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タカヒサの投じたフライは、上手くフィーディングレーンに乗ったようだ。ライズを繰り返す魚に向かって、まるで本物の虫のように流れた。そして、今まさに魚が水面を割って、その鼻先を出そうとした瞬間、ラインに引っ張られたフライがほんの一寸だけ、不自然な動きをしたのを鱒は見逃さなかった。フライは何事も無く、ポイントを通り過ぎた。
後ろで見ていたオオサワがニヤニヤ笑っていた。
「何故ですか? どうして食べてくれなかったんですか?」
完璧だと確信していたタカヒサには、鱒がそっぽを向いてしまった理由が、どうしても判らなかった。いったい何処が、オオサワやアオタと違うと言うのだろうか? オオサワは言った。
「ドラッグだよ」
「ドラッグ?」
「そう。ポイントの直前でラインに引っ張られたフライが、変な動きをしたのが判ったかい?」
タカヒサにはそんな動きは見えていなかった。
「その不自然な動きを見た鱒は、警戒心を強めてしまうんだよ」
どうやら鱒という魚は、タカヒサが思うよりずっと賢いようだ。まんまと一匹吊り上げて、オオサワをギャフンと言わせるつもりだったが、そうは問屋が卸さないという事か。
「そんなに難しいんですか、釣りって?」
「まぁ、野生動物相手の遊びだからね。こちらの思うようにはならないさ」
確かにそうだろうが、一匹くらい釣りたいものである。タカヒサが再びキャスティングを始めようとすると、無口なアオタが押し殺した声を発した。
「待て!」
それは決して大きな声ではなかったが、強い意図が含まれているかの様な、ピーンと張り詰めたトーンであった。恐る恐る振り向くと、二人と目が合った。
「何です?」
オオサワは人差し指を口に当て「シィーッ」という合図を送っていた。一方、アオタは、タカヒサの背後を指差している様であった。再び前を向いたタカヒサは、アオタの指差していた辺りを見回してみた。
「ツィィィーッ」
何かが聞こえた。タカヒサはその声のした方に目を凝らした。
「チリリリリーッ」
更に声が続いた。
何処だ?
何処に居る?
何が居る?
よくよく見てみると、川の上に張り出した枝に、瑠璃色の物体を見つけた。それは紛れもなくカワセミであった。その可憐な鳥は、体の割に大きな嘴を持っており、その嘴に咥えた小魚を、しきりに枝に打ち付けていた。おそらく、暴れる魚を気絶させてから飲み込むのであろう。
タカヒサはそっと後ろを振り返った。アオタは笑っていた。オオサワは親指を立ててウインクをしていた。タカヒサも親指を立てて笑った。
再び前を向くと、カワセミは二匹目の獲物に狙いを定めている様であった。息が詰まるような数秒間の後、カワセミは飛翔した。その姿は決して優雅な物ではなく、むしろ細かなピッチでパタパタパタっと羽ばたく感じであったが、その小さな躯体が猛スピードで水面に突き刺さる瞬間は、地球上に残る野生動物の逞しさを感じさせた。
言われてみれば、今教えてもらっていたフライフィッシングだってそうじゃないか? 水面を流れる昆虫に、水中から襲い掛かる鱒の姿こそ、弱肉強食の世界そのものだ。そんな感慨にふけっていると、首尾良く二匹目を捕獲したカワセミは再び同じ枝に戻り、小魚を枝に打ち付ける例の動きを、またせっせと繰り返すのであった。
タカヒサは感動に打ち震えていた。この南極にやって来て以降、全てが素晴らしかった。他にどんな表現もふさわしくはないと思った。川も森も魚も鳥も、ただただ素晴らしい。そしてこの地球も。それ以外の言葉は必要なかった。こんなに生命力に満ち溢れた天体が、他に有るのだろうか? タカヒサは地球の酸素を、体の隅々にまで行き渡らせるかのように大きく息を吸った。
大きく広げたタカヒサの両腕に驚いたカワセミが、ヒュッと飛び立った。
「ツィーッ、チリリーッ」
見上げるタカヒサの視界を横切って、カワセミは何処かへと飛び去った。それでもなおタカヒサは、樹木の隙間から顔をのぞかせる青空に向かって、大きく両腕を広げ続けた。
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