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 「貴方も物好きですね、タカヒサ」とPUZは言った。プログラムにより合成された一連の周波数配列情報を、人間の可聴音へと変換するサウンドボードが作り出した疑似音声からは、呆れているような響きを感じ取ることは出来なかった。だが、PUZが呆れ気味であるという確信がタカヒサには有った。そしてPUZは続けた。

 「勝算は有るのですか?」

 PUZの「勝算」という表現が可笑しくて、タカヒサは笑いながら応えた。

 「こうする事が俺にとっては「勝ち」なんだよ。判ってるくせに」

 そう言うとタカヒサは人工太陽の照明を見上げ、その無機的な光の向こう側に何かが見えるかのように目を細めた。しかしそこに、何も見つけ出す事は出来なかった。タカヒサはつまらなそうに肩をすくめ、そして後ろを振り返った。背後には見慣れた赤い大地と、絶え間無く増殖を続ける不気味な街が横たわっていた。そこで生きる人々のささやかな悲しみや喜びなどあずかり知らぬとでも言いたげに、赤い大地をくり抜くように造られたドームの中にマーズ・エンジェル・シティーは腰を据えていた。


 普段は意識すらしていなかったが、このスーパードーム内にそびえる巨大な構造物群が、その時は妙にタカヒサを圧倒した。地上数キロにも及ぶ超高層ビルの森が霞みながら遥か上空のモヤに吸い込まれている。その乱立する金属とコンクリートの柱があたかも、重々しく広がるモヤを支える支柱の様にすら見えた。いや、ひょっとしたら、本当にそれらがこのスーパードームの天井を支えているのかもしれない。ただそれは遠過ぎて、タカヒサの立つ地上 ――下層階級の人々が住む居住区―― からは、その様子を見ることが出来ないだけなのかもしれない。

 それらの柱の間を縫うように、無軌道ビークルレーンが複雑な3次元の網目を形成し、コンピューターグラフィックスで見た事のある人体モデルを思わせた。骨にあたる部分が超高層ビル群、ビークルレーンは血管だ。血管よりも数は少ないが、主要な幹線沿いに敷設されている公共交通機関専用レーンは、さしずめリンパ腺といったところか。ただ、人体モデルと明らかに違うのは、極彩色の宝石でデコレートされたかのようなけばけばしい骨や、小さな光粒が規則正しく行きかう血管の存在だ。その骨の中には商業区画や工業区画、居住区画が混在し、このスーパードーム、つまり火星上に栄える最大かつ唯一の都市、マーズ・エンジェル・シティーの心臓部を構成していた。

 しかしタカヒサには、そこに何の温かみも感じる事が出来なかった。きらびやかな外見とは違って、その内側は高密度に充填された「無」なのではなかろうか。事実、タカヒサにとってそれは「無」でしかなかった。マーズ・エンジェル・シティーの何処で誰がどんな事をしているのか、タカヒサは知らない。上流階級の人々が住む300階以上のエリアがどんな様子かも知らなかったし、知りたいと考えた事も無かった。火星に住む人々の日々の営みが、そこに存在しているという実感さえ抱くことが出来なかった。

 火星に降り立ったエンジェル。それが街の名の由来だ。タカヒサはエンジェルとやらを見た事は無いが、この街の様子から察するに、さして魅力的な奴ではなかったに違いない。

 「エンジェル・・・」とタカヒサは呟いた。今までこの街に住んでいて、こんな気持ちになった事は初めてであった。これも地球を訪れた影響だろうかと思うと、タカヒサは一人苦笑いするのであった。


 モバイルのディスプレイ上部に開けられた、小さな穴の裏に隠された小型カメラを通してその様子を見ていたPUZは、タカヒサの目には何か別の物が見えているのであろうと推察した。そして、その胸ポケットにはローズがくれたカワセミの羽が大切に仕舞い込まれており、それが彼の心に大きな勇気を与えている事も、PUZは承知していた。


摩天楼を見上げるタカヒサの背後から、浅黒い色の男が声をかけた。

 「そろそろ出港ですよ、シズクイシさん」

 現実に引き戻されたタカヒサが、PUZがインストールされたモバイルを閉じながら振り返ると、そこには、これから乗る船の船長が立っていた。

 「こちらです。付いて来て下さい」

 タカヒサはあわててPUZをザックに押し込むと、船長に続いてタラップを上り始めた。船長は振り返りながら言った。

 「しかし、貴方も物好きなお人だ」

 ついさっき、PUZにも同じ事を言われたばかりだ。苦笑いするタカヒサに向って船長は言葉を続けた。

 「今更地球に何の用が有るんです? あそこは人の棲む所じゃぁない。しかも、帰りの船は予約していないって言うじゃないですか!」

 タカヒサは困ったような顔で言った。

 「向こうに友達が居るもんですから」

 タカヒサはもう一度振り返り、街を見やった。いや、街ではなく、火星を目に焼き付けたのかもしれない。

 「その友達ってのは、地球で何をやってるんですか?」

 なおも問いかける船長に、タカヒサはちょっとだけ考えて、キッパリと言った。

 「フライフィッシングです」

 船長は何の事だか判らず、ポカンとした顔で口を開けた。

 タカヒサはなんだか楽しくなってきた。船長との会話がではなく、もう直ぐ地球に行けるという実感が湧いてきたからだ。そう、俺には「勝算」が有る。PUZの言うところの「勝算」だ。と言うか、この火星上に俺の「勝算」は無いのだ。言葉に出して肯定はしないだろうが、その点に関してはPUZも合意しているはずだ。そう、こうする事が俺にとっての「勝ち」なのだ。

 タカヒサは当惑する船長に言った。

 「地球には鱒っていう魚が居るんです。知ってます? 毛鉤というのが有って・・・」

 二人の後ろ姿は、惑星間航路を往復する巨大なタンカー、MSSベルグレイドの船底に設置された小さな搭乗口の中へと消えていった。

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赤と緑 大谷寺 光 @H_Oyaji

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