第八章 森の音

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 翌日も車による移動が続いた。珍しい植物に満ちた草原も、二日目となると若干、食傷気味であった。単調な風景ほど疲れるものは無い。揺られる車内でウツラウツラとしていたタカヒサであったが、オオサワとアオタの会話が夢の中にまで入り込んできて、安息な惰眠が妨げられた。それは「森」という単語が聞こえたからだ。タカヒサは寝ぼけた頭で聞き返した。

 「ほひはひへはんふが…」

 「何だって?」

 「もひはみへはんぶひ?」

 意味が判らずオオサワが困っていると、助手席のアオタが言った。

 「森が見えたんですか? と言っている」

 「何で判るっ!?」

 びっくりしたオオサワが問いただすと、アオタが言い放った。

 「そうとしか聞こえん」

 「耳腐ってんじゃないのか?」

 アオタの耳が腐ってるかどうかは別にして、確かにタカヒサはそう聞いていた。

 「森が見へたんふね?」

 まだ少し寝ぼけている。

 「あぁ、あれが森だ」

 三人の行く手に鬱蒼とした緑の帯が姿を現した。これまでの草ではなく、樹木と呼ばれる植物の群生である。そのボリューム感は草原の比ではなく、多種多様な生物の巨大なコロニーを思わせた。

 森の外れに車を停めると、オオサワが車のエンジンを止めた。すると、それまでエンジン音にかき消されていたあらゆる音が、車窓を通して入り込んできた。

 何だろう?

 タカヒサにはその由来を知る事が出来なかったが、とにかく森という物は、音にあふれた世界の様だ。そこには鳥の鳴き声も含まれていたのだが、それを見た事も無いタカヒサには、鳥の存在を感じる事は出来ずにいた。


三人は再び徒歩での移動を開始した。これまでの荒野や草原とは異なり、森の空気は独特であった。ヒンヤリとしているし、若干、湿度が高いようだ。ただ、それだけではない「何か」が、森の空気には含まれている様で、それが何なのかはタカヒサには判らなかった。歩きながら、そんな話を他の二人に振ってみると、「俺達にも判らないな」とオオサワが答えた。

 「一説によると、森にはマイナスイオンが豊富で、それが人体に良い影響を与えるとも言われている」

 「マイナスイオンですか…」

 「あと、樹木が発するフィトンチッドという物質がリラックス効果を持っているという説も聞いたことが有るな」

 「フ… フトン… ???」

 「それよりも俺は、枝葉の擦れ合う微かな音とか、虫達の鳴き声なんかが充満している空間その物が、人間にとって居心地の良い物なんじゃないかと思うけどな」

 そう言われれば、さっきから変な音が聞こえている。

 「虫って何です? あのチロチロ聞こえる音が虫なんですか?」

 すると、それまで黙って二人の会話を聞いていたアオタが突然、草むらに腕を突っ込むと、「ほら」と言って、その腕をタカヒサに向かってグィと伸ばした。そして、その手を開くと、そこには見た事も無い不思議な生物が乗っていた。タカヒサがマジマジと観察していると、「チチチッ」と鳴いて突然、ピョンと跳躍した。

 「うわぁっ!」

 その唐突な動きに腰を抜かしそうになったタカヒサは、ヘナヘナとその場にヘタリ込んでしまった。

 「何ですか今のっ!?」

 目をパチクリさせているタカヒサに、アオタが言う。

 「バッタの一種だ」

 「バッタ? バッタって何ですか? どこに跳んで行ったんですか?」

 面倒臭くなったアオタは「さぁ」と言ったきり、何も言わなくなった。タカヒサの頭に張り付いているバッタの事には、一言も触れずに。


 森を歩くのは、それなりに大変な作業であった。もちろん道などは無いので、時には植物を鉈で振り払いながら進んだりした。そうやって悪戦苦闘しながら進む区間も有れば、スイスイと歩きやすい区間も有ったりした。こういうのを前人未到というのだろうか、とタカヒサが考えていた時、気づいてしまった。アオタとオオサワが、同じような長さ50cm程の筒状の物を携帯しているのを。

 何だろう?

 何かの武器だろうか?

 この先に、そんな武器が必要なヤバい動物でも居るのだろうか?

そう思うタカヒサであったが、二人があまりにもリラックスしている様子なので、深く考えないことにした。この先どんな事が有ろうと、タカヒサには二人に付いて行くしか選択肢は無いのだから。

 更に進むと、何やら聞き覚えの有る音が聞こえ始めた。タカヒサにはそれが、毎朝の起床時にベッドに備え付けられたスピーカーから流れる音だと気付くのに、更に数分間が必要であった。はたと思い当って、タカヒサは声を上げた。

 「川ですかっ!?」

 「そうだ」

 オオサワはニヤリと笑った。

 「川が見たかったんだって?」

 「そうです!地面の上を液体の水が流れてるんですよね?」

 「ま、まぁ…間違いではないな…」

 オオサワの歯切れの悪い言い方が腑に落ちなかったが、それよりももう直ぐ川を見られるという興奮で、タカヒサはワクワクしていた。

 ところが、いよいよ川の音がすぐそこで聞こえる程近付くと、オオサワとアオタの様子が急変した。それまでは世間話をしながら、ノンビリと散歩している様な雰囲気だったのに、突然無口になり、それどころか茂みに身を隠しながら、草の陰から川の方を偵察するようなしぐさを見せ始めた。いやいやそれより、例の50cm程の筒状の武器をザックから取り外しているではないか!

