第九章 杞憂
1
火星に戻ったタカヒサが最初に向かったのは、エバニッシュの待つB&F社であった。タカヒサの面会申し出を受け付けたカウンターの女性は、ヘッドセットを通して上階と何やら話し込んだ後に、”VISITOR”と書かれた来客用IDカードを手渡しながら、228階に行くようにと言って微笑んだ。
タカヒサは、通路奥にズラリと並ぶエレベータの中から200~250階用と書かれたボタンを押した。エレベータを待つ間、タカヒサは壁の人工大理石を眺めながら地球での出来事を思い出していた。本物の大理石が、地球という天体のダイナミックな営みによって形作られる様子をボンヤリと想像してみたりした。地質学的に言えば火星こそが“死んだ”星であり、地球は今もなお、活発に新陳代謝を繰り返す“活きた”星であった。そんな地球の姿を“生”で見てきたのだ。それは、幾億もの言葉をもってしても言い表せない強烈なインパクトであった。
チーンと鳴って開いたドアが、夢想にふけるタカヒサを現実に引き戻した。「ふぅっ」とため息ともつかない息を吐くと、タカヒサはエレベータに乗った。
日焼けしたタカヒサがオフィスに足を踏み入れると、それを見つけたエバニッシュが両腕を広げて大袈裟に迎え入れてくれた。
「お帰り!どうだった? 地球は?」
その言葉には、糞みたいな僻地に左遷されていた同僚が帰って来たような、今の自分の立ち位置が最高とでも言いたげな響きが含まれている事に、タカヒサは気付いていた。「でも・・・」とタカヒサは思う。エバニッシュは知らないのだ。地球がどんな所なのかを。
タカヒサはエバニッシュの期待を裏切らないよう、疲れ果てたような風を装って応えた。
「いやぁ、大変でした。もう二度と行きたくないですよ、あんな所」
それを聞いたエバニッシュは嬉しそうに言った。
「渡航前には、レポートの出来次第でボーナスが付くと言ったが、上に掛け合って無条件で出してもらうように計らったよ」
エバニッシュが恩着せがましく言うので、タカヒサも大袈裟に喜んで見せた。
「本当ですか!? 助かります!!」
しかし、タカヒサにとってはもうどうでも良いことであった。約束のレポートを提出したら、サッサと帰るつもりだ。しかし、レポートが保存されている記録媒体を受け取ったエバニッシュは、すぐさまコンピューターに向かうと、その内容を斜め読みし始めた。
「ザックリと読ませてもらうよ。暫くそこに腰かけて、待っててくれないか。コーヒーはいつもの給湯室に有るから、勝手に飲んでいいぞ。残りのギャラはそれからだ」
エバニッシュは、ディスプレイから目を離さずに言った。タカヒサは仕方なく、近くの空き椅子を引き寄せた。エバニッシュにはこれまでも世話になっているし、今回も大金を払ってくれている。ここでそっけない態度をとる事は自分の美徳に反している。そんな事を考えていると、制服を着た女性が隙の無い身のこなしで近づき、インスタントコーヒーの入った樹脂コップを手渡してくれた。
「あっ、どうも、恐れ入ります」
女性は業務的な笑顔をタカヒサに返すと、一礼しただけで自分のデスクへと戻って行った。その後ろ姿を目で追いながら、香りの飛んだ茶色い液体を一口飲み下すと、タカヒサはエレベーターホールで中断させられた夢想の続きを楽しむため、チョッと上を見上げた姿勢で目を閉じた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます