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仕事は非番だった。洗濯物を干し終えた彼女は居間に戻ると、ディスプレイのリモコンを使って、気象情報のデータ閲覧を開始した。マーズ・エンジェル・シティーは、外気と完全に隔絶された巨大な気密ドームである。その内部は、この街の地下に構築された原子炉区画が作り出す莫大な電力によって人工的に空調されており、雨も降らなきゃ風も吹かない。彼女が見ているのは、宇宙空間に吹き荒れる太陽風の気象予報であった。スティーヴンの乗る船は、今朝から惑星間航路へのアプローチを開始していた。
彼女がスティーヴンと暮らし始めたのは、約1年前。軍のキャンプに隣接するバーで声をかけられたのだ。そこで恋に落ちた二人は、その年、新たに増築された一般階級者用 ――つまり、低所得者用―― の居住区、PG棟に住み始めたのだ。元来、裕福な軍人の家系に育ったスティーヴンは、そんな低所得者用の居住区に住む必要は無かったのだが、強引な父親の言いなりになる事をよしとせず、あえてこの区画を選んだのだ。そんな彼の実直な性格も、彼女を惹きつけた要因の一つだ。
気象情報によると、今後一週間、特に目立った太陽風の予報は出ていなかった。彼女は安心してディスプレイの電源を切った。そして、小さな命の芽吹いた自分のお腹をそっと撫でてみた。その膨らみは、まだそれほど目立ったものではない。しかしそこには、確実に小さな波動が存在している。それは絶えず増幅を続け、来たる誕生の時を迎えるべく着実に成長を遂げていた。
スティーヴンには、この事はまだ告げていない。今度の航海から戻ったら報告しよう。そして私達は結婚するだろうと彼女は思った。その報告を聞いた時のスティーヴンの顔を想像して、彼女は一人微笑んだ。いや一人ではない。そう思った彼女は、再び自分のお腹を優しく撫でた。
次にスティーヴンが戻ってくる頃には、お腹の膨らみはもっと大きくなっていることだろう。
買い物から帰った彼女が洗濯物を取り込んでいる時だ。マーズ・エンジェル・シティーのあちこちに存在する太陽光システムが、一瞬、またたいたかと思うと、大気の浄化システムがあげる唸り音が、チョッとだけそのトーンを落とし、また直ぐに正常な音に戻った。ほんの一秒にも満たない、瞬間的な停電が起きたようだ。すると、何やら妙な感覚が彼女を襲った。何だろう? 何とも言えぬ「予感」の様な物か。古風な言い方をすれば、『虫の知らせ』というやつだ。彼女はすぐに衛星テレビのスイッチを入れた。臨時ニュースが流れていた。
『先程、太陽において、今年最大のフレアが観測されました。このフレアは2087年の観測開始以来、最大規模と推測され、気象省の予報では、今から約1時間半後の午後6時47分頃、強力な太陽風が火星に到達するものとみられます。火星の生存圏システムへの影響が懸念されますので外出を控えるようにして下さい・・・』
そのニュースでは触れていなかったが、彼女には事の重大性が判っていた。地上勤務とはいえ、軍に勤務する軍医だ。太陽のフレアが惑星間航路上の船に与える破壊的なダメージは知っている。
彼女は家を飛び出した。何処に行くつもりだったのか本人にも判らない。ただ、じっとして居られなくなったのかもしれない。彼女とスティーヴンが勤務する基地に向おうとしたのかもしれない。とにかく彼女は家を飛び出し、集合居住地区の階段を駆け下りた。そして地上階に降り立つ寸前、彼女の体はフワリと宙を舞った。残り数段のところで足を踏み外したのだ。
気が付くと彼女は、自分が地面に這いつくばっている事を知った。側頭部も強打しているようだ。それも痛烈に。下腹の辺りには、生暖かい感触が有る。彼女には、それが何に由来する物かわからなかった。体を打ち付けたせいで失禁してしまったのだろうか? そんな事を考えながら目を閉じた。薄れ行く意識の外縁で、何人かが彼女の周りに集まってきているのが判った。
目を覚ますと、彼女は軍の病院のベッドに横たわっていた。その部屋は必要以上に明るく、天井の塗料が反射する光が彼女の目を眩ませた。どうしてこんなに明るくする必要が有るのか? 彼女が目覚めた後、最初に考えたのはそんな事であった。そしてまた眠りに落ちた。
回復の兆しを見せ始めた彼女に、医師が告げた事実は冷酷であった。医師によれば、幸運にもあの時、マーズ・エンジェル・シティーは夜を迎えようとしていた。太陽風の直撃を受ける事も無く、街はその危機をやり過ごす事が出来たのだ。ただ、観測史上最大規模の太陽フレアが残した太陽風は、惑星間航路上を走る全ての船を飲み込んだ。宇宙空間に浮かぶ船には、それを庇護してくれる物は何も無い。スティーヴンの船も例外ではなかった。彼の乗るMSS巡洋艦ヘレナは、誤ってプールに落としたスプーンのように、何の抵抗も見せずに沈んだ。宇宙という底の無い大海原に。軍はその破片一つ回収する事は出来なかった。
その知らせを聞いても、彼女は顔色一つ変えなかった。いや、変えられなかったのかもしれない。受け入れ難い現実を前にして、人はその心の鉄扉を硬く閉ざし、感情が溢れ出さないように自己防衛を図るものだ。聞きたくない事は聞かない。ましてやここ数ヶ月間、彼女の内部で着実に息づいていた微かな温もり、手を添えれば感じる事が出来た小さな膨らみ、耳を澄ませば聴く事が出来た可憐な波動を、もう彼女は感じる事が出来なかった。そう、彼女は全てを失ったのだった。
「その後、あのベッピンさんは、何処かに行っちまったなぁ。誰に別れを告げるとも無くね」
黒ビニールは遠くを見ながら続けた。
「噂によると、死んだ彼氏と同じ惑星間航路の船に乗ってるそうだ」
重い沈黙が流れた。それは、悠久の歴史を貫いて流れ続ける大河のように、いつまでも変わることなく続くようであった。
やっとの思いで、タカヒサは重い口を開いた。
「つまり・・・彼女にご主人は居なかったと?」
「あぁ、俺の知る限りはな」
「じゃぁ・・・息子さんも?」
「あぁ、俺の知る限りはな」
黒ビニールはもう一度、同じ様に言った。
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