 この二人の様子だと、相手は下等な動物などではなく、知能を有する …ひょっとしたら人間? タカヒサはチビリそうになる股間に力を込めながら、心の中で叫んだ。

 聞いてないぞ!聞いてないぞ!

 南極が、こんな戦闘地帯になっているなんて聞いてないぞっ!?

 タカヒサは、エバニッシュのヘラヘラした笑顔を思い出していた。

 あぁ、俺は騙されたんだ…

 ここで死ぬのが俺の運命なのか…

 かと言って、何が出来るわけでもなく、ただ黙って二人を見守る事しかできなかった。股間の丸く濡れた跡は、先ほどよりも少し大きくなっていた。


 「まったく、何事かと思いましたよ」

 口を尖らせて不平を言うタカヒサに、アオタが言う。

 「バカかお前は?」

 「わっはっはーっ!」

 アオタの言葉を聞いて、更に口を尖らせるタカヒサを見て、オオサワは腹を抱えて笑っていた。しかし、タカヒサは本当に怒っているわけではなかった。それより、目の前で繰り広げられる魔法の様な光景に心を奪われていた。

 例の50cm程の筒は武器などではなく、魚を釣り上げるための道具らしい。筒の中には、先に行くほど細くなる4本の棒が入っていて、それらを連結すると3m程のロッドといわれる物になる。そのロッドにリールという糸巻状の器具を取り付けて使用するのだとか。二人がそのロッドを器用に操ると、リールに巻き取られていた糸が、何故だかスルスルと空中を延びた。その糸の先には綿クズの様な物が結ばれており、それを流れる水に向かって運ぶのだ。だがタカヒサには、その糸がそのような動きをする理由が、どうしても理解できなかった。ただ、その魔法の様な動きよりもタカヒサの心を躍らせたのは、水面を流れる綿クズに向かって水中から飛び出してくる魚達の存在であった。

 「また出ましたよっ!魚が出ましたよっ!」

 「うるさいなぁ。言われなくても判ってるよ」

 そう答えるオオサワも、本当にうるさいと思っているわけではないようであった。

 「何ていう魚なんですか?」

 「今のはレインボーだね」

 「他にも何種類か居るんですか?」

 「そうだね。あとはブラウンとかブルックとかいう鱒も居るよ」

 魚が出た瞬間、バシッとアワセをくれたオオサワであったが、隣でタカヒサが騒ぐもんだから、どうもタイミングが狂わされている様であった。

 「ます?」

 「あぁ、サケ科の魚で海に下るのが鮭。陸封型が鱒って呼ぶんだ」

 「でも、どうして魚が飛び出してくるんですか?」

 「そりゃぁ、これを餌だと思ってるからさ」

 そう言ってオオサワは、糸の先に結ばれた綿クズを顔の高さに持ち上げ、タカヒサの目の前でブラブラさせた。

 「これは…」

 「そう。バッタだよ」

 今朝、タカヒサの腰を抜けさせた、あの虫そっくりに作られた綿クズであった。良く見るとそれは綿クズなどではなく、様々な素材を組み合わせて作られた、精巧なイミテーションではないか。その素材は、それこそ綿の様な物も有れば、ワイヤー状の物、それから…鳥の羽だっ!

 タカヒサはローズから貰ったお守りを思い出した。それは正に、鳥の羽を使って作られていた。

 「鳥の羽も使うんですか?」

 意外そうな顔をしてオオサワが言った。

 「ほぅ。鳥を知ってるのかい?」


 タカヒサはローズとの一件を話して聞かせた。そして懐からそれを取り出すと、宝物のように包みを開いた。すると瑠璃色の不思議な光沢を放つ一枚の羽が姿を現した。それを見たオオサワとアオタは顔を見合わせた。

 「カワセミだね」

 「あぁ、カワセミだ」

 「そうです! カワセミです! ローズもそう呼んでいました! お二人は見たこと有るんですかっ!? この鳥を、お二人は見たことがあるんですかぁぁぁっ!?」

 凄まじい勢いでオオサワの胸ぐらを掴み、その首をグワングワンと前後に揺さぶるタカヒサに、「まぁ、そう興奮するな」という具合に左手を上げながら、その質問に答えたのはアオタであった。

 「さっき飛んでたの、見なかったのか?」

 「へっ?」

 「鳴き声だって聞こえてたのに、何やってたんだ?」

 「ほぇっ?」

 タカヒサの間の抜けた声が森に木霊した。

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