか」
「いいけど・・・」ケンジは意味有り気な顔で京子を見た。
「今度は風呂上がりのアイス、奢るからさ! お願いっ!」
「よし判った。任せとけ、おねえちゃん!」
何処かで聞いた様な台詞だった。
その言葉を聞いて、京子はふと自分の子供時代を思い出した。京子は家族に愛情をもって育てられたので、ハルカとは全然異なる環境であったが、長女として育った自分に、兄のように接して可愛がってくれた信之を想い出したのだ。
「よし判った。任せとけ、京子ちゃん!」
それが信之の口癖だ。信之とは7つも年が離れており、同時期に同じ学校に通っていたことは無い。それでも家が近所の幼馴染みということで、いつも一緒にいたような気がする。京子にとって信之は、大好きな「お兄さん」だった。信之がどこかに冒険に行くと言えば、小さな京子も一生懸命、その後ろを付いて行ったものだ。一度など、子供二人だけで神楽坂辺りまで行ってしまい、大騒ぎになったことが有る。ご近所中が総出で探し回り、結局、夜になって牛込警察署の署員が二人を連れて現れた。その時、信之の父は思いッ切り息子の頭をどやし付けたが、京子の父、光男が娘を叱ろうとしたら、「京子は悪くない! 悪いのは俺だ!」と言って庇ってくれたことも有ったっけ。タケシやケンジが、ハルカにとっての「お兄さん」になってくれたら、きっと楽しい思い出を沢山作ってくれるだろうに。思い出しただけで、心の中がポッと温まるような思い出だ。丁度、京子の子供の頃のように。京子はそう思わずにいられなかった。
